山陽道・西国街道旅日記

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P77~78/P89)

293-1.jpgのサムネール画像です。今現在残っているには、塔身と一石彫成の請花・宝珠だけで、火輪と地輪を欠かしているのが惜しまれます。塔身は、高さ58.5センチ、請花は高さ21センチ、宝珠の高さは39.4センチありますが、本来の完全な形であれば、総高230センチもある、大形塔です。」とある。石碑には平安時代の有名な歌人で和泉守橘道貞に嫁いだことから、この名前がつけられた。道貞と離別後、藤原保昌と再婚し、保昌が摂津国河辺郡平井(現宝塚市)の人であったことから、この地に供養塔が立てられたとのこと。293-2.jpg和泉式部の墓や供養塔を伝える石塔は各地にあるが、これは女性の遊行聖(ゆうぎょうひじり)が和泉式部の名で各地を回り、信仰を広めたことに由来するものと考えられるとのこと。式部の歌の中で、伊丹に関係のある和歌は「津の国 こや(昆陽)とも人を いふへきに ひまこそなけれ 芦の八重葺」と歌われたただ一首とのこと。泉式部の墓を後にして、西国街道に戻った。
10分程でJR宝塚線を渡って、T字路にぶつかる。左に曲がると北伊丹東有岡線にでて、川沿いを行くと171号線にでて、右に曲がり猪名川の軍行橋を渡った。293-3.jpg京都・茨木の標識が目に入り、ゴールの京都に近づいている実感がわいてきた。そのまま進んで行くと突き当りになり、左に曲がって、2号線を渡り、新開橋の信号を右に曲がり、箕面川の橋を渡った。道なりに行くと西国街道に出た。そのまま進み中国縦貫自動車道の高架下を通ってすぐに左に曲がると、西国街道に出た。この辺りの西国街道は分り難い。池田市住吉2丁目の交差点を真直ぐ進み、阪急宝塚本戦の踏切を渡ると、すぐ左側に旧石橋村の高札場跡と道標があった。道なりに進むと石橋阪大下の五差路を斜め右に進んだ。

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この右手の方に大阪大学がある。そのまま進み、171号線を横断して箕面川手前の十字路を右に曲がり、5分程で阪急箕野線桜井駅に着いた。桜井駅を右手に見て進み、171号線に合  流したころ、お昼を過ぎていたので、街道沿いのそば屋に入り、ざるそばを食べ、30分程休憩した。

蕎麦屋を出て171号線を進んだが、途中で西国街道に出るのを間違えてしまった。戻るのも面倒なのでそのまま171号線を進んだ。歩道を歩く人はあまりいないが、前方から自転車を引いて歩いて来る男の人がいた。すれ違いざまに「えろー、焼けてまんな」と声をかけてきた。一瞬、意味が分からなかったが、私の顔が異常に日焼けして真っ黒なことを言っていると分かったので、「下関から旧道を歩いて14日目です」と答えると、「げぇ」と声を上げた。

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簡単に下関から京都まで歩いていることを説明した。「いくつになりまんね」と言われたので、73歳だと答えた。「げぇ」と、また驚いた顔をした。私と同じ位の年齢だと思ったので、「お宅さんはおいくつですか」と聞いたら、「とてもとても」と言って別れた。どうやら私よりもだいぶ下で60代半ばのようだ。程なく、菅野三平旧邸の案内板が見えた。途中、「芝村の高札場跡」の案内板があった。それによると「江戸時代、幕府や領主からだされたお触れを掲示する場所で、旧西国街道が通っており、人通りが多いところで、また一里塚あったことが古地図記されている」と記されていた。すぐ近くに菅野三平旧邸がある。今回の旅で菅野三平ことは全く知識がなかった。
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大橋さんが作ってくれた絵地図に西国街道のチェックポイントとして、行程表に入れたに過ぎなかった。記念館

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P75~76/P89)

292-1.jpg戎開門神事福男選び」が正月に行われ、毎年テレビで報道されている。西宮神社の境内に入った時、この福男選びがここで行われていることに、初めて気が付いた。西宮神社を後にして、絵地図に載っている西国街道の甲武橋に向った。193号線を行き、西宮駅を右手に見て、通り過ぎ、産所町の信号を右折し2号線にでて、程なく札場筋の信号を左折し、171号線に出る。阪急神戸線を突っ切り、道なりに進むと、左側に西宮市立中央体育館・陸上競技場が見える。御手洗川橋手前を左折すると西国街道だ。


