最近の出来事

東京マラソン初出場(3)

ゴールした後、完走記念メダルを首にかけてもらい、東京マラソンのロゴが入ったバスタオルと飲み物・バナナを受け取った。私の荷物がある10トントラック71号車に向かった。7~8分でいける距離だが、足を引きずって倍以上の時間をかけて、荷物を取りに行った。

 

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138号ブログ写真③.jpg更衣室にようやくたどり着いたが、両足の股関節と両膝、そして足首甲の付け根が痛く、着替えるのも大変だった。ビックサイトの東館 5から西館に移動し、ゆりかもめの「国際展示場正門」駅で電車に乗った。駅までの道順は混雑するとの理由で、一方通行になったため、遠回りをすることになった。普段10分くらいで行けるのだが、足を引きずって、ゆっくり歩いたため40分以上かかってしまった。階段の上がり降りでは、取っ手につかまっていないと転んでしまう。腰を曲げてそろりそろり歩く姿は高齢者そのものだった。

 

新橋駅に到着し、JRに乗り換え、東京駅で新幹線に乗った。小山駅に駐車してある車を運転して、自宅に8時頃と到着した。風呂に入り体を十分に温めた。

すぐ寝室がある2階に這って上がっていった。明日の仕事に支障が出ないように、体を休め睡眠をとれば、回復すると願いながら9時に就寝した。

 

翌朝、6時に目覚めた。良質な睡眠が取れたせいか、関節の痛みも和らぎ、疲労もとれた。8時前に出社し、2階事務所を上がって行く時に、足の痛みを確認しながら行った。思ったより元に戻っていた。

 

翌火曜日、まだ走ることは出来ないが、ほとんど回復し、通常の行動に問題が無いほど体の痛みは取れていた。我ながら体の回復能力に感心すると同時に、両膝周りの筋力を強化して、30キロの壁を乗り 越え、歩かないでゴールすることを、次の目標にした。4月15()かすみがうらマラソン10マイル(16キロ)部にエントリーしているので、頑張ろう。

 

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東京マラソン初出場(2)

厩橋交差点をすぎたところで、応援に来ていた娘の姿を視界に捉えることが出来た。携帯電話で連絡を取っていたから出来ることである。もし携帯電話が無いことを考えると、大勢の応援の観衆の中から、娘の姿を見つけるのは困難だ。少しの間、並走し声をかけてくれたので、元気をもらったが、私の口からでた言葉は「膝が痛い」だけだった。気持ちに余裕が無くなってきた。

 

137号ブログ写真①.jpg30キロ手前で立ち止まり、ボランティアの人が持っていた冷却効果のあるスプレーを右膝に塗布し、屈伸を行い走り始めたが、すぐに立ち止まってしまった。どうしても30キロの壁を越えられない。あとは歩くしかないと決めて、ひたすら歩く。1月に医者に行ったとき右膝外側の痛みは、膝の筋肉の炎症が原因だと診断された。足や膝が痛くならないために、膝周りの筋肉や大きな筋肉の臀部を強化すると良いと、マラソン本に書いてあったので、2週間前から毎日実行したが、筋力トレーニングの時間が少なく間にあわず、痛みが出てしまった。

 

銀座四丁目交差点を左折し、大観衆の声援を受ける。右膝が痛みを通り越して力が入らないと、同時に両足首の筋肉痛に襲われた。足首の筋肉痛は、走っているときは出ないのだが、長く速く歩き続けると出てくる。使う筋肉が違うのだろうなどと思いながら、歩き続けた。この大観衆の前を走ってと通りすぎることが出来たら、どんなに気持ちがいいだろうと思いながら、足と膝の痛みに耐えて、腕を大きく振りながら歩き続けた。

 

工事中の歌舞伎座の前を通りすぎると35キロを超え、残り8キロである。35キロを超えると、不思議なことに足と膝の痛みが少し楽になってきたので、歩くスピードが早くなった。ラスト7キロはアップダウンのきついコースで、特に最も長い上り坂となる佃大橋がある。最後の橋となる東雲橋を渡って、東雲一丁目を右折すると都橋通りに入る。ゴールとなる東京ビックサイトが目の前に見える。もう少しもう少しと思いながら、ゴールのゲートをくぐった。満足感と達成感を味わいながら両手を挙げて。タイムは6時間15分01秒。

