茨城経協11-5月号 トップインタビュー(8)

体を鍛え、夢を追う

坂寄 休日はどんなことをして過ごしますか。

高橋 ゴルフとジョギング、マラソンですね。週一のジョギングは5キロから10キロ、これはゴルフを続けるための基礎体力作りです。ゴルフはなんとか今年中にシングルになりたい。去年12月までにシングル入りを果たしたかったのですが、果たすことが出来ませんでした。シングルプレーアーになって、シニアゴルファーになるのが次の夢です。

坂寄 HPを拝見しますとフルマラソンに挑戦したそうですね。

高橋 去年初めてホノルルマラソンに出ました。

時間半でゴールしました。制限時間がないので、ピクニック気分で楽しく走れます。ここでは5歳刻みの年齢ごとに到着順位が示されて、95~100歳という枠もありました。アメリカ人で腰が90度に曲った人が走っていましたよ。走っている格好は、ほとんど歩きでしたね。3万人参加するホノルルマラソンで半分ぐらいが日本人と言われますので、平均旅費がいくらで、どのくらい経済効果があるものやら。東京マラソンは制限時間が7時間ですよね。1日ぐらい東京停めたってかまわないから、制限時間をなくしたらどうかとか、今年は申し込んだのですが抽選で外れましたので、10万円払って走るチャリティーランナーをもっと増やすために、7万円にして基金を増やしたらとか、外国人枠を10,000人とかに増やして出場人数を

35,000人から倍にして東京を活性化したらどうかとか、苦しかった30㎞付近から、いろいろ愚考を広げ、楽しんでゴールしました。

坂寄 忙しい社長業を退任したらどうなさいますか。

高橋 女房とは唯一趣味が合って楽しめる海外旅行にでかけたいものです。若いころからほとんど家を留守にしていましたので、その穴埋めに頑張らないとね。息子は31歳になりますが、最初から生産技術部に入れました。若いうちに技術技能をしっかりと身につけて、一人前の生産技術者になってから営業を経験させようと思っています。これからは次の世代の後継者育成にも力を入れていきたいですね。

坂寄 巨大地震の後でご多忙のところ、貴重なお話を拝聴しました。ご活躍とご発展をお祈りいたします。ありがとうございました。   

 

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(7)

中国進出の意味

坂寄 上海への工場進出も大きな決断だったのではないでしょうか。

高橋 結果的には成り行きだったのですが、1991年に上海協立機械部件有限公司を立ち上げました。この6月で創立20周年になります。私が月に1回4~5日行って指導してきましたが、日本人スタッフは1人も派遣していません。パートナーの上海人はもともと協立製作所茨城工場に2年半勤めていた人です。

坂寄 どんな経緯で中国進出を決めたのですか。

高橋 バブル全盛の頃で業容拡大が続き、本工場の増築を検討していました。ところが土地の用途変更があり、増築を認めてくれませんでした。茨城へ工場進出して7~8年後に市街化調整区域に指定されていたのです。ある人の知恵で当地選出の県会議員の力を借りて町や県へ何度も陳情に出かけ、ようやく確認申請が出たときは2年半が経過していました。バブルがはじけた直後で山形県や岩手県への進出も考えましたが、どうせリスクを冒すならいっそうのこと中国へ行こうと決めたわけです。

坂寄 上海協立社は順調だったのですか。

高橋 会社は小さいのですが、日系の油圧機器メーカーとしてしっかりした技術を持ち、売上の50%を油圧機器で占めます。中国国内はもとよりフランス、スペイン、オランダの会社と取引しています。現在従業員は私を入れて28人です。ピーク時は60人もいましたが、数年後に危惧される中国経済の鈍化傾向を見越して拡大基調を抑えています。少数精鋭の今の方が60人時代より売上も利益も多いですね。中国には外注工場が非常に少ないので、農村部で工場経営を行いたい人に経営のやり方と機械設備の導入方法や加工方法を教えて、100%仕事を発注しています。付加価値の低い粗引き加工は外注工場に出し、精度の高い仕上げ加工だけを社内で行っています。

