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東海道五十三次旅日記(16)

東海道五十三次旅日記

7日目(5/1)土曜日 掛川宿出発           

東海道16-①.JPG

午前3時に起床、軽くストレッチを行い、前日にコンビニで買ったお握りと菓子パン、そして野菜ジュースで朝食を済ませた。本日、宿泊の舞阪宿にある「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」まで42㎞、約9時間の道のりだ。到着地の天気予報は午後3時頃から小雨の予報なので、雨が降る前に到着するように、朝5時に出発した。到着時間は午後3時を予定。今日は掛川宿から袋井宿、見附宿、浜松宿、舞阪宿の道のりだ。最初の袋井宿は東海道五十三次のちょうどど真ん中の27番目の宿場である。掛川宿から断続的に続く松並木は久津部(くつべ)あたりで、終わりになるという。出発前にナビとガイド本の絵地図を確認、ホテルは掛川駅の南側なので、駅の北側に出て駅前通りの二つ目の十字路を左折すると旧街道に出る。いよいよ出発だ。朝5時の天気は晴れ、少し肌寒いので、半袖シャツに長袖のパーカーを羽織った。しかしここでもナビを頼りに旧街道に出ようとしたが、住宅街に入っていき、なんとなく住宅街の中を回っている感じがした。2030分の間ナビで正常なルートに戻ろうとしたが、方向感覚が狂ってしまった。犬の散歩していた地元の人に絵地図を見せて教えてもらった。10分ほどで旧街道に出た。

この近くには十九首塚と云う平将門と家臣19人の首実検が行われた場所がある。平将門は小生の自宅から30分ほどした常総市が出生地といわれ、ここを拠点に関東を治め、「平将門の乱」と云われる天皇に反旗を翻した豪族で、藤原秀郷の連合軍に坂東市東海道16-2.jpgのサムネール画像のサムネール画像あたりの合戦で命を落したと云う。平将門の本を読み思い出していたが、今回の旅では観光はしないと決めていたので、通り過ぎて先を急いだ。2時間位して体が暖まってきたので、半袖シャツになり快調に歩く。ホテルから旧街道に出るのに戸惑ったので、予定より時間がかかった。ガイド本の地図を見ながら、自分の位置を確認、東名高速道路を交差した少し先に原野谷川をわたる同心橋がガイド本にあり、道が間違っていないことが確認できて一安心。断続的に続く松並木を後に七ツ森神社を右手にみて、袋井市の「東海道どまん中茶屋」を通過し、ひたすら歩き見附宿に向かう。見附宿天竜川の渡船業務を担う宿場であり、姫街道との追分でもあったので、多くの旅人で賑わったと云う。見附宿の姫街道の道標を左に曲がって、東海道の磐田駅に向かい駅手前で右に曲がって、天竜川に向かった。

東海道五十三次旅日記(15)

東海道五十三次旅日記

「日本橋から歩いて、今日で6日目です。京都の三条大橋まで歩いていきます。」と答えると二人ともに驚いた表情を浮かべた。「頑張ってください」と云われ、ここまで歩いて6日目。初めて行き交う人との短い会話だったが、妙に元気が出てきた。声を掛けてくれてありがとうと心の中で思った。非常事態宣言下では街中は別として行き交う人は本当にすくなかった。昼食はコンビニでおにぎり1個とスポーツ飲料2本を購入して、短い昼食をとった。この後は箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道三大難所と云われた小夜の中山峠を越えて、急坂の二の曲りを下っていくと日坂宿に到着する。人の気配が全くない山道を日坂宿目指して歩いた。日坂宿は江戸期の町割りと旅籠が残る小さいながらも貴重な宿場町で、宿内は約700m、人口750人、旅籠は33軒あり、当時の面影を残している。日坂宿を通り、宿泊地の掛川宿に向かった。掛川宿は内助の功で有名な山内一豊が整備した城下町、そして宿場町である。足の運びは快調だ。目印の掛川駅近くの馬喰橋を通過すと、本日宿泊するホテル「スマイルホテル掛川」に向かい、17時に着いた。到着予定時間を1時間以上オーバーした。道の間違いを2回もして45km余計に歩いたのが影響した。チェックインしてバスタブに水を張り、足を冷やした。汗を流して、掛川駅近くの「ウナ専」という店で特上のうなぎを注文、ビールも頼んだ。東海道五十三次の旅で初めてビールを飲んだ。9時就寝。

