山陽道・西国街道旅日記 十五日目(P86~87/P89)

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記念写真の右側に「史蹟寺田屋坂本龍馬先生遭難の地」の石碑が立っている。坂本龍馬遭難又は襲撃とは1866 年(慶応2年)124日の午前3時頃、寺田屋に滞在中の龍馬が、伏見奉行所の幕府役人に襲撃された。龍馬はピストルで応戦しながら追っ手をかわし、裏階段から庭に出て、隣家の雨戸を蹴破り裏通りに逃れた。手指を負傷しながら5町ほど(500600メートル)走って濠川に達し、水門を経て入り込んだ屋敷裏手の材木納屋で救援を待ち、酷い手傷を追いながら、薩摩藩から救援隊が来て無事に藩邸に逃れた事件だ。

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庭に入ると「お登勢明神」の碑があった。それによると寺田屋は江戸時代より伏見南浜と大阪八軒屋の淀川間を三十石船往来する船宿を大阪側の堺屋と業務提携して営んでいた。1847年頃に十八歳で第六代目寺田屋伊助に嫁入りしたお登勢は人の世話をすることを厭わない性分であり、明治十年に逝去した。

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寺田屋騒動で上意打ちされた薩摩藩九烈士の供養や、「寺田屋事件」での坂本龍馬など多くの尊王攘夷派の志士たちを保護、支援した生き様は第七代の心に刻まれており、明治二十七年の九烈士三十三回忌に有志一同と、寺田屋騒動が起きた寺田屋址地に記念碑を建立したとのこと。


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奥には寺田屋騒動の記念碑に当時の顛末を彫ってあり、記念碑の前には坂本龍馬の銅像が建立されていた。室内に入り2階に上がると、龍馬と護衛の三吉慎蔵は逗留していた部屋があり、坂本龍馬が高杉晋作から贈られた六連発拳銃(同形)が展示されてあった。また襲撃されたときに放った拳銃跡や刀痕があった。

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一階にはお龍が風呂に入っていた時の風呂も残っており、入浴中に外のザワツキを察知し、幕府役人が来たことを、二階に駆け上がって、いち早く龍馬に知らせ、自身は薩摩藩邸に駆け込み、救援を頼んだと司馬遼太郎は小説で述べている。見学が終わり、気が付いたことがある。幕末のころ寺田屋は宇治川から濠川につなぐ川の途中にあり、大阪、伏見を往来する人達の船宿として生業を立てていた。現在、寺田屋の前は埋め立てられて道路になっているが、道路と住宅の先にある川と一体だったとのこと。

298-6.jpgのサムネール画像

「坂本龍馬遭難の地寺田屋」を後にしたのは午後1時半だった。近くにあった蕎麦屋に入り、昼食をとった。ここから三条大橋まで約10㎞、2時間の距離だ。ゴールが近づくと自然と足が前に進む。十条通りを横断して、鴨川が見えてきた。


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川沿いを進んで行くと、外国人のカップルが、河原の自転車道路でサイクリングを楽しんでいる姿が見えた。五条大橋、四条大橋を通り、三条大橋に着いたのは午後340分。東海道、中山道を通って、三条大橋に着いた時は、新型コロナで人通りはなく、閑散としていたが、今回は人通りも多く、外国人の観光客が目立って多かった。高槻から35㎞の二人旅は終わった。    

  

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