坂寄 中国への進出は順風満帆と言えますね

高橋 「小さく生んで大きく育てる」を基本に活動してきました。最初、上海協立で製造した部品は100%日本の協立に輸出していましたが、設備償却が大きいため、設立後8年間は赤字でした。転機は1998年の日本の金融危機でした。日本の協立が不況で仕事を発注できなくなり、協立以外のお客様の開拓を始めました。日系や米国の油機メーカー、近年ではヨーロッパのメーカーとも取引を拡大し、業績が拡大してきました。20年間操業を続けられ、利益も出てきたことは成功といえます。しかし一番の成功といえるのは私自身への教育です。文化の違う外国で、一人で考え行動して来た事が、困難なことにぶつかっても自分自身で切り開く行動と考え方がより身についたと思います。2月に上海に行き、2031年までの営業許可の延長申請が受理されました。これからが成功といえるように頑張って行きたいと思っています。

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(6)

坂寄 社長の協立製作所歴はいつからですか。

高橋 私は日本大学理工学部で精密機械工学を学び、卒業後2年間は他社で修業を積みました。父とは在学中、地方に工場を建設することを条件に「会社の跡を継ぐ」と言いました。東京での製造業は将来性がなく、私が協立製作所に入っても活躍する場がないと思ったからです。父の出身地が桜川市(旧岩瀬町)でしたので、私が大学3年(1970年)の時茨城工場を開設してここへ進出してきました。私が協立製作所へ入社したのは24歳、1974年でした。最初の5年間は製造現場でフライス盤や旋盤を使って切削作業等に従事し、その後コンピューターで制御するNC旋盤やマシニングセンターを駆使して工程設計、ツーリング設計、プログラム作成、段取り作業、加工作業、検査を行ってきました。その合間に工場経理を勉強し、見積もりを覚え、営業をしながら、将来の協立製作所をどの方向に向けるか悩み考えてきました。現場中心に仕事をしながら20年が過ぎ、その間経営管理を行い、経営戦略を練ってきました。43歳で社長になり、山あり谷ありの18年が過ぎて行きました。私には過去に5度の不況を乗り切った体験があり、そのたびごとに優秀なスタッフがサポートしてくれ、感謝しています。

坂寄 お訪ねしてまず目についたのが社屋の壁にプリントされた社章でした。すっきりした印象的な社章ですね。

高橋 これは1993年に2階建の事務棟(2F)とスプール専用工場(1F)を建てたときに、知人にお願いしてデザインしてもらったのですが、「協立」のKRに地球儀を乗せたものです。建機需要は今後世界的な伸びが期待でき、我々も地球規模で貢献できるとの意気込みを示しています。

坂寄 経営のポイントはどこに置きますか。

高橋 「挑戦と創造」をコンセプトに、「他社よりも優れた品質・コスト・納期で適格にお客様に対応して信頼性の高い会社」をめざして頑張っているところです。お客様に信頼される会社であると同時に課題解決ができる会社作りを目指しています。

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(5)

坂寄 東日本巨大地震を被災して、後世に残す反省とか教訓をどのようにまとめておいでですか。

高橋 当社の次世代の人達のために、私がどのように考えて行動したか反省もこめて記録を残しました。その一部を社長ブログに掲載し、社員に見てもらうようにしました。今回の原発事故の対応で、想定外という言葉を聞いて多くの疑問を感じました。失敗学で有名な東大の畑村名誉教授は「見たくないものは見ない。考えたくないことは考えない。米国は考えようと努力する国。日本は考えないままにしておく国」と言われました。日本の個々人は適切な判断能力を持っているのに、個人の集合体である日本は考えない国になっている。私たち日本人にはこのような体質があることを意識して、変えてほしい。そして最悪のことを考えない危機対策には限界があることを肝に銘じてほしいと思っています。                                        

独自技術で高いシェア―

坂寄 ところで、協立製作所はどんな物を作っているのですか。

高橋 当社は油圧機器の専門製造メーカーとして、建設機械に使用される油圧ポンプや油圧バルブのOEM商品とこれらの精密部品を作っています。建設機械などに使われているピストンポンプやバルブが主力製品です。油圧ショベルをコントロールするバルブに使われている「スプール」と称する部品はお客様から絶大な信頼をいただき、世界シェア―の約45%を占めていて、「made in Japan」の一翼を担っています。従業員300人、年商48億円(2011年1月期)です。

坂寄 創業の地はどこですか。

高橋 1954年、現会長である父の高橋庫吉が東京の品川で切削工具の研削・製造を始め、4年後の1958年2月、有限会社協立製作所として創業したものです。 父は兄弟でこの会社を始めたもので、協力してやっていこうとの趣旨で「協立」としたようです。

坂寄 この地での操業は長いのですか。

高橋 1970年からですので、もう40年になりますね。研削加工専門の工場から、部品の一貫加工ができる体制づくりを行ってきました。現在では原材料を購入し、NC工作機械による切削加工、焼き入れ、研削、組立て、試験、塗装の一貫生産ラインを稼働させています。

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(4)

 坂寄 この未曽有の災害を前にして、平然としておられたわけは・・・・?

