最近の出来事

東海道五十三次旅日記(21)

東海道五十三次旅日記                                               
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10日目5/4火曜日   知立宿出発               朝、5時に起床して、ストレッチしてから今日の予定と天気予報を確認した。桑名宿まで43 9時間30分の道のりだ。最初は間の宿有松、鳴海宿、宮宿、桑名宿と行く。桑名宿からは伊勢・近江路に入り、京都はもう間もなくだ。ホテルで朝食を取り7時に出発した。9時過ぎに間の宿(あいのしゅく)有松に入った。間の宿とは、幕府の駅制下では基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていたので、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場間に休憩用の「宿」がおかれ「間の宿」と呼ばれていた。名鉄名古屋本線の有松駅の南側と国道1号線に挟まれて並行する旧東海道を行くと、江戸時代さながらの趣のある町並みが整備されて残っていた。江戸時代絞り染めの手拭いや浴衣などを、道中の土産に求めていたと云う。                                                 

江戸時代に思いを巡らせながら、歩く 
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速度を緩めて目に焼きつけた。有松山車会館が右手に見えた。ここには有松にある3台の山車のうち、1台を定期的に展示してあり、豪華な飾り付けがしてある。11時ごろ鳴海宿に入った。ここ鳴海宿は古社寺のひとつである誓願寺は芭蕉ゆかりの寺で、芭蕉手植えの杉の古木から彫ったという芭蕉像が安置しているという。芭蕉有松の街道沿いに残る町屋の供養塔もあるというが、観光はなるべく控えて、次の宿場宮宿に向けて先を急いだ。東海道五十三次では宮宿の七里の渡しから船に乗って桑名の渡しまで、海上七里(28km)4時間の船旅だったが、荒天時や潮の流れによっては10里(約40㎞)にもなったという。七里の渡しで船に乗ると堀川を下り名古屋港に出て、木曽川河口を横切り、更に長良川と揖斐川の合流した河口から桑名の渡しに行くルートになると云う。今では海上航路はなく橋が出来ているので、陸路を行く。道路標識に熱田神宮まで2kmの看板があった。この標識の十字路を左に曲がり、桑名宿に向かうことになる。いよいよ木曽三川を渡ることになる。木曽三川とは、濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の総称で、最初に木曽川の尾張大橋を渡った。大井川よりはるかに多い水量に圧倒された。尾張大橋を渡ると、中洲はけっこうな距離があり、次の長良川・揖斐川の橋を渡りきるまでに、1時間位かかったが、もうすぐ桑名だ。桑名宿は七里の渡しで栄えた宿で、京都へ向けての新たな出発地と云われている。

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東海道五十三次旅日記(20)

東海道五十三次旅日記 

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間もなく赤坂宿に入った。赤坂宿は遊興地としての色合いが強く、広重の東海道五十三次も、風景が多い中にあって、御油と赤坂では旅の風俗が生き生きと描かれ、赤坂宿では旅籠の様子が詳細に描かれ、今日と同様、女性が多く旅していたことがうかがわれると云う。宿に入ってすぐ関川神社があり、境内に芭蕉の句の石碑の「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」と刻まれていた。夏の夜は短くすぐに明けてしまうということを、御油・赤坂の距離の短さと松並木の美しさで表現した句だと云われている。藤川宿に入り、脇本陣跡の隣に立つ資料館に立ち寄ったが、靴を脱がなくてはいけないので、中をのぞいて上がるのをやめ、先を急いだ。藤川宿に入り、脇本陣跡に立つ資料館を覗いたが、靴を脱がなくてはいけないので、先を急ぐため上がるのを止め、岡崎宿に向かった。ここまでが日本橋から314kmの道標を見ながら岡崎市に入った。左手に公園の中の岡崎城が見えた。

  

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ここ岡崎宿は徳川家康出生の城と呼ばれた岡崎城の城下町で、矢作川にかかる八帖橋の左手に八丁味噌の郷と記された大きな店と老舗の店が立ち並んでいた。橋を渡り終えるとそこには日吉丸と呼ばれていた豊臣秀吉と野武士の統領であった蜂須賀子六の「出会い像」の石像が建立してあった。その後1520分に知立市に入り、16時にホテルルートイン知立に到着し、チェックイン後、すっかりルーティンになった足を冷やすことと、ストレッチを行いホテル内のレストランで食事をした。部屋に戻り、翌日の準備と天気予報を確認し、9時に就寝した。 

