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東海道五十三次旅日記(27)

東海道五十三次旅日記

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五回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した」と云う。しばし足を止めて、碑文を読み、最後に明治維新を成就した勤王の志士たちは彦九郎を心の鑑と仰いだとの一文が往時の武士の気概を表している。三条大橋から記念写真を撮ろうと通行人を探したが、 非常事態宣言下では通行人は見当たらなかった。河原に降りて、散策を楽しんでいたが、まもなく雨が降り出した。71歳の挑戦は終わった。

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東海道五十三次を徒歩でゴールした充実感は言葉に表すことが出来ない。60歳のとき、初めて挑戦したホノルルマラソン(42.195km)でゴールした時の充実感と同じ感覚だ。当初、江戸時代の人に出来て、現代の自分が出来ないことはないと思っていた。た。しかし当時の人は草鞋を履いていたが、私は超距離を歩くシューズ・靴下を使用したので、足の疲労は格段に違う。もし私が草鞋を履いていたら、1日で小田原宿から三島宿まで行けなかった。まして足場の悪い箱根越えを半日で、芦ノ湖まで行くことはできなかっただろう。新幹線の中で旅日記をまとめている時、大井川の橋にさしかかった。わずかな時間で橋を渡った。それもあっという間だ。私は大井川の橋を渡るのに、20分近くかかったことを思えば、現代人と江戸時代の人の時間の流れが、これほど大きく違うことが、物事を考える上でどのような違いが生まれるのだろうと思考した。24歳の時、茨城工場を立ち上げるため、東京から赴任した。従業員は自分も含めて4人が最初の出発だ。毎日、睡眠時間を削って、現場での作業後、トラックを運転してお客様の工場への納品作業、21時過ぎに工場に到着するので、守衛に門を開けてもらい、誰もいない入荷場に部品を置き、帰るのは午前0時。トラックを運転しながら、将来の会社のあり方を夢想していた。その反動で時間に追われない東海道五十三次を歩いて旅することにした。そして71歳の挑戦だ。

東海道五十三次旅日記(26)

東海道五十三次旅日記
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13日目57日金曜日  石部宿出発

朝、3時に起床。天気予報を再確認したが、京都の天気は午後から降水確率が高く降水量も多いので、リュックにある雨具類や下着類をホテルのゴミ箱に処分し、身を軽くして早歩きで 行こうと、5時出発を1時間早め4時に出発し、ゴールの京都三条大橋には昼前に到着する計画に変更した。道順も草津宿、瀬田の唐橋、大津宿、三条大橋の予定を、南草津駅を過ぎたあたりから、近江大橋に向かい近道のルートを取った。瀬田の唐橋は東海道五十三次でも有名な橋なので、行きたかったが、昼前に到着しないと雨に降られる可能性が高いので、あきらめた。距離は35km12時前には間違いなく到着する。

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草津宿は東海道と中山道の分岐点で、草津の中心的な本陣には元禄年間から明治までの宿帳に、浅野内匠頭や吉良上野介、徳川慶喜、皇女和宮、土方歳三、シーボルトなどの名も見えると云う。8時半ころ近江大橋の入り口に来た。思ったより大きな橋だ。近江大橋は滋賀県丸の内町と草津市新居浜を結ぶ琵琶湖上の道路橋で、1985(昭和60)3月に竣工した。橋を渡り終えた国道にマックがあったので、ハンバーガーを 頼み30分程休憩した。琵琶湖線の膳処駅手前で南口出ると、ここから瀬田の唐橋からの本来の街道に合流した。京阪電鉄の大谷駅を920分に通り過ぎ、山科駅入り口には1020分に着いた。山科駅から京都薬科大学に向い写真に収めた。前日に薬剤師の友人から京都薬科大学を通るかと聞かれたので、すぐ近くを通りますと答えたからだ。京都の道は坂が多い。あと2時間ほどでゴールの三条大橋に到着すると思うと、自然と足が前に進む。三条大橋の手前で坂本龍馬・お龍「結婚式跡」の石碑がひっそりと建っていた。司馬遼太郎の「竜馬が行く」を何度も読み返していた若いころを思い出さずにはいられなかった。
龍馬は10日間で京都から江戸まで行っ
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たと云われているが、私は12.5日かけて、1145分京都に着いた。三条大橋手前に「高山彦九郎 皇居望拝之像」銅像があった。私はこの人物は知らなかった。碑文によると「江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入り口あった。今ここにある銅像は高山彦九郎正之(1747年~1793)の姿を映したものである。高山彦九郎は群馬県の出身である。