高橋 「どうしようもない」というときがありますね。いくら考えても何もできないことがありますが、今回はどうしようもない現象に遭遇しながらも、すぐに情報を収集し現場を確認したところ「頑張ればできる」と思いました。そしてその後の対応についていろいろと手を打つことが出来ました。当社では、生産性向上を図るため、3年に1回位の割合で、大幅な機械のレイアウト変更を行っています。社員は機械の水平出しなどの手順について充分慣れていました。この経験は工場の復旧作業に大いに力になりました。

坂寄 地震から10日後の22日には生産設備の復旧作業をすべて終え、連続生産が可能になったことから、次の課題は何になりますか。

高橋 今回の災害では、幸いにも①人的災害がなく、②海外のインフラ関連による経済活動が好調なため、受注環境も良く、モノを作れれば復旧・復興のスピードは上がると思っています。経営的にも2011年度の業績では、前半は落ち込むものの後半に入ると挽回計画による増産が見込まれますので、現段階での計画修正は考えていません。

 お客様の大手は日立建機、コマツ、KYBの3社で、多かれ少なかれ震災の影響が出ています。復旧のスピードにも早い・遅いの差はありますが、いずれ回復して順調な生産になる時のために当社は在庫を作っておきたいと思っています。夏場の節電対策も検討しています。従来から当社は8/12、13、14、15、16をお盆休みにしていましたが、さらに今年は8/17、18、19の3日間も休んで、土曜、日曜を入れて21日まで10日間を休みます。追加した3日の休みは10月、11月、12月の土曜日を1回ずつ出勤にして振り替えると、挽回計画にも合うことになるでしょう。

坂寄 メーカーの場合、節電計画の対策づくりに苦労するところが多いようですね。

高橋 たぶん15%の節電はいけると思っています。最近は電気に関して無頓着になっていますからね。ピーク時に警報が鳴るようにするとか、いろんな待機電力を節電するために電源を切ってしまうとか、早出・サマータイム制等いろいろアイディアを出しあって検討しています。25%節電はきついでしょうが、15%はなんとかして実現したいと思っています。

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(3)

坂寄 社員全員への協力体制はどのようにしましたか。

高橋 14日の月曜日、8時から全社員で朝礼を行い、東日本巨大地震で亡くなられた方へ1分間の黙とうをささげたあと、迅速な復旧と生産再開を図るため「災害復旧対策本部」を設置することを説明し、全員の協力を要請しました。本部長(社長)、副本部長(専務)、隊長(総務部長、製造部長)、副隊長(総務部主任、生産技術部長)、係等を決め、それぞれの役割を徹底しました。復旧作業のステップは①機械の水平出し、②試削り、③品質確認、④連続運転ができて完全復旧としました。工場内の詳細レイアウト図を壁に掲示し、図面上の全機械に作業の進捗状況を示す色分けを行い、見えるようにしました。この日から全社員一丸となって復旧作業に取り掛かりました。私は 1週間現場の対策本部に常駐し、壁に貼りつけた工場レイアウト図に示される色分けの進捗状況を楽しみながら壁とにらめっこしていました。

 お陰さまでお客様やお取引様、機械メーカーさんから、13日/名、14日/50名、15日/60名、16日/50名、17日/20名、18日/20名、19日/10名、20日/8名、21日/4名、総延人数227名もの応援者を派遣していただきました。水準器もご提供いただきまして復旧作業は予定通り進み、3月23日 朝対策本部を解散しました。この日から当社の社員だけで本格稼働に取り組みました。応援くださった皆さんに心からの感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがたかったです。

 

大震災を乗り越えて

坂寄 被災地はもちろんですが、今回の地震・津波・原発がもたらした災害は日本全国に大きな影響をもたらしましたね。

高橋 先のリーマンショックは100年に一度の経験でしたが、今回の震災は1000年に1回起こるかどうかの体験でした。自分が生きているときに体験できた貴重な出来事と思うこともできまして、私は意外に平然として対処しておりました。お客様へのお見舞いや応援のお礼のご挨拶に出かけてお会いする方々には、私が全然落ち込んでいないのを見て不思議がられましたね(笑い)

 

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(2)