    

東海道五十三次旅日記(19)

東海道五十三次旅日記

9日目5/3月曜日   御油宿出発

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朝4時に起床。今日の工程はおよそ37kmと短めなので、前日にコンビニで買った朝食をゆっくり食べ、余裕を持って7時に出発した。しかしホテルから旧道に出ようとナビを見たが、自分の位置が分からない。何度か行ったり来たりしながら、ようやく国道一号線にでた。ここから旧東海道に出て、順調に歩き始めたが、自分の頭にある地図と歩いている道に違和感がある。歩き始めてから1時間半御油駅の看板が見えた。これで分かった。前日泊まったホテルの位置を勘違いしていた。計画段階で御油駅近郊にホテルが見つからない。やむを得ず御油駅から5.5km先のホテルを予約したが、これが間違いだった。泊まったホテルは御油駅手前に位置していた。良く調べてみると御油駅から三つ手前の諏訪町駅近くだった。計画段階での失敗だった。予定より多い距離を歩くことになったが、気を取り直して赤坂宿に向かった。赤坂宿は宿場町で御油宿との距離が一番短い宿場である。                        江戸時代からの松で知られる御油の松並木600m続く

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御油宿の国の天然記念物の松並木は旧街道の風情を味わいながら、このような松並木保存されていることに、感心しながら進んでいくと、小さな案内板に「御油松並木愛好会と御油小学校の卒業生が記念に苗木を毎年植えている」と説明があった。ちなみに、「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛が狐に化かされる話の舞台はこの御油である。資料館に立ち寄り説明文をいただいた。御油の松並木は江戸時代の初めに東海道の並木として御油・赤坂宿間に整備され、幕府によって管理されていたと云う。明治に入って宿場制度が解体され、管理の所在がはっきりしなくなったが、  地元御油町で管理を続けてきた。その後太平洋戦争のため全国的に多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が並木を存続させるため、天然記念物指定を受ける働きかけを行った。その結果、東海道の松並木として代表的なものと言う理由により、昭和19年に国指定の天然記念物になったと云う。昭和47年松並木愛護会が発足し、昭和50年に大規模な松の補植が行われ、江戸時代の並木景観を現在もなおとどめていると云う。しかし昔の宿場町の面影はない。


                   


東海道五十三次旅日記(18)

東海道五十三次旅日記

8日目(5/2)日曜日 舞阪宿出発

4時起床。天気予報の確認したところ、曇り時々雨だ。今日の計画は新井宿、白須賀宿、二川宿、吉田宿、そして宿泊地の御油宿だが、天気が不安定なので、白須賀宿は行かずに新居宿から直接二川宿に向かうことにした。その方が距離は短縮できるし、雨を回避できる可能性が高い。一通り今日の計画を見直してから6時半に朝食会場に行った。久しぶりの朝食バイキングは感染防止のため、マスクと薄手の手袋をつけて、食べ物をトレイに盛り付け、約2mの間隔を空けてテーブルについて、朝食をとった。今日は御油宿のビジネスホテル「コンホートホテル豊川」まで35㎞と比較的短いので7時半にホテルを出た。正面に弁天島駅があり、西に歩いて行った。浜名湖にかけてある中浜名橋、西浜名橋を渡り終えると、新居関所跡に着いた。1時間もかからない距離だ。新居関所は箱根関所と並ぶ東海道の重要地点に位置付けられていたという。現在の遺構は幕末の安政2(1855)に再建されたもので、江戸時代の建物が残るのは全国でも新居関所だけだという。番所が公開され、資料館が併設されていた。新居関所を後にして二川宿に向かうが、ここからはガイド本にないルートだ。ナビで二川宿手前の東海道本線の新所原駅にセットし、約9kmの距離だ。旧所名跡等ない山間部と田んぼが広がる田園風景の道を歩く。遠くに大きな工業団地が見え、有名なオートバイのメーカー2社の看板が見えた。更に歩き続け細い道に出たところ「豊田佐吉記念館」の看板があった。トヨタグループの礎を築いた佐吉翁の記念館だ。             