東海道五十三次旅日記(25)

東海道五十三次旅日記
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正確には兄の信雄に切腹を命ぜられた悲運の武将とも云われている。戦国時代の小説を数多く読んでいた私にとって感慨深いものがあった。この時の時刻は630分。朝はやいので、町の人はあまり見かけなかった。ここから坂下宿を通って、最後の難所の鈴鹿峠越えだ。国道1号線に並行して旧街道を行くと鈴鹿馬子唄会館に着いた。50歳の時、先輩方の誘いで小唄の「松風」の門人になり、53歳で名取になった。名取名は師匠の松風若裕の一字を頂き、松風裕日出と称した。名取式を四ッ谷の神社で神主にお祓いを受けたことが、記憶に新しい。
江戸小唄を中心に芝居小唄・歌舞伎小唄・新内・端唄等を稽古した。10年程前に小唄の会は退会したが、時々口ずさむ。友人からぜひとも鈴鹿馬子唄会館に立ち寄って鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」を聞くように勧められた。昔から最後の難所である鈴鹿峠は手前の坂下宿では晴れているが、鈴鹿峠に来ると曇って、土山宿に入ると雨が降っているという、当時の天候が鈴鹿峠を境に大きく変わることを、馬子が馬の手綱を引きながら唄っていたと云う。
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馬子唄会館に到着した時間が早かったため、まだ開いていなかった。残念。関宿を過ぎてから、ダラダラとした上り坂、坂下宿を過ぎたころから急勾配になったが、旧街道は舗装されていたので、歩く易かった。しかしなかなか 鈴鹿峠の道標が見つけられないうちに、下り坂になってきた。私の鈴鹿峠のイメージは峠の一番高い所に行くと、360度周りが見渡せると思い込んでいたため、少し拍子抜けした。下り坂なので、足が進んでいく。10時頃「道の駅土山」があったので、少し早い昼食を取った。店員さんのお勧めの十割蕎麦を食べた。歩く旅でしか味わえない美味しさだった。40分ほど休息を取り、出発した。水口宿に入るころには道は平たんで、歩道は広いので、歩き易かった。水口宿は古くからの宿場町であると同時に城下町でもあったが、関ケ原合戦後に落城し、幕府の直轄地になったと云う。水口宿から石部宿まで平坦な国道をひたすら歩き、ホテルに到着した。石部宿は三条大橋から36km、京から江戸へ向かう旅人が最初に泊まる宿場だ。国道1号線を歩いたため、宿場時代の遺構はほとんど見なかった。到着はほぼ予定通りの15時半だった。部屋に入ってバスタブに水を張り、疲れた足を冷やす。コールドスプレーよりはるかに効き目があるので、中途からこの方法に切り替えた。翌日の京都の天気予報は午後から雨、朝早く出発して昼前には三条大橋に着くようにしよう。9時就寝。

東海道五十三次旅日記(24)