坂寄 ご自宅の方はどんなだったでしょうか。

高橋 会社から数分のところにある自宅へは18時ころ帰りました。ガラス類のほとんどが割れて、台所は足の踏み場もないほどだったとは家内の話で、先に帰った子供たちが片付けと掃除を済ませていました。幸い屋根と外部の壁に損傷はありませんでした。周辺ではブロック塀が倒れ、屋根瓦が破損している家が多数ありました。

 

復旧対策本部立ち上げ

坂寄 帰社する車の中での1時間をどのように過ごされたのですか。

高橋 こちらの状況を報告するために、ずうっと携帯電話でお客様と連絡を取り続けました。もちろんつながらないことの方が多かったのですが、ようやく兵庫県の川崎重工さんと話すことができました。電話はすぐ切れてしまうので、一方通行でしたが、メールに切り替えてお客様へ状況を説明し「応援に来てほしい」とお願いしました。KYB(カヤバ工業)さんとも電話がつながりまして「応援依頼」を直接いたしました。

停電していた電気が夜11時ころ回復したので、会社に戻って工場の中を見回りながら復旧の手順を考えました。300台超の機械のうち230~240台の水平出しが急務であると判断しました。3~4人がチームを組んで、1日3台が限度として80日かかる計算になります。水平出しに必須な「水準器」が当社には2台しかありませんので、この作業を自前で進める限り40日かかります。なんとか1週間で復旧するため20個以上の水準器を集め、1日60人超の応援体制をいかに組むかが課題だと思いました。

12()、13()は出勤してきた社員と各持ち場で散乱した工場内の後片付けをしました。専務と復旧計画を調整し、私の常駐場所を「現場事務所」にしました。この両日とも私は応援をお願いするために、恥も外聞もなくお客様、取引先、機械メーカー、機械商社に連絡を取り続けました。

茨城経協11-5月号 トップインタビュー(1)

茨城県経営者協会の加藤部長からインタビューの依頼があった。インタビューの内容は①今回の大地震、リーマンショックなどの逆境から立ち直るための心構えやポイント②今回の大地震での復旧に関わる他社(協力会社など)からの支援の状況、ありがたみ③経営に関する思い④会員企業に対する復旧に向けてのメッセージなどで、インタビューアーはキヤノンのOBでこれまで会員企業の経営者にインタビューを数多くされている坂寄氏が行うとのことでした。

 

 4月25日、当社の第一会議室で午後3時から5時の予定で行った。インタビューアーの坂寄氏、経営者協会の加藤さん、生井さん、後藤さんも同席し、和やかな雰囲気の中で行われた。経営者協会の月刊会報誌5月号のトップインタビュー記事として掲載された。この内容を社長ブログに載せることにした。

 

 

東日本巨大地震に遭遇

坂寄 未曽有の災害をもたらした3・11地震の時はどちらにお出ででしたか。

高橋 栃木県小山市にあるコマツ小山工場の会議室で、15時からの打ち合わせを待っていました。地震の多い茨城県に長年住んでいますので、すぐおさまるだろうと思っていましたが、この時はだんだん横揺れが激しくなり、急いで太い柱の元にしゃがみこみました。5分もたったでしょうか、少し揺れが収まってきたとき階段を駆け下りて表へ出ました。この時は怖かったですね。友人の車に乗りこんでテレビをつけて巨大地震であること、大津波の警報が出ていることを知りました。会社に電話してもつながらないし、家族や東京に住んでいる両親、娘への電話もつながらない。

 1時間ほどして小山工場の退避命令が解除されたので、自分の車に乗り込み会社に向かいました。国道50号線は停電のため信号機が消えており、大渋滞でした。それでも農道や裏道を走って1時間20分で会社へつきました。車中で専務・総務部長と携帯電話がつながり、人的被害はなかったこと、建物の被害は軽微だが、機械の横ずれが激しいとの報告を受け、16時全員を帰宅させたこと、翌土曜日は自宅の状況を見て出勤できる人は会社に出てほしいと全員に話したことを知りました。

 17時20分頃会社について、そのまま工場に行ってみると機械のずれがはっきりわかり、周囲の棚が倒れていました。2階の事務所では机や椅子が倒れ、パソコンが床に滑り落ち、天井のボードが剥がれ落ち、まさに足の踏み場がありませんでした。余震はなお続いていました。

 

