茨城におけるものづくり企業経営史(11)

.中国(上海)での事業展開に関して

質問者:続いて中国への進出に関連した質問をさせてください。まず進出のきっかけとなったのが,日本国内でスポーツ紙に(日本国内で働く)従業員の募集広告を出した時に,中国人が応募してきたことにあったそうですが,なぜスポーツ紙で募集したのでしょうか。

高橋:それは最初に東京の本社で始めました。一般紙にも載せましたが,一回も電話がかかってきませんでした。スポーツ紙に載せると,「大井競馬場で全部お金をすって一銭もないので明日から働かせてもらえないか」といった類の電話が結構来ました。そのなかでたまたま中国人から連絡がありました。その時,私は既に茨城に赴任していましたが,当時の社長(現会長)が「猫の手も借りたい状況なのだから,外国人でもかまわないからすぐ採用しよう」ということになりました。そして採用してみると,よく働いてくれました。中国人は働かないと言う人もいますが,中国から日本に出てきて働いていると,少数派ということもあり緊張感も違うせいか仕事を覚えるのも早かったです。それで東京本社に一時3人ほど採用して様子を見ました。いずれもよくやってくれるので,それでは茨城工場の方でも採用しようということになり,中国人従業員の友達を紹介してもらったところ2人が来てくれました。2人が来て3年ほど働いてくれました。その後は,友達の友達の友達・・・という形で増やしていきました。そして最初に来たうちの1人が,現在,上海協立の総経理となっています。

質問者:そうすると今の中国工場の総経理は,かつて茨城工場で働いていた方ということですか。

高橋:そうです。なお東京本社に1番最初に来た中国人は,結局4年くらい働いた後で中国に帰りました。上海に進出するきっかけは,昔我社に勤めていた優秀な中国人が当地にいたからなのですが,それは先ほどお話ししました総経理のことです。それともう1人います。上海協立というのは,最初2人の中国人で立ち上げましたが,両人とも以前にここ(茨城工場)に勤めていました。そのうち1人が辞め,もう1人が現在総経理として上海協立を経営しています。

質問者:上海に進出したのはバブル崩壊直後ですが,当時の日本の中小企業では,まだそうした進出は多くなかったと思います。上海に出るうえで確信みたいなものはあったのでしょうか。

高橋:確信があったわけではありません。実は,ここ(茨城工場)でもし人を集めることができ,工場の拡張が順調にいっていれば,多分上海への進出など考えなかったと思います。ところが私が茨城に来てから78年後に土地の用途変更があり,ここが市街化調整区域に入り,工場の増築が制約されました。結局、色々手を尽くし,なんとか

増築の許可を取るまでに2年半もかかりました。

私が39歳の時ですが,こうした状況に嫌気がさして,このような状況が続くのならば,私が60歳を超えた頃にはこの仕事を辞めなくてはならないかもしれないと思い悲観しました。その時,大前研一氏の講演で,「日本の企業は安さを求めて中国大陸さらにはアフリカ大陸まで行くだろう」と言っていました。それが非常に印象的でした。それで,どうせリスクがあるのならば,日本でいつ建築許可が下りるかわからないのをじっと待つだけではなく,同時並行して中国への進出を考えるようになりました。

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