五回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した」と云う。しばし足を止めて、碑文を読み、最後に明治維新を成就した勤王の志士たちは彦九郎を心の鑑と仰いだとの一文が往時の武士の気概を表している。三条大橋から記念写真を撮ろうと通行人を探したが、 非常事態宣言下では通行人は見当たらなかった。河原に降りて、散策を楽しんでいたが、まもなく雨が降り出した。71歳の挑戦は終わった。
東海道五十三次を徒歩でゴールした充実感は言葉に表すことが出来ない。60歳のとき、初めて挑戦したホノルルマラソン(42.195km)でゴールした時の充実感と同じ感覚だ。当初、江戸時代の人に出来て、現代の自分が出来ないことはないと思っていた。た。しかし当時の人は草鞋を履いていたが、私は超距離を歩くシューズ・靴下を使用したので、足の疲労は格段に違う。もし私が草鞋を履いていたら、1日で小田原宿から三島宿まで行けなかった。まして足場の悪い箱根越えを半日で、芦ノ湖まで行くことはできなかっただろう。新幹線の中で旅日記をまとめている時、大井川の橋にさしかかった。わずかな時間で橋を渡った。それもあっという間だ。私は大井川の橋を渡るのに、20分近くかかったことを思えば、現代人と江戸時代の人の時間の流れが、これほど大きく違うことが、物事を考える上でどのような違いが生まれるのだろうと思考した。24歳の時、茨城工場を立ち上げるため、東京から赴任した。従業員は自分も含めて4人が最初の出発だ。毎日、睡眠時間を削って、現場での作業後、トラックを運転してお客様の工場への納品作業、21時過ぎに工場に到着するので、守衛に門を開けてもらい、誰もいない入荷場に部品を置き、帰るのは午前0時。トラックを運転しながら、将来の会社のあり方を夢想していた。その反動で時間に追われない東海道五十三次を歩いて旅することにした。そして71歳の挑戦だ。
13日目5月7日金曜日 石部宿出発
朝、3時に起床。天気予報を再確認したが、京都の天気は午後から降水確率が高く降水量も多いので、リュックにある雨具類や下着類をホテルのゴミ箱に処分し、身を軽くして早歩きで 行こうと、5時出発を1時間早め4時に出発し、ゴールの京都三条大橋には昼前に到着する計画に変更した。道順も草津宿、瀬田の唐橋、大津宿、三条大橋の予定を、南草津駅を過ぎたあたりから、近江大橋に向かい近道のルートを取った。瀬田の唐橋は東海道五十三次でも有名な橋なので、行きたかったが、昼前に到着しないと雨に降られる可能性が高いので、あきらめた。距離は35km、12時前には間違いなく到着する。
この庄野宿は歌川広重の東海道五十三次の傑作「庄野の白雨」の舞台だそうだ。亀山には予定の12時に着きそうだ。亀山宿は町を見下ろす亀山城跡があり、おもむきのある町並みが続く。12時半にホテル近くのファミレスで昼食を取り、チェックインにはまだ早いと思い、時間調整を行い1時30分にホテルに行き、チェックインを行うため、フロントに行った。しかしチェックインは3時からだと言われ、早く部屋に入れるように交渉したが、断られた。事情を話して足がくたびれているので、再交渉したが、だめだった。仕方なくロビーのソファーで休んで、3時になるまで待つことにした。すると20分位してからフロントの女性が1時間1,000円の割増料金を支払えば、部屋に入れますと云われ、結局1時間10分の割り増しで、2,000円を支払ったが、約8時間超雨の中を歩いて、疲れていたので2,000円と休みたいとの価値を考えたら、早く休みたい方が優先する。「もっと先に言ってよ」と、思わず口から出そうになった。ようやく部屋に入り、足のケアーを行い、体を温めて2時間ほど横になった。6時近くのファミレスで夕食を取り、コンビニで翌日の朝食おにぎり、サンドイッチ、野菜ジュースと水とスポーツドリンクをそれぞれ1本購入した。部屋に戻り翌日の道順と天気予報を確認した。明日は亀山宿まで43㎞所用時間約10時間、最後の難関鈴鹿峠を越えなくてはならない長距離だ。頑張るぞ。9時に就寝。