会社ヒストリー

会長就任

令和2(2020)21日付けで、代表取締役会長に就任し、専務取締役の髙橋真人(なおと)が代表取締役社長に就任した。

 私は27年前の43歳の時に創業者である父から「お前が社長をやれ」「経営方針もお前に任せる」と云われ、父は社長を辞任し、会長に就任した。私が引き受けると云ったとき、安堵した表情を浮かべた。その表情を見たとき、社長の重責から解き放たれた顔を今でも覚えている。父は創業から約40年に渡って社長を務め、創業は2名で東京都品川区の地で創業した。社長というよりは研削作業の職人として、お客様から高い評価を受けていた。私が㈲協立製作所に就職したのは大学を卒業した2年後の24歳の時だった。従業員は10名程度になっていた。入社と同時に筑西市(旧協和町)の茨城工場に赴任し、新しい生活が始まった。当時、茨城工場は私が赴任する2年前から現髙橋顧問が先行して一人で旋盤・フライス盤で部品加工を行っていた。私は父から旋盤・フライス盤・直立ボール盤の作業を教わった。私が茨城工場に赴任した時、他に2名の従業員がいて、私と合わせて総勢4名であった。あれから46年、私が70歳になり、後継者にバトンを渡せたことに心より安堵し、後継者に感謝している。

 最初、私の人生設計は60歳で社長退任、65歳で会長を退任すると決めていた。見知らぬ土地に来て、苦労を掛けるであろう妻と残りの人生を穏やかに暮らしたいと思っていた。会社経営に一定の目途が付くまで、家庭の犠牲はやむを得ないと決め、茨城工場4人から事業の拡大に邁進し、今日に至った。会社人生を始める時から、60歳から逆算して5年ごとに目標を立て、企業として成功したいと強い意識を常に持っていた。しかしバブル崩壊、金融危機、リーマンショック、中国経済の不透明による長期の建設機械不況、昨年の台風19号による減産など、幾多の不況の影響で、60歳社長退任が65歳、そして70歳と伸びてきてしまったが、後継者の成長もあり、今が交代の時期と思い会長に就任するに至った。70歳まで社長続けられるとは入社当時考えもしなかった。幸い両親から頑強な身体をいただき、妻は食事で健康な身体を維持してくれた。

 今後は社長が目の届かないところに目を配り、更に良い会社作りに邁進していきたい。会長の心構えとして、全体朝礼や定例会議は参加せず、役員会のみ参加して、新社長を中心に会社運営を行い、必要があれば経営のアドバイスをしていきたい。そして茨城県の筑西の地で企業活動を行ってきたので、茨城県への恩返しつもりで、地域社会に少しでも貢献できればと思う。4月から茨城県の5つの審議会の委員就任の要請があったので、私の経験が役に立てばと思い引き受けた。ブログ「髙橋論」を完成させ、創業への道、茨城への道、上海への道、今後の協立のあるべき姿への道を社長と一緒に描いていきたい。

茨城におけるものづくり企業経営史(16)

あとがき

このインタビューは2013年に受けた論文である。現在(20192)から振り返ると、2011年は東日本大震災で被災し、工場の復旧に2週間かかり、販売が回復したのは1ヶ月後であったが、中国の60兆円の財政出動により、受注は回復し実質11ヶ月の稼働で創業以来最高の売上高を達成することが出来た。2010年にお客様の増産要請で大型の設備投資を行い2011年に増産体制が整ってきたが、2012年になると中国経済の不透明感から売上高は減少に転じ、底を打ったのは2015年で、過去に経験のない不況に見舞われた。この頃には油圧ショベルの世界需要の半分以上を中国が占めるようになっていた。

インタビューを受けた年の心境は、もうすぐ受注の減少は止まり、翌年から回復に向かうと考えていた。しかしこの見通しの甘さが協立製作所の経営に大きな打撃を与えた。深刻な業界動向を分析し2013年下期から事業の再構築に着手したが、2015年の売上高は2011年度比40%ダウンを余儀なくされた。協立製作所にとってリーマンショックのときは、業績の落ち込みは大きかったが、1年半で回復が始まった。賢く切り抜けることが出来たと自負していたが、2012年から2015年の4年間は過去にない、受注の落ち込みは大きくその期間も長かった。企業経営の危機であった。