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天気は
大気の乱れがあるのか、急に冷た
風が吹いてきて、雷や雹に気を付けるようにとの予報だ。見学は断念して先を急いだ。新所原駅には10時半に到着した。静岡県湖西市新所原駅を過ぎると、県境の愛知県豊橋市に入った。昼頃から雨が降ったり止んだりの天気が続いた。二川宿はもう少しだ。吉田宿は現在の豊橋市のほぼ中心部と重なっている。豊橋市に入ったところで、昼食。1時間ほど休んで御油宿に向けて出発した。足のマメの痛みはさほどなかった。右手に豊橋公園として整備された吉田城を見て、豊川にかかる橋を渡って、ほぼ国道1号線沿いに御油宿に向かった。御油宿は小さな宿場だが、当時本陣が4件、旅籠が62件もあり、大いに賑わったと云う。広重の浮世絵にもあるように飯盛女が多かったと云う。当時の俗謡で「御油や赤坂 吉田がなくば 何のよしみで江戸通い」が、当時を物語っていると云う。江戸時代からの松で知られる御油の松並木は、赤坂宿へ向けて600mも続いている。明日の朝この松並木を歩くのが楽しみである。午後3時到着。チェックインして足を冷やしてから、食事できるところをフロントで聞いて、簡単に済ませてから、コンビニで翌日の朝食を買い、ホテルに帰った。翌日の天気予報を確認。9時に就寝。

東海道五十三次旅日記(17)

東海道五十三次旅日記(17) 

東海道17-1.jpg天竜川には新天竜川橋と古い天竜川橋の2つがある。ナビの通りに古い橋の道を行って手前で右に曲がるのだが、1つ手前を間違って曲がった為、歩道がある新天竜川橋に行くことが出来ない。歩道は見えるのだが、ショートカットできるような道はなかった。再度ナビを使い、30分程遠回りをして新天竜川橋の歩道に出ることが出来た。天竜川は川幅の大きな川で渡りきるのに11分かかった。その後、断続的に松並木の旧街道を歩き続けた。浜松市内に入り昼食を取ることにした。1150分に浜松駅前にあるうなぎ専門店の「うなぎ八百徳本店」に入った。この店は明治から創業で友人から教えてもらった。鰻重を注文し、美味しく頂いた。40分の休憩を取って、1230分に出発。店を出たところ目の前に「本田宗一郎創業の地」の石碑が立ってあった。想像もしないところに石碑を発見するのも一人旅の醍醐味である。目的地の舞阪宿のホテルまで13km約3時間だ。徳川家康の居城浜松城はすぐ近くにあるのだが、日程通り京都に到着するのを最優先にしているので、先を急いだ。出発後間もなく雨が降ってきた。小雨なので90分くらい傘をさして歩いた。春日神社を過ぎると、間もなく舞阪駅だ。舞阪宿は浜名湖の渡しを控えた宿場で貴重な脇本陣が残る。脇本陣は東海道に現存する唯一の遺構で、大名用の上段の間を備えた見事な建物であると云う。舞阪駅の近くから始まる松東海道17-2.jpg並木は、街道の両側におよそ700mも続く情緒あふれる場所である。次の駅の弁天島駅の前にある宿泊地「浜名湖弁天リゾートオーシャン」に着いた。しかしホテル名が予約したのと微妙に違うので、ホテル玄関口にいたホテルの人に、ホテル名の確認をしたところ、間違いはなかった。しかし駐車場の使用の有無を確認するためだと思うが、お車ですかと聞かれた時にはなぜか不愉快になった。リュックを背負い帽子をかぶって歩いてきたのに、またこの服装でお車ですかはないでしょうと思った。皮肉を言いたいところだが、疲れていたので、早くチェックインし足を冷やしたかった。いままではビジネスホテルに宿泊したが、大浴場のあるホテルは足を伸ばすことが出来るので、足の疲れを取るのに良い。食事はホテル側の方針で密を避けるためルームサービスとの事だった。今日を振り返ると到着は予定より40分おくれて午後340分だった。途中足裏が痛くなったので、確認したところ両足踵の外側に大きな水膨れがあり、右足の人さし指と中指の間にも水ぶくれができていた。治療を行い9時に就寝した。

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