お客様協力会中国研修

昨年の中国研修のブログが抜けていた。時期は過ぎてしまったが、載せることにした。主要顧客であるK社様の協力会の海外研修会(20109/129/16)が中国で行われ、現在世界で一番元気のある中国の建機メーカー・油機メーカーを見学した。中国は難しい国と言われているが、我々の会社にとっては避けて通れない市場である。我社の進むべき方向性を考える重要な機会を提供していただいたお客様に感謝したい。

 

私は上海での仕事を済ませるために、視察団より1日早い911日に上海に入った。翌日の12日集合場所であるレストラン「阿一海鮮」に出向きました。「阿一海鮮」は上海人の誰もが知っている老舗のレストランで、上海でもおしゃれな店が立ち並んでいる准海路にあり、私は現地法人「上海協立」の総経理に送ってもらった。渋滞を考えて一時間前に「阿一海鮮」を訪れましたが、視察団は予定より2時間近く到着が遅れたため、結果的に3時間店で待つことになってしまった。私が中国上海を最初に訪問したのは1989年です。21年も訪問していると交通事情などで時間に遅れたことが何度もありましたので、中国出張の時は待ち時間をつぶすためにいつも23冊の本をカバンに入れておきます。このときもロビーで本を読んでいると店員が気を遣ってお茶を持ってきてくれました。昔の上海ではこのようなサービスは考えられないことだった。

 

さて翌13日私が最も楽しみにしていたのは国内最大手重機メーカーの工場見学会です。私がこの重機メーカーを知ったのは5年ほど前からでローカルの油圧ショベルメーカーで販売シェアーに名前が載ってきた頃で、直近の油圧ショベルのシェアーは10%に迫る勢いとのこと。総経理のお話は油圧ショベルの生産を毎年倍々に増やしていき、長期展望では世界NO1の油圧ショベルメーカーを目指し、その為人・物・金を積極的に投資し、海外展開も積極的に行うと自信を持ってプレゼンしていた。K社殿の油圧機器を高く評価される一方で自社の発展のスピードに付いてこられないメーカーはバッサリと切り捨てる。あの自身に満ちた発言の根拠の裏づけがどこから来ているのか一度じっくり聞いてみたいとおもった。

 

我々の会社は高度成長時代から第一次オイルショック、第二次オイルショックを経験し、低成長時代に突入した。その後1985年前のプラザ合意により円高が容認され、輸出を継続するため徹底した原価低減の時代に入って行った。円高を乗り越え、つかの間のバブル経済に入ったが、1990年バブルの崩壊、1998年の不良債権に端を発した金融危機、ITバブルの崩壊、そして2008年のリーマンショックと幾多の障害を乗り越えて、今日の企業があることを思うとき、あの自信がうらやましくもあり、危うさも感じられた。中国と20年前から関わってきた私としては、しばらく中国の経済は成長が続くと思うが、注意深く、慎重にそして時には大胆に関わって行きたいと思う。

 

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               『三一重機昆山』

 

孔子いわく(3)

20世紀の中国、毛沢東が発動した文化大革命においては別の意味で孔子が重要な存在となった。毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。しかし現代中国では林彪の再評価の動きがあり、もちろん孔子の評価はゆるぎない。現在孔子の子孫は直系以外も合わせ400万人いると云われ、孔子の町として観光地化しているところもある。

現代でも孔子の教えは確実に我々の思想と行動の規範になっている。日本で広く知られている仁・義・礼・智・信のキーワードは、孔子が説いた儒教にある。『仁』とは施しの心、優しさ、愛である。
『義』義とは人助けの心、義侠心である。
『礼』礼とは礼儀、礼節の心である。
『智』智とは正悪を真に理解できる知恵である。
『信』信とは信頼されるような人になることである。

人は『仁義礼知信』の五つの徳を養わなければならない。これを五常の徳といい、言葉と行動が一致すること。人を欺かないこと、嘘をつかないこととされている。この五常の徳が今の普通道徳の基礎と成っている部分とのことです。

孔子のほんの一部を記してきたが、論語をもう一度読んでみたいと思った。

上野の湯島天神に湯島聖堂孔子廟(大成殿)として祭られている。湯島天神のホームページから写真を拝借した。

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  寛政2年(1790)、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興をはかった。柴野栗山・岡田寒泉ら林家の系統以外の学者を教官に登用し、寛政9年(1797)には聖堂西隣の学寮・宿舎を建てるなど、施設の整備拡充をはかり、幕府の正式の学校とした。やがて昌平坂学問所と名づけられ、直参の弟子のほか、諸藩の俊才が青雲の志を抱いて集まる最高の学府となった。 

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