東海道五十三次旅日記(14)

東海道五十三次旅日記
東海道14-1.JPG

6日目(4/30)金曜日 岡部宿出発

4時起床。6時半に食堂に行き、朝食を食べる。今日の日程は旅館を7時半に出発し、藤枝宿、島田宿、金谷宿、日坂宿を通って、掛川宿の東海道本線掛川駅近くの「スマイルホテル掛川」まで、409時間の予定だ。5日間の経験から1時間5kmで計算し、昼食と休憩で1時間をプラスするので、40㎞の場合出発時間に1時間を加えて、9時間見れば十分だ。15分ほど歩いて仮宿交差点を通り過ぎ、しばらくして旧街道に入るため、左折した。するとだんだん住宅街に入っていき、同じ所をぐるぐる回っている。ナビを見ても方向がつかめない。1時間ほど回り道をして国道1号線に出ることが出来た。藤枝宿の町に入り、ナビとガイド本の絵地図を見ながら、目印の藤枝市外れの勝草橋を渡り、道順に間違いがないか出来るだけ忠実に旧街道を歩いた。国道1号線の青木交差点を通っていくと、藤枝駅が近い。雨が降ってきたので、傘をさして線路沿いを1時間以上歩き、島田市に入った。島田市の御仮屋町の道標があり、国道1号線日本橋から208kmと記されていた。

東海道14-2.JPGのサムネール画像のサムネール画像
いよいよ大井川を渡るぞと意気込んだが、道を間違えて、住宅街に入ってしまった。方向感覚もくるってしまい、1時間は無駄な距離を歩いてしまった。ようやく大井川の橋の入口に着いた。大井川の川幅は大変広く、橋を渡りきるのに16分かかった。水量は少なかったが、大雨が降ると何日も足止めになり、逗留したという。江戸時代、大雨が降ったら「箱根8里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川------」という俗謡がある。この大きな川が氾濫したら、何がどうあっても川を渡ることはできないと云う意味が良くわかった。便利に新幹線に乗っている時は、この大井川を渡る事の大変さも分からず、数秒で通り過ぎるので、川幅には気が付かなかった。大井川を渡って金谷宿に向かった。金谷宿は大井川の川越しと金谷の急坂に挟まれた宿で、広重は五十三次の浮世絵で金谷宿の大井川の徒歩渡しを描いている。大井川鉄道金谷駅の下にある一里塚を過ぎてガードをくぐって坂道を上り、金谷の石畳を目指した。「金谷宿の石畳」は江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人達が歩き易いように山石を敷き並べたものであると云われている。近年、僅か30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されたと云う。石畳の登り430mの勾配は箱根越えに優るとも劣らなかった。ゆっくりと足元を確認しながら登った。登り切った時の爽快感と安堵感は言葉に表すことが出来ない。その時、子供を連れて散歩していた若い夫婦が、私のリュックを背負った格好を見てだと思うが、「どちらから来たのですか」と話しかけてきた。

東海道五十三次旅日記(13)