企業の生き残りを図るために、非常事態を宣言し経営改革プロジェクトを立ち上げた。製造部は3チーム、生産技術部チーム、生産管理チーム、品質保証チーム、調達チーム、総務部チームの8チームで、毎週1回の定例活動報告会を3年間に渡り行った。20162月頃に受注の下げ止りが実感でき、8月頃になると若干上向きになり10月頃には回復の足取りが、明確になってきた。そこで先手を打って人員の募集を行うことにした。しかし作業者が集まらない。茨城県の有効求人倍率は1.3倍に迫っていた。それから右肩上がりで2019年には茨城県の有効求人倍率が1.63倍になっていた。我々建機の油圧機器業界が長い低迷の期間、働き手は他の業種に移動してしまった。少子高齢化による生産年齢人口の減少が進んでいることもあり、新卒者を募集してもハローワークに募集を出しても集まらない。そこでやむなく派遣会社から外国人を集めるようにした。2016年当時、ネパール人の派遣が多かった。首都カトマンズの大地震により、多くのネパール人が難民ビザで日本に入ってきた。多い時はネパール人だけで約50人、他に日系人、ベトナム人を合わせると100人を超える時もあった。

当然、生産現場から不満が続出した。将来、生産年齢人口が確実に減少する日本を考えると、日本人だけでの企業活動は困難であると社員と話し合いそして説得した。2016年後半になると急激な受注の回復が鮮明になってきた。現場の作業者不足による納期遅れの多発、納期遅れによる運送費の増加、派遣社員の作業の未習熟による生産性の低下、残業時間の制限、入国管理法改定による難民ビザの延長が困難になり、作業の習熟度が増してきたネパール人の帰国、働き方改革による残業時間の制限、同一労働同一賃金による派遣社員の時間給の大幅値上げ等経営を圧迫する多くの困難に立ち向かわなければならなかった。我々の現場で使用している設備はコンピュータで制御されるNC旋盤・NC複合旋盤・マシニングセンター・NC研削盤、熱処理の炉もコンピュータで制御されている。これらの高度な設備を扱うことの出来る社員は限られている。従って派遣会社からの人は単純作業になってくる。その中で高度作業に興味を示し、操作できる人には一定の期間をおいて正社員に登用した。

いち早く外国人の派遣社員を入れることにより、約1年で生産の安定を見ることが出来た。2008年にベトナム人の工学部出身者5名を直接雇用した。東日本大震災後4名が帰国したが、1名が残っていたので、彼を先生役にし、現在(2019年)はベトナム人の実習生、ベトナム人工学部出身の直接雇用、日系人と多様性に富んだ人員構成になっている。

今振り返ると「茨城におけるものづくり企業経営史」のテーマで、筑波大学人文社会系の平沢教授からお話しをいただいたとき、ものづくり企業の現状をお伝えしたい気持ちが強く、お受けすることにした。今年、先生の論文が「ニッチトップ型中小企業の地方移転と国内・海外事業展開 株式会社協立製作所の事例分析」が正式に筑波大学で承認され「国際日本研究」12号に掲載されました。本論文は「つくばリポジトリ」に登録・公開され、PDFでも入手可能との事です。

平沢先生ありがとうございました。

茨城におけるものづくり企業経営史(15)

11.中堅企業への取り組み

質問者:さらに高橋社長が経営目標とされている「中堅企業を目指す」という点を,もう少し説明していただけないでしょうか。

高橋:なんとか自分が現役の社長の間に,売上げ規模で100億円の企業になりたいと思っています。ある人が本で指摘していることと自分が実体験したことを合わせて考えた時に,結局,年商が1020億円というのは,社長が1人で頑張ることで実現できます。それから経営環境が良くて,運が良ければ1人で30億くらいに到達できると思います。ただし,これは経営環境が良くて,運が良ければの話です。これに対して,不景気の時でも,景気が良い時でも,コンスタントに成長し続けられる企業体というのは,30億や50億規模では無理です。売上げ50億円という場合も,運が良ければ実現できることがあります。しかし市場の変化にいつでも対応できる企業体質が構築できないと,一時期は良いけれどもある時突然駄目になってしまいます。こういう企業がいっぱいあります。

質問者:逆にその規模を超えた中堅企業クラスになると経営に安定感が出てくるというわけですか。

高橋:そうです。そのためには組織と仕組みをきちんと作るということです。これはある人の受け売りですが,会社の成長を促すのは営業で,営業がビジネスチャンスを取り込みますが、実際に利益を生み出すのは製造です。さらに将来の飯の種を作るのは技術課や生産技術課です。これらをきちんと組織化して確実に成長できる仕組みを作っていかないと,将来,私が経営を退く際に駄目だと思うのです。私の目標というのは,社長が私でなくても誰がやっても安定した経営が維持できる企業にするということです。私見では,売上げが100億円をクリアできると,運とか偶然とかではなく自立的な組織体になりうると考えています。我社は,現在,100億円を達成できる間接部門を用意しているところです。