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川沿いをしばらく進むと小さな広田橋を渡り、左に曲がりすぐ右に曲がる。この辺りの西国街道は分り難い。津門川の橋を渡り、川沿いに進んで行くと、阪急今津線の門戸厄神駅(もんどやくじん) を右手に見て、踏切を横断する。ほぼ道なりに進み171号線に合流し、武庫川の甲武橋に到着したのは850分だった。橋を渡り終え、川沿いに旧道を左に曲がり、狭い歩道を進んで行くと「西国街道・髭の渡し」があった。説明板によると「江戸時代に武庫川を越える西国街道のし場があった。


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街道沿いの西昆陽(にしごや)村に髭を生やした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と名付けられた。参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国街道の新道(現国道171号線)が出来るまで続いた」とのこと。更に1キロ進むと左側に「師直塚」の石碑が目に入った。高師直は南北朝時代の武将で,このあたりで戦死したと云われている。南北朝時代の観応2年(1351年)2,幕府の将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と執事の高師直(こうのもろなお)は,尊氏の弟直義(ただよし)と打出浜(芦屋市)の戦いで敗れた。


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師直・師泰父子は京都へ帰る途中、武庫川を過ぎたあたりで敵方に襲われ討たれたと云われている。場所はよくわからないが、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、文化3年(1806)年完成の「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれている。大正4年(1915)になって村の人々が石碑を建てたが,その後場所が転々とかわって現在地に移ったとのこと。師直塚から10分位で昆陽寺(こやてら)に着いた。


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昆陽寺は天正5年(733)僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7(1579)織田信長の兵火にかかって、一山の堂塔を消失したという。山門は、旧西国街道に面して立っている。層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のもので、豪壮な山門は県かでも類例がなく貴重な構造であると云われている。次に向うのは「伝和泉式部の墓」まで、約3㎞の道のりだ。歩き始めて程なく、「西国街道の碑西天社前」」の信号を斜め右に曲がり、旧西国街道に入る。少し進むと「西国街道昆陽宿跡碑」の説明板が設置されてあった。

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更に進んで行くと、稲野小学校前の道標が立っていた。道標の詳しい事は分からなかった。伊丹警察署前の信号を通り過ぎると、「西国街道の碑」があった。碑には江戸時代には大名行列をはじめ商人や巡礼などが行き交い、俳人の松尾芭蕉や地理学者の伊能忠敬らもこの道を通ったと記されてあった。

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また碑には宿場町が西宮、昆陽、瀬川、郡山、芥川、山崎、京都までの道中筋宿場一覧表が記されてあった。少し先に伊丹坂の地蔵尊が在る所を斜め右方向に行くと、伝泉式部の墓に到着した。墓の周囲は一般の民家の駐車場らしきところであるが、ホームページでは「和泉式部の墓は、旧西国街道の伊丹坂に臨む崖上の小堂内にある、高さが152センチ程の花崗岩製の美しい五輪塔


山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P73~74/P89)

十四日目 4月28日 金曜日

 291-1.jpg4時起床。天気予報は曇り、気温は14℃から22℃だ。足の調子は良い。今回の計画段階で、ここ神戸からどこまで行けばよいか、一番悩んだ。郡山宿までの約40㎞の距離が一番良いのだが、近くにホテルがない。手前の桜井駅近くでもホテルを見つけることが出来なかった。やむを得ず、高槻駅近くのホテルに宿泊することにした。問題は高槻駅近くのホテルまで約50㎞の距離だ。およそ12時間の行程になる。史蹟・旧跡を見学すると1314時間を要する。朝5時に出発しても到着は午後6時過ぎだ。いろいろなルートを探したが、三ノ宮駅から芦屋駅までの区間を電車で行き、芦屋駅から高槻のホテルまで約37㎞を行くことに決めた。

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ホテルを550分に出発して、昨日行くことが出来なかった海軍操練所跡に向い、6時に到着した。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っている。神戸海軍操練所は、「明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っている。