 

ゴールすると完走者にメダルが贈られ、気がついたら石原東京都知事がいた。完走したランナー達とハイタッチをしていた。私も思わずハイタッチを行い「ありがとう」といった。なぜあの時、「ありがとう」と云う言葉が出たのだろう。私がゴールするまで待っていてくれたと云う勝手な思いと、このようなマラソン大会を実施した知事に感謝したのだ。

 

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東京マラソン初出場(1)

月26()初めての冬の東京マラソンに不安を感じながら、新宿駅に朝7時15分に到着した。曇り気温5度、トップランナーには良い天気だが、私にとっては気温が低すぎる。1月の練習の時、気温が5℃~8℃の環境で20㎞走った。最初3㎞位で汗が出始めるが、10㎞ 過ぎた頃、だんだん寒くなってくる。練習後風呂に入り、体を温めても風邪を引いた症状が出てしまう。不安が襲う。

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 早めに荷物を預け、7時30分スタート地点に到着。足踏みをしながら、待っていたが、とにかく寒い。9時10分スタートが告げられたが、なかなか動かない。スタートゲートを通過するのに約20分以上かかったが、出だしは快調。最初は長い下り坂が続くので、飛ばし過ぎないように、体を温める程度にと言い聞かせながら走った。しかしスタートまで2時間近く待っていたため、寒く体が冷えてきたこともあって、尿意を感じてきた。やむを得ず4km地点の トイレに入った。長い行列が出来ていたが、先は長いと思い列に並んだ。スタートするまで15分掛かってしまったが、体調は良好。

 

km地点の飯田橋交差点を右折し、西神田を回ると、皇居が見えてきた。日比谷の交差点を右に曲がると、日比谷通りに入り、12キロ付近となる東京タワーや増上寺を通過し、折り返し地点の品川駅を南下していき、Uターンした。このままのペースを維持しようと言い聞かせながら、1キロ当たり6.5分のペースで走った。調子はいい。

 

しかし、17キロ付近で右膝外側に違和感を覚えてきた。2月に20キロの練習した時、 15キロ付近で右膝に違和感を覚えたので、練習を一時中断した経緯があった。膝の痛みの再発を心配しながら、少しペースを落とすことにした。銀座四丁目交差点を左折し、給水所で水とチョコレートパンでエネルギーを補給した。日本橋、水天宮、浅草へと足を進めていった。多くの応援の人がいて、元気をもらった。しかしこの頃になると右膝の痛みが激しくなってきたが、我慢できる範囲と言い聞かせながらの走りとなった。東京スカイツリーが見えてきた。

 

コースは28キロ地点で2回目の折り返しとなる浅草・雷門を通り抜けた。ものすごい大観衆である。大観衆の前を走っていくのは、気持ちが高揚して膝の痛みを忘れさせる程の効果があった。東京下町の名所では多くのイベントが開催されて、ランナー達を元気づけていた。

 

 

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シングルへの道(5) 

2011年の平均スコア88.5、2010年89.6、2009年88.2、と足踏み状態である。2010年よりは良くなっているが、2009年よりは悪くなっている。

 

シングルへの道(4)のブログでは、「原因を考えると練習量が少なかったことが一番だと思う。2009年は週一回の練習を行ったことが平均スコア88.2の結果が出たのだと思う。練習をしないと良い時と悪い時の差が大きすぎる。失敗すると自分のスイングに自身がなくなり、不安を持ったままスイングして失敗する。この繰り返しでスコアが伸びない。2009年は週一回の練習を欠かさなかったので、失敗しても自分のスイングに迷いはなかったことが、平均スコア88.2を達成できた要因だと思う。ゴルフは難しい。」と記した。

 

2011年は震災の復旧・復興で練習も出来なくなり、5~6月は震災の影響で納期遅れの挽回のため、忙しかった。7~9月は罰金を伴う節電で、サマータイムを導入し朝6時から出勤、エアコンは禁止、デマンドシステム監視装置の警報が鳴り出すと、現場の機械を順次止めていくルールを決めた。夜勤は従来から行っているので、節電にはならない。