質問者:それでは単に夢を語っているわけではなく,着々とその目標に向かって取り組んでいるということですか。

高橋:そうです。とは言っても実際に実現しようとするとそれは大変です。リーマンショック時の変動に続き去年(2012年)の後半からは中国の受注が落ちつつあります。中国の勢いにブレーキがかかったのは一昨年(2011年)の5月です。我社は上海にいち早く進出したので,そういう情報を直接自分たちで集めて経営の判断材料にしていますが,そういう激変があるなかで100億円の売上げを達成しようとするのは大変なことです。大変ですがなんとか達成したい目標です。

質問者:御社が「挑戦と創造」を理念とし,中堅企業への成長という目標を持っておられるということがわかりました。そこで最後の質問ですが,社長さんが掲げるチャレンジスピリッツとか「挑戦と創造」という企業マインドを,会社の構成員全体に普及ないしは浸透させてゆくような取り組みはされているのでしょうか。

高橋:それは難しいのですが,色々な方法でやっています。私が,直接にそれを語るのは月1回の朝礼とか,後は定例会議のなかです。また外部から経営コンサルタントを招いて,中堅クラスの人の意識改革をはかっています。ここ数年では,平均3334歳で,ちょうど課長になるかちょっと前の人たちを10人ほど集めて,コンサルタントの先生と一緒になってグループ討議をしました。その時にやったことはそんなに特殊なことではなくて,5年後の協立製作所をどのようにしたいかという質問を投げかけて考えさせる。その考えを3つのグループに分けて議論し私に発表する。その発表に対して私が逆に質問する。その後,彼らが社長の私に対して質問状を提出し,それに対して答えるということをやっています。そうした試みを3年間やって,私の息子とともに数人成長した人が出てきました。

質問者:近年,後継者不足が度々指摘されますが,それは楽しみですね。本日はどうもありがとうございました。

(終わり)

茨城におけるものづくり企業経営史(14)

10.現場のものづくり力を重視した経営

質問者:続いて生産技術に関する質問ですが,生産技術には人員をどれくらい配置されていますか。

高橋:現在,課長も含めて7名です。

質問者:その生産技術に,後継者である息子さんを配置されたとのことですが,それはたまたまですか。それとも何か意図があってのことでしょうか。

高橋:我社はものづくりの会社であり,利益の源泉は現場です。不況が来て本当に困った時には,現場のことがよく理解できている人間でないと切り抜けられないというのが,私の経験に基づいた持論です。例えば文系の人が社長になったとします。それ自体は悪くはないのですが,その時には必ずものづくりの現場が本当によくわかっている人物を片腕として持っていないと駄目だと思います。経営が順調にいっている時には何の問題もありませんが,いったん未曾有の不況に入った時に現場をどうしていいかわからなくなることが怖いのです。例えば圧倒的な収入があって,逆に圧倒的に少ない支出の会社なら誰でも経営できるでしょう。成長とともにだんだん企業規模が拡大し,人材をいっぱい集めることができるのならば問題はないかもしれませんが,我社のような企業規模ならばトップになる人間は実際のものづくりがよくわかっていた方がいいというのが私の考えです。

高橋:なお同業者の中では,私みたいな考え方はどちらかというと少数派です。多くの人たちは,お客さんとの人脈を作るために,息子が大学を卒業したらすぐ取引先に入れる。何年間か入れて,向こうで人脈を作って,それで30歳くらいになったら自分の会社に戻すというのが一般的です。私の場合は,特定の会社の色に染まりたくないというのもあるのだと思います。

質問者:できるかぎり自立していたいということですか。

高橋:そうです。

茨城におけるものづくり企業経営史(13)

高橋:それで日中友好協会の東京本部に行き,中国に進出したいのでアドバイスをくれないかと相談しました。その時,「従業員は何名ですか」と尋ねられて,「50名です」と言うと,その規模では難しいと言われました。その後も,色々な人に相談しましたが,結局駄目だということでした。そんななか,我社のお客さんで中国にいち早く油圧プラントを輸出していた油研工業の専務に相談にうかがったところ,中国国籍で日本生まれの人を紹介してくださいました。そしてその人が今度は日本の商社を紹介してくれて,それでようやく筋道ができました。その後は早く,中国ではわずか6ヶ月で認可が取れました。ですから中国への進出というのは,茨城でこれ以上発展できないと考えた結果です。

また我々のようにいつも人手不足で困っているような会社が,山形とか岩手といった東北の工業団地に入ったとします。ところがその団地に後から大企業が入ってくるとします。大企業が入ってくると,福利厚生などの面で中小企業はかなわないので,結局働き手がそちらに流れてしまう。それで,地場企業が疲弊しているという事例がありました。それでどうせ苦労するのならば,いっそのこと中国へ出ようということを考えました。