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神戸海軍操練所は、「明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。操練所の開所期間は非常に短かったものの、その間に坂本龍馬、陸奥宗光など新しい時代を担う人々を育て、日本の海軍の歴史にも大きな足跡を残した。」とのこと。

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すぐ近くに神戸の発展に寄与した網谷吉兵衛の顕彰碑が建てられていた。碑には「72歳にして安永新田に船蓼(ふなだて)(舟底の貝殻や舟虫などを焼く場所)の建造に着手、苦節三年大願成就する。1863年時の将軍家茂公が小野浜に上陸の際『この地は港に最適でございます』と進言し、後年この船蓼場は勝海舟の幕府海軍操練所となって、神戸港の夜明けを迎え、今日の繁栄の基礎となる。

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明治293日天寿八十戸歳」と記されてあった。三ノ宮駅発625分電車に乗り、芦屋駅に633分に到着、ここからが高槻に向けての第一歩が始まる。最初の訪問地は西宮神社まで約3㎞、途中、西国街道(171号線、国道2号線)に出て、着いたのは715分頃だった。西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社で、全国に約3,500社あるえびす神社の総本社であり、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれているという。


291-6.jpg第一殿はえびす大神、第二殿は天照大神(あまてらすおおみかみ)、第二殿(治初年に配祀)は大国主神(おおくにぬしのかみ)、第三殿は須佐之男大神(スサノオ)を祀っているという。また福男選びでは、110日午前4時から「十日えびす大祭」が執り行われ、午前6時に終わると同時に表大門が開かれ、参拝者が本殿までの230mを「走り参り」して、先着の3人が福男と認定される恒例の「十日            

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P71~72/P89)

290-1.jpgの片隅に「旧西国街道」の石碑と「旧西国街道~大路(おおみち)~」の案内板があった。中央幹線を挟んで南北両側に「大路通」という町名があり、この町名の由来は西国街道だと云われている。街道は、時代とともにその役割を変化させてきた。古代(律令時代)には街道の重要度や利用頻度などから大路・中路・小路に分けられ、そのうち山陽道は唯一の「大路」とのこと。その後、中世(鎌倉・室町)時代には公定のルートとしての山陽道は存在しないが、近世(江戸時代)に入ると、江戸幕府は参勤交代のために五街道と脇街道を整備した。西国街道は脇街道の一つで、西国大名の参勤交替に使われたとのこと。

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阪神高速3号神戸線の高架下を通り、妙法寺川に架かる三の井橋を渡り、進むと「蓮池の池跡碑」が目に入った。国の史跡に指定されている蓮ヶ池横穴群一帯を整備した公園の中にあり、18㎡の園内に厩舎、鍛冶屋、横穴群集墓などを再現している。西代蓮池公園にある整備された監物太郎頼賢の碑に向った。監物太郎頼賢は、平家の大将・平知盛の家臣であった。一ノ谷の合戦の際、平家の主力である知盛の軍勢は生田の森に陣取って源氏と戦っていたが、劣勢になると浜へと逃れ船で海上へと退却を始めた。大将の知盛も、嫡男の知章、家臣の監物太郎を伴って海辺へ向かって馬を駆っていた。

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ところがその途中で源氏方と遭遇し戦いが始まった。激闘の末、監物太郎は、大将の嫡男知章を斬った敵を討ち取り、奮闘したが、多勢に無勢、ついに左膝を射抜かれ、討死したと云う。監物太郎が討死したとされる場所は、現在碑がある場所から離れたところとされる。享保年間(1716-1735年)に儒学者の並河誠所が監物太郎の忠義を顕彰するために、討死の地からより人通りの多い西国街道沿いである現在地に移動させたという。平家方の名のある武将が多数討死した一ノ谷の合戦の古戦場周辺には、いくつもの碑が立っている。しかし監物太郎のような平家の郎党身分の者の碑は稀であると云う。

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予定よりだいぶ遅れたので、高田屋嘉兵衛本店の地は行かないで、足を速めたところ、平経俊を祀ってある鎮守稲荷神社と石碑があった。案内板によると「平経俊は、平清盛の甥で一の谷の合戦に華と散った敦盛の兄である。

