●旅立ち
3月31日㈰、午後自宅を出発し、東京駅に夕方到着。徒歩5分で八重洲ターミナルホテルにチェックインした。東海道と中山道の出発の時に宿泊したホテルは、廃業していたので、東京駅近くのホテルにした。
5時半に東京に住んでいる次女がホテルまで迎えに来て、予約してあった焼肉店で食事をした。お酒は少ししか飲まないようにした。3年前の東海道五十三次歩き旅の出発前夜、今回と同じ店で食事をし、多少酔っ払った方がすぐ寝られると思い、ビールを飲み、ホテルに帰ってからも、日本酒を飲んでベッドに横になった。しかし熟睡できたのは、2時間位で目が覚めてしまい、その後熟睡することが出来なかった。グズグズしても仕方ないので、出発を30分早めて、4時半に出発した。寝不足で蒲田に着くまで足取りは重く、リュックが肩にのしかかり、大変だったのを思い出した。
部屋に戻り、中山道前夜の事も思い出された。ホテルにチェックイン後、部屋でスマホに記した行程表を見ようとしたところ、画面がロックしてしまった。電源をリセットしても同じだった。東京駅周辺の量販店のドコモショップに行き、修理出来ないか、尋ねたところ、量販店なので修理は出来ないと言われ、明日からの歩き旅の計画とナビが設定されているので、スマホがないと京都まで行くことが出来ないと訴えた。すると店員が強制的に電源を切り、再度電源を入れることは出来るが、記憶が消失してしまう可能性があると提案してきたので、苦情は一切言わないから強制的に電源を切ってと頼んだ。幸い記憶は消失していなかった。安心して、寝酒を飲まずに9時に就寝した。
また山陽道の前夜では、下関駅を下車し、関門海峡や九州を一望できるタワーに上ったが、あいにくの雨で景色は良く見えなかった。明日の一日目から雨合羽を身に着けて歩くのは気が重い。下関駅で地物の刺身定食を頼み、気持ちを切り替えた。翌日のリュックに入れる荷物は取りやすい位置に雨具類を置き、天気予報を確認して、寝たのを思い出した。
明日は奥州街道を日本橋から青森県三厩まで836㎞、22日間の旅の始まりだ。
●まえがき
2021年の東海道五十三次、2022年の中山道六十九次、2023年の山陽道・西国街道(下関~大阪~京都)に続いて、奥州街道を歩いて日本橋から青森の三厩まで行くことにした。奥州街道は江戸時代に整備された五街道の一つで、江戸日本橋を起点とし、宇都宮までは日光街道と同じルートを行き、宇都宮から白河、福島、仙台、盛岡、青森を結び、五街道の中では最長の街道と言われている。宿場数は三厩宿まで120余りである。奥州街道の呼び方については、幕府道中奉行が管轄する江戸~白河の間を奥州道中と呼び、白河以北は、仙台城下までを「仙台道」、仙台と盛岡の間を「盛岡道」や「南部道」、盛岡~三厩の間を「松前道」と呼ぶこともあった。
今回、2002年無明舎出版発行の「奥州街道(歴史探訪・全宿駅ガイド)」を参考にした。この本は街道にまつわる歴史や民俗の話をまとめた歴史探訪のガイドブックである。私はこの旧街道の名所旧跡をグーグルマップに入力し、行程表を作成した。1日の歩く距離を40㎞前後とし、宿泊施設を探して、1日の道のりを決めていくことにした。宮城県・岩手県は旧宿場に宿泊施設がないところがあり、50㎞を越える街道は電車を一部利用することにした。奥州街道を想像する上で、浅田次郎氏「流人道中記」、安藤雄一郎氏「15の街道からよむ日本史」、司馬遼太郎氏の「街道を行く 北のまほろば」を読み、街道歩きのイメージを膨らませた。
そんな時、友人の大橋さんが各宿場までの行程をグーグルマップでアレンジした地図、旧宿場のホテルを一覧表にした資料を贈ってくれた。行程表を作る時間は大幅に短縮され、1月末には行程表が完成した。問題は昨年から各地で、熊の出没のニュースが相次いでいたので、どのコースを選ぶか苦心した。行ったことのない土地なので、最初にグーグルマップで歩くルートを決め、緑の濃いところをストリートビューで道路状況と周りの環境を確認した。ストリートビューで確認できない場所は国道の歩道を行くことにした。リュックに付ける鈴はもちろん、ホイッスルと熊よけスプレーを用意した。周囲が山林や人気のない場所では定期的にホイッスルを吹いて、近づかないように熊に知らせることにした。熊は生来臆病な動物なので、出会いがしらさえなければ大丈夫だ。
2023年の「山陽道・西国街道旅日記」の最後ページに2024年は奥州街道900㎞を目指すと記したが、行程表を作成したところ836㎞であった。
●奥州街道行程表(日本橋―青森 三厩)
日本橋~三厩宿(みんまや)までの地図