 

ようやく9月からゴルフを行うことが出来た。この頃フォームがみだれてきた。練習場で自分のスイングをビデオで見ると、バックスイング時に右膝が流れてしまい、タメが作れなくなると同時にスイングの軌道がばらついてきた。自分がイメージしていたフォームとまるで違っていた。そこでレッスンプロに教えてもらうことにした。

 

私はゴルフの理論はまるで知らない。若いときに上手な人のフォームを真似していただけだった。はじめてプロに教わると自分のフォームがバラバラになってしまい、2~3年は安定しないと聞いていた。しかしこれ以上、我流ではシングルになれないと思い、月2回程度レッスンを受けることにした。

 

メンバーコースのハンディキャップは10である。9にするためには半年以内で3回アンダーを達成すれば良いと聞いた。1月4日の新年杯では81のスコアでアンダーを達成しているので、6月までに2回アンダーでプレーすれば良いことになる。

 

「強く思えば達成できる」と信じて頑張って行きたい。2012年再挑戦するゾ。

 

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お客様協力会中国研修

昨年の中国研修のブログが抜けていた。時期は過ぎてしまったが、載せることにした。主要顧客であるK社様の協力会の海外研修会(20109/129/16)が中国で行われ、現在世界で一番元気のある中国の建機メーカー・油機メーカーを見学した。中国は難しい国と言われているが、我々の会社にとっては避けて通れない市場である。我社の進むべき方向性を考える重要な機会を提供していただいたお客様に感謝したい。

 

私は上海での仕事を済ませるために、視察団より1日早い911日に上海に入った。翌日の12日集合場所であるレストラン「阿一海鮮」に出向きました。「阿一海鮮」は上海人の誰もが知っている老舗のレストランで、上海でもおしゃれな店が立ち並んでいる准海路にあり、私は現地法人「上海協立」の総経理に送ってもらった。渋滞を考えて一時間前に「阿一海鮮」を訪れましたが、視察団は予定より2時間近く到着が遅れたため、結果的に3時間店で待つことになってしまった。私が中国上海を最初に訪問したのは1989年です。21年も訪問していると交通事情などで時間に遅れたことが何度もありましたので、中国出張の時は待ち時間をつぶすためにいつも23冊の本をカバンに入れておきます。このときもロビーで本を読んでいると店員が気を遣ってお茶を持ってきてくれました。昔の上海ではこのようなサービスは考えられないことだった。

 

さて翌13日私が最も楽しみにしていたのは国内最大手重機メーカーの工場見学会です。私がこの重機メーカーを知ったのは5年ほど前からでローカルの油圧ショベルメーカーで販売シェアーに名前が載ってきた頃で、直近の油圧ショベルのシェアーは10%に迫る勢いとのこと。総経理のお話は油圧ショベルの生産を毎年倍々に増やしていき、長期展望では世界NO1の油圧ショベルメーカーを目指し、その為人・物・金を積極的に投資し、海外展開も積極的に行うと自信を持ってプレゼンしていた。K社殿の油圧機器を高く評価される一方で自社の発展のスピードに付いてこられないメーカーはバッサリと切り捨てる。あの自身に満ちた発言の根拠の裏づけがどこから来ているのか一度じっくり聞いてみたいとおもった。

 

我々の会社は高度成長時代から第一次オイルショック、第二次オイルショックを経験し、低成長時代に突入した。その後1985年前のプラザ合意により円高が容認され、輸出を継続するため徹底した原価低減の時代に入って行った。円高を乗り越え、つかの間のバブル経済に入ったが、1990年バブルの崩壊、1998年の不良債権に端を発した金融危機、ITバブルの崩壊、そして2008年のリーマンショックと幾多の障害を乗り越えて、今日の企業があることを思うとき、あの自信がうらやましくもあり、危うさも感じられた。中国と20年前から関わってきた私としては、しばらく中国の経済は成長が続くと思うが、注意深く、慎重にそして時には大胆に関わって行きたいと思う。

 

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               『三一重機昆山』

 

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