湊川の合戦で、鵯越の守備についていたが、戦利あらず長田の森を経て、西出の浜へと落ちのびてきたところを、源の範頼の郎党名和太郎に追い迫られ、勇ましくも組打ちとなり当地で落命した。時に寿永三年二月御年わずか十八歳であった。」と記されてあった。あと宿泊地の「ホテルヴィアマーレ神戸」まで、約2.5kmだ。到着予定時間は310分を計画していたが、大幅に遅れているので、海軍操練所跡は行かずに、直接ホテルに向かうことにした。ここからはスマホのナビの案内で、2号線の歩道を行くことにした。

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神戸駅南口前を通り、NTT西日本 神戸駅前電話交換所、栄町通4の信号を過ぎ、栄一丁目の信号を左折し、最初のT字路を右折して、仲町通りに入り、4ブロックの左側角にホテルがあった。2時間遅れの5時になっていた。チェックインして、コインランドリーに向い、シャワーを浴びて夕食に出かけた。途中、「旧神戸居留地十五番館」のプレートがあり、慶応312月の兵庫開港により、126区画、25.8haの外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館やホテル、教会などが次々に建てられたと当時の状況が詳しく記されていた。

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ホテルの近くの「ニュー居留地ラフレア」というレストランで、ステーキサンドを頼んだ。本日4462,384歩。見学に時間を要し大幅に遅れた。いつになく疲れたので、部屋に戻り、すぐ就寝。明日は高槻サンホテル。2日後に京都だ。

山陽道・西国街道旅日記 十三日目(P69~70/P89)

289-1.jpgの命を受けて、勝鱗太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が築造した砲台場。タオがんの淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられたとのこと。左手にはJR神戸線の舞子駅が見える。明石海峡大橋の下を通り、兵庫県立舞子公園の真ん中を進んで行く。


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この舞子駅は何度か利用し、左手に見える「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」でお客様の生産説明会・懇談会を行った。懐かしい思い出だ。海岸沿いの舞子公園は松林が整備されリゾート地の趣がある。ここに来る観光客はこの道が西国街道だと気が付く人は少ないのではないかと思う。


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山陽垂水駅を通り越すとすぐに海神社(わたつみじんじゃ)が目に入った。海神社は「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって舟が進めなくなったため、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりと云う。「日本書紀」に記される広田神社・生田神社・永田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、「日本書紀」には当箇所の神社の記述はないという。

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福田川を渡り、JR塩谷駅を過ぎ、JR神戸線の塩屋跨線橋を渡り着いたのは1時40分だった。この辺りは源平一の谷合戦場として知られ、寿永3(1184)27日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から「敦盛塚」と呼ばれるようになったという。

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この五輪塔は花崗岩製の総高4mで、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇るという。このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288) に造立したなど諸説があるという。

一の谷の戦いで源義経の逆落としの奇襲で平家を破ったのは有名だが、裏の崖は断崖というほどではなく、本で読んだイメージとはだいぶ違う。また海がこれほど近くに迫っているとは思わなかった。現場を見ると、より想像力が働くのではないか。いつか平家物語や吾妻鏡を読み直してみたいと思う。見学後、遅い昼食をとることにした。幸い敦盛塚の入り口にある敦盛そば屋に入り、蕎麦とそばの実が入ったぜんざいを注文した。蕎麦も美味しかったが、疲れた体にぜんざいは美味しかった。30分で昼食を終わらせ、出発した。ここは須磨浦公園の端にあり、400mほど進むと細長い公園の終わりに「源平史跡 戦の濱」の石碑があった。

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15分程進むと左手に「村上帝社の祠」があった。村上天皇の琵琶にまつわる伝説から、この地に村上天皇を祀り神社としたもので、この地には以前から前方向円墳があり、琵琶に      似ていることから琵琶伝説に結び付いたと云われている。琵琶伝説とは平安末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、さら奥義を極めたいと入唐の志を持ってこの地に来た。ところが村上天皇と梨壺女御の神霊が現れ琵琶の妙手を授けたので、入唐を思いとどまり帰京したと云われている。見学を終えて、2号線(西国街道)を進み、千守の交差点を左に曲がり、すぐにY字路を右に進むと、2号線と分かれ、西国街道に出る。整備された西国街道は歩きやすい。

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