茨城におけるものづくり企業経営史(13)

高橋:それで日中友好協会の東京本部に行き,中国に進出したいのでアドバイスをくれないかと相談しました。その時,「従業員は何名ですか」と尋ねられて,「50名です」と言うと,その規模では難しいと言われました。その後も,色々な人に相談しましたが,結局駄目だということでした。そんななか,我社のお客さんで中国にいち早く油圧プラントを輸出していた油研工業の専務に相談にうかがったところ,中国国籍で日本生まれの人を紹介してくださいました。そしてその人が今度は日本の商社を紹介してくれて,それでようやく筋道ができました。その後は早く,中国ではわずか6ヶ月で認可が取れました。ですから中国への進出というのは,茨城でこれ以上発展できないと考えた結果です。

また我々のようにいつも人手不足で困っているような会社が,山形とか岩手といった東北の工業団地に入ったとします。ところがその団地に後から大企業が入ってくるとします。大企業が入ってくると,福利厚生などの面で中小企業はかなわないので,結局働き手がそちらに流れてしまう。それで,地場企業が疲弊しているという事例がありました。それでどうせ苦労するのならば,いっそのこと中国へ出ようということを考えました。

質問者:その時に中国以外は考えなかったのですか。例えばタイだとか。

高橋:タイには行ってないのですが,39歳の時に,台湾,シンガポール,マレーシアに行きました。その時に色々な企業を訪問しましたが,ほとんどが大企業でした。中小企業が単独で進出している例がほとんどありませんでした。その時の印象から行くと,それらの地域に出るのはもう遅いと思いました。そのような理由でタイは考えませんでした。

質問者:次に上海協立と日本本国との取引について質問させてください。上海協立設立当初,上海で作った製品の全てを日本本社に納めていたのに対して,1998年のアジア通貨危機後には,それを20%にまで落としたとのことですが,これは一気にそうしたのでしょうか。

高橋:はい,結果として一気に落としました。仕事がなくなったからです。

質問者:本社向けを20%にまで落とした場合,残りの80%については本社以外の取引先を新規開拓しなくてはいけないわけですが,それはどのようにされたのでしょうか。

高橋:最初は,私の関係で,アメリカのメーカーをお客様から紹介してもらいました。「今度こういう会社ができるから部品の供給をしてほしい」と言われて,アメリカのメーカーと取引が始まりました。なお上海には,そのころ,各省・各特別市には油圧局という役所がありました。中国語では液圧と書きますが,上海では民営化されて上海液圧駆動総公司になりました。精密部品を調達するために世界中の人たちが上海に来ると,まずこの上海液圧を表敬訪問します。訪問した際に,精密部品を作るところを紹介してほしいと言うと,我社は進出が早かったこともあり,大抵は我社を紹介してくれます。フランス,デンマーク,オランダ,スペインの会社は,皆そこが紹介してくれました。

質問者:上海への進出が早かったことがメリットになっているということですね。

高橋:最初,中国政府,特に上海市政府は,こちらの企業規模に関係なく,小さくても歓迎してくれました。ただし今は違います。今の上海市は,製造業を地域内から追い出し,地方に行かせようとしています。

質問者:社長は,ほぼ毎月上海に行かれているそうですが,向こうに行ってどのようなことをされるのでしょうか。

高橋:最初の3年ぐらいは,段取りとか,実際の部品づくりを直接に指導していました。それがある程度軌道に乗った後には,帳簿等のチェックを行うようにしています。

質問者:現地スタッフを信用し,現地スタッフに任せるようになると,その現地スタッフが努力して業績を上げた時には,その見返りにボーナスを出すということはありますか。

高橋:中国の一般企業は決算が12月で,ボーナスは12月に出します。上海協立では,会社が赤字でもボーナスを出すことにしていました。

質問者:上海では取引先に評価されるとそれが口コミで伝わり,それが新たな取引につながるということはありますか。

高橋:はい。あります。

質問者:リーマンショック当時の中国の状況はいかがでしたか。

高橋:20089月に起きたリーマンショックの1か月前の8月の段階で,上海協立の受注が半分になりました。しかしその時日本ではまだ受注が高い状況にありました。取引先企業でも日本ではフル生産でしたが,中国は夜勤を辞めて生産調整に入っていました。それでおかしいなと思っていたところ,9月の初めに中国での受注はさらに減りました。あの時は背筋が寒くなるような恐怖感を覚えました。

質問者:最近,中国では沿海部から内陸部へと生産拠点がシフトしつつあります。御社にとって,上海での賃金上昇とともに,それが大きな懸念材料になりつつあるとのことですが,具体的にはどのようなことでしょうか。

高橋:上海の会社に工場労働者が集まらないようになりつつあります。中国政府は78年前から内陸部のほうに製造業の重点を移し,上海は金融とかサービスの中心にしようとしています。できるだけ製造業は内陸部のほうに行くような指導をしています。

質問者:御社の場合,どうされるおつもりですか。

高橋:今のところ動くつもりはありません。我社で最初からやってくれている中国人の総経理が来年(2014年)で60歳になり,それを区切りに辞めたいとの意向です。それで上海交通大学を卒業した中国人スタッフを今後34年ほど日本で教育した後に中国に送り帰し,彼を中心に上海での経営を続けて行こうと考えています。

質問者:以前は,「中国での人材育成はあまり考えてない」と発言されていますが,今後はどうされる予定でしょうか。

高橋:その発言をしたのは,ちょうど10年くらい前です。その当時は上海でも教育しようとしたのですが,ちょっと仕事を覚えると給料の高い工場に移られてしまいます。それでその頃の心境として,「もう教育はしない。我社では中国人総経理が私の持っているノウハウの全部を受け継いでいるからそれで十分だ」と考えていました。なお、中国人は現在1人だけ日本で教育していますが,向こうで現地採用した人間を教育するというのはなかなか難しいというのが実感です。

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