質問者:その時に中国以外は考えなかったのですか。例えばタイだとか。

高橋:タイには行ってないのですが,39歳の時に,台湾,シンガポール,マレーシアに行きました。その時に色々な企業を訪問しましたが,ほとんどが大企業でした。中小企業が単独で進出している例がほとんどありませんでした。その時の印象から行くと,それらの地域に出るのはもう遅いと思いました。そのような理由でタイは考えませんでした。

質問者:次に上海協立と日本本国との取引について質問させてください。上海協立設立当初,上海で作った製品の全てを日本本社に納めていたのに対して,1998年のアジア通貨危機後には,それを20%にまで落としたとのことですが,これは一気にそうしたのでしょうか。

高橋:はい,結果として一気に落としました。仕事がなくなったからです。

質問者:本社向けを20%にまで落とした場合,残りの80%については本社以外の取引先を新規開拓しなくてはいけないわけですが,それはどのようにされたのでしょうか。

高橋:最初は,私の関係で,アメリカのメーカーをお客様から紹介してもらいました。「今度こういう会社ができるから部品の供給をしてほしい」と言われて,アメリカのメーカーと取引が始まりました。なお上海には,そのころ,各省・各特別市には油圧局という役所がありました。中国語では液圧と書きますが,上海では民営化されて上海液圧駆動総公司になりました。精密部品を調達するために世界中の人たちが上海に来ると,まずこの上海液圧を表敬訪問します。訪問した際に,精密部品を作るところを紹介してほしいと言うと,我社は進出が早かったこともあり,大抵は我社を紹介してくれます。フランス,デンマーク,オランダ,スペインの会社は,皆そこが紹介してくれました。

質問者:上海への進出が早かったことがメリットになっているということですね。

高橋:最初,中国政府,特に上海市政府は,こちらの企業規模に関係なく,小さくても歓迎してくれました。ただし今は違います。今の上海市は,製造業を地域内から追い出し,地方に行かせようとしています。

質問者:社長は,ほぼ毎月上海に行かれているそうですが,向こうに行ってどのようなことをされるのでしょうか。

高橋:最初の3年ぐらいは,段取りとか,実際の部品づくりを直接に指導していました。それがある程度軌道に乗った後には,帳簿等のチェックを行うようにしています。

質問者:現地スタッフを信用し,現地スタッフに任せるようになると,その現地スタッフが努力して業績を上げた時には,その見返りにボーナスを出すということはありますか。

高橋:中国の一般企業は決算が12月で,ボーナスは12月に出します。上海協立では,会社が赤字でもボーナスを出すことにしていました。

質問者:上海では取引先に評価されるとそれが口コミで伝わり,それが新たな取引につながるということはありますか。

高橋:はい。あります。

質問者:リーマンショック当時の中国の状況はいかがでしたか。

高橋:20089月に起きたリーマンショックの1か月前の8月の段階で,上海協立の受注が半分になりました。しかしその時日本ではまだ受注が高い状況にありました。取引先企業でも日本ではフル生産でしたが,中国は夜勤を辞めて生産調整に入っていました。それでおかしいなと思っていたところ,9月の初めに中国での受注はさらに減りました。あの時は背筋が寒くなるような恐怖感を覚えました。

質問者:最近,中国では沿海部から内陸部へと生産拠点がシフトしつつあります。御社にとって,上海での賃金上昇とともに,それが大きな懸念材料になりつつあるとのことですが,具体的にはどのようなことでしょうか。

高橋:上海の会社に工場労働者が集まらないようになりつつあります。中国政府は78年前から内陸部のほうに製造業の重点を移し,上海は金融とかサービスの中心にしようとしています。できるだけ製造業は内陸部のほうに行くような指導をしています。

質問者:御社の場合,どうされるおつもりですか。

高橋:今のところ動くつもりはありません。我社で最初からやってくれている中国人の総経理が来年(2014年)で60歳になり,それを区切りに辞めたいとの意向です。それで上海交通大学を卒業した中国人スタッフを今後34年ほど日本で教育した後に中国に送り帰し,彼を中心に上海での経営を続けて行こうと考えています。

質問者:以前は,「中国での人材育成はあまり考えてない」と発言されていますが,今後はどうされる予定でしょうか。

高橋:その発言をしたのは,ちょうど10年くらい前です。その当時は上海でも教育しようとしたのですが,ちょっと仕事を覚えると給料の高い工場に移られてしまいます。それでその頃の心境として,「もう教育はしない。我社では中国人総経理が私の持っているノウハウの全部を受け継いでいるからそれで十分だ」と考えていました。なお、中国人は現在1人だけ日本で教育していますが,向こうで現地採用した人間を教育するというのはなかなか難しいというのが実感です。

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