東海道五十三次旅日記

今朝電話で旅館に確認した時、バスで行くことを告げたら、旅館の女将さんらしき人が「藤枝市役所岡部支所で下車したら、郵便局が見える。その先のピンク色のペットショップの隣です」と教えてくれた。しかし郵便局が見えない。様子が違うと感じたので、ナビで「藤枝市役所岡部支所」のバス停を検索したら、15分くらいなので、傘をさして歩いていくことにした。しばらくすると郵便局が見えた。ピンク色のペットショップも見えた。隣が目的の旅館なので、安心した。しかし旅館の名前が違う。「きくや旅館」の看板が掛けてあった。ネットで調べても岡部宿近辺にホテル・旅館がないので、ガイド本にある岡部観光案内所に電話して、聞いたのが「つくや旅館」。目の前にあるのは「きくや旅館」でした。一般の家の玄関みたいなので、ブザーを鳴らした。女将さんがでて来た。電話に出た人の声だ。予約した名前を言って確認できた時はほっとした。案内所の方に聞いたとき「きくや旅館」を「つくや旅館」と聞き間違していた。出発の時から疑問に思っていたことがようやくとけた。ネットで探しても「つくや旅館」はヒットしなかった。チェックインをして案内されたのが7.5畳二間の畳部屋でした。旅装を解いて早速風呂に入った。家庭風呂の2倍くらいの大きさがあり、足を十分に延ばすことが出来た。翌日の道順の確認を行い準備が終わった。6時が夕食の時間だ。食事は部屋に順次運んでくれた。バランスのとれた料理で、大変美味しかった。ビジネスホテルだとフロントの人との会話がない。ここでは宿泊客は私一人、食事の給仕をしている短い時間ではあるが、話が弾んだ。女将さんは私と同い年、昔は30件近くの旅館が有ったが、今では自分のところだけになってしまったと屈託のない笑顔で話されたのが印象的だった。もう年なので辞めようかと思っているが、時々東海道旧道のツアーの予約が入るので、続けていると云っていた。ご主人は公務員でだいぶ前に定年退職され、週23日は会社の手伝いをしているとのこと、子供たちは成人して家庭を持ち、家を出て他所で独立しているとのことでした。東海道五十三次をスタートして毎日40㎞歩くと、太もも、ふくらはぎ、足裏が悲鳴をあげている。寝る前にいつものストレッチを行うが、畳部屋でやり易い。右足踵の右側面にマメができた。大きいバンドエイドで痛みを和らげる処置を施し、9時に就寝。

東海道五十三次旅日記(12)

東海道五十三次旅日記                                                                                                       

5日目(4/29)木曜日 由比宿出発
東海道12-①.JPG

4時に目が覚める。まだ薄暗い外を見ると雨が降っていた。次の岡部宿までの天気をチェックするが、昼に向けてだんだん雨と風が強くなる予報だ。今日の予定は7時に出発し、薩埵(さつた)峠を越えて、清水駅を通り岡部宿まで36km8時間の道のりだ。6時半に食堂に向かい朝食を頂いた。朝食にしては品数も多く、美味しく頂いた。本来天気が良ければ、薩埵(さつた)峠からの富士山が一番美しい。しかし外は雨模様で見ることはできない。予報通りだ。清水駅まで3時間もあれば到着するので、雨がもっと強くなったら清水駅から電車で行くことも考え、旅館のご主人に相談した。ご主人の話では雨だけでなく、強風大雨注意報が出ているから、やめた方が良いとのことだ。私はあきらめきれず、食堂に9時頃までとどまり、様子を見ていた。だんだん雨と風が強くなる。部屋に戻り、旅行行程を確認し、徒歩で行く計画を中止し、電車とバスで岡部宿の旅館に行くことにした。1時間当たりの降水量が34mm以下ならば問題ないが、それ以上になると雨具を着けても、雨が体に入ってきて来ると疲れが倍増する。その上強風ならばなおさら、きつくなる。まだ旅は5日目だ。風邪を引くリスクは避けねばならないので、令和版の東海道五十三次と洒落込んで、電車で行くことにした。岡部宿まで電車とバスを乗り継いでいく旨をご主人につたえた処、近くの東海道本線の由比駅まで車で乗せていってくれると申し出があった。駅で丁重にお礼を述べて、藤枝駅に向かった。藤枝駅で昼食を済ませ、バス停の場所を確認してから、喫茶店に入り時間調整を行った。藤枝駅発144分、降りるバス停は藤枝市役所岡部支所だ。所要時間約40分。しかし路線バスに乗るのは40年来なく、心配だ。バス停の案内板を見るとスマホの乗換え案内で確認した出発時間と違う。案内所に行って、確認したら、なぜか案内板ではなく電光掲示板の方が間違いないと教わった。よく見たら違うバス会社の人に聞いていた。本来のバス会社の案内所には休憩中のカードがぶら下がっていて、誰もいなかった。隣のバス会社の案内所の人に聞いていた。自分のドジさ加減に一人苦笑した。親切に教えていただいた方には感謝。バスに乗り、下車するバス停を、目を凝らしてみていた。40分位したところ、バスの前方の下車案内に岡部の文字が目に入ったので、迷いなく下車したが、下りてみると何となく雰囲気が違う。バス停の名前を再確認したら、岡部営業所となっていた。

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