東海道五十三次旅日記
12日目5/6木曜日 亀山宿出発       
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4時に起床し、いつも通り前日に買ったお握りとパン、そして野菜ジュースを飲み準備した。今日は関宿、坂下宿、土山宿、水口宿、そして石部宿の「甲西アートホテル」まで43kmの旅だ。ホテルを5時に出て、しばらくすると、山間に高速道路が見えてきた。高速道路の名前は分からないが、だんだん近づいていくと、橋脚の側壁に歌川広重の東海道五十三次の浮世絵が両側に八つ描いてあった。大きさは縦2m横3mくらいだろうか。人もほとんど通らない場所によく描いたと感心しながら、更に歩いて関宿に入った。関宿は1601年に徳川幕府が宿駅制度を定めた際、東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整備された。鈴鹿峠を控えた東海道の重要な駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通して繁栄したと云う。町に入ると江戸時代にタイムスリップしたような錯覚にとらわれるほど感動的だった。東西約2kmに渡って江戸時代の町屋が並ぶ関宿は、1984年、国の伝統的建造物群保存地区に指定され、街道に面した電線も取り除かれ、かつての関宿にたどり着いた旅人が、鈴鹿を背景に目にしたのと同じ光景が再現されている。道の両側には連子格子の家並みが続くが、商家も商売によって作りが違う。
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遊郭などは二階屋の格子戸など、かつて歴史小説や時代劇を読んでいたころ、本を読みながら想像していた通りだった。更に歩みを進めると銀行や郵便局の看板が目に入った。百五銀行と郵便局の建物も町並みに溶け込んでいる。私は百五銀行を知らなかったので、調べてみると明治11年旧津藩(藤堂氏)の武士たちにより、国立銀行条例に基づく第百五国立銀行として設立され、140年以上の歴史を持つと云う。町並みに溶け込んだ銀行をこの時代まで継続していることに感動した。さらに歩みを進めていくと、町並みの出口に織田信孝卿を祭った菩提寺である
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「福蔵寺」の入口に石碑があった。ガイド本に記されていなかったので、歴史好きの私にとって感動した。織田信孝は織田信長の三男で、後に伊勢国北部を支配していた豪族神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸信孝とも名乗った。本能寺の変で父信長が討たれた後、織田家の跡目争いで豊臣秀吉に敗れ、26歳の若さで安養寺において自害したという。

東海道五十三次旅日記(23)

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11日目5/5水曜日桑名宿     
午前3時に起床して4時に出発した。まだ空は薄暗い。四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿のおよそ39kmの予定で、所要時間8時間とした。亀山市の天気は午後から雨の予報なので、ホテルは「アパホテル三重亀山」に12時に到着するように、昨夜から入念に準備を行った。歩き始めて2時間40分で四日市に入った。ここ四日市宿は三滝川にかかる三滝橋を渡った辺りから始まる。伊勢へ向かう参宮街道の追分を控えていたため、旅人の往来は多かったと云う。しかし今は宿場の面影はほとんど残ってなく、時折古い商家を見かける程度である。日永神社を通り過ぎ、日永一里塚跡の少し先に日永の追分の道標があった。日永の追分は三重県四日市市にある東海道と伊勢街道の分岐点だ。雨の回避を優先したが、予想よりも早く雨が降り出し、8時頃から小雨がぱらつき始めた。間もなく石薬師宿に入った。石薬師宿は名刹、石薬師寺の門前町で四日市と亀山の宿間が長すぎるため新設されたと云う。このころから傘をさして歩いていたが、10時過ぎには1時間当たり5㎜超の雨が降ってきた。雨具に切り替えようと着替えの場所を探したが、なかなか見つからない。歩道橋の下で雨宿りが出来るところがあり、ゴルフ用の雨具に上下着替えて歩き始めた。傘をささないで歩くと歩き易い。石薬師宿は石薬師寺の門前町を通り過ぎ、庄野宿に入る。
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この庄野宿は歌川広重の東海道五十三次の傑作「庄野の白雨」の舞台だそうだ。亀山には予定の12時に着きそうだ。亀山宿は町を見下ろす亀山城跡があり、おもむきのある町並みが続く。12時半にホテル近くのファミレスで昼食を取り、チェックインにはまだ早いと思い、時間調整を行い130分にホテルに行き、チェックインを行うため、フロントに行った。しかしチェックインは3時からだと言われ、早く部屋に入れるように交渉したが、断られた。事情を話して足がくたびれているので、再交渉したが、だめだった。仕方なくロビーのソファーで休んで、3時になるまで待つことにした。すると20分位してからフロントの女性が1時間1,000円の割増料金を支払えば、部屋に入れますと云われ、結局1時間10分の割り増しで、2,000円を支払ったが、約8時間超雨の中を歩いて、疲れていたので2,000円と休みたいとの価値を考えたら、早く休みたい方が優先する。「もっと先に言ってよ」と、思わず口から出そうになった。ようやく部屋に入り、足のケアーを行い、体を温めて2時間ほど横になった。6時近くのファミレスで夕食を取り、コンビニで翌日の朝食おにぎり、サンドイッチ、野菜ジュースと水とスポーツドリンクをそれぞれ1本購入した。部屋に戻り翌日の道順と天気予報を確認した。明日は亀山宿まで43㎞所用時間約10時間、最後の難関鈴鹿峠を越えなくてはならない長距離だ。頑張るぞ。9時に就寝。

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