山陽道・西国街道旅日記

山陽道・西国街道旅日記 三日目(P17~20/P89)

三日目 417日 月曜日
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5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませ、6時半に出発。今日の予定は宮市宿にある佐波神社、富海(とのみ)、福川、富田(とんだ)、徳山、花岡(下松市)39kmの行程だ。宮市宿の佐波神社に向えば、旧山陽道と合流する。気温は7℃半袖シャツに薄いジャンバーを着て歩き始めた。出発してまもなく記憶にとどめるため、山の写真を撮った。

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佐波神社へはグーグルナビを使い、6.5km1時間20分の道のりだ。二日続きの雨の中、今日は雨に降られることはないだろう。まだ通勤の車はわずかだ。旧山陽道は標高の低い山が多く、450m前後だという。観光地の道路標識が目に入り、近辺の旧所名跡が分る。佐波神社に着いたのは8時だった。

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佐波神社は、元は金切神社といい仲哀天皇が筑紫征伐の折ち寄った社伝を持ち、天照皇大神ほかの十三柱をまつる神社で、周防国総社として代々の国司が参拝したと伝わっている。明治後半に他の四社を合併し、佐波神社と改称されたとのこと。参拝を済ませ、神社を出て、左に進むと左手に毛利氏庭園があり、その山の手には毛利庭園ゴルフ倶楽部がある。


265-4.jpg毛利氏庭園は旧長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品歴史資料2万点を蔵、公開しており、これらの資料の内国宝が47点、重要文化財が約9千点、西日本有数の博物館として知られている。合わせて、国の文化財に指定されている庭園と屋敷を公開しているという。今宿、浮野を通り抜け、浮野峠108mの茶臼山を越えて、下っていくと山陽本線が右手に見え、瀬戸内海に出て、山陽本線沿いに歩くと左手に旧山陽道の橘坂があり、進んで行くと山陽本線富海駅(とのみ)に着いた。駅の小さなロータリー近辺にある「山陽道富海一里塚跡」を探したが見つからない。


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道を掃除していた人に聞くと、「一里塚なんてものはないよ」と言われてしまった。私の服装を見て質問してきた。旧山陽道を歩いて下関から京都まで歩きながら、街道の歴史を調べていると云うと、幕末に伊藤博文がイギリス留学を中断して、舟でこの富海を経由して下関に行ったとのこと。初耳だ。調べてみると文久3(1863)イギリスにいた伊藤博文、井上薫は英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊が下関を                 攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断し         

265-6.jpgて帰国の途に就いたとのこと、両名は元治元年(1864)624日に富海に上陸し、飛舟問屋入本屋磯七の宅で、刀を借り、衣服を着替えて、山口の藩庁へ行き、勝ち目のない戦いを止めるよう説得をしたが、関門海峡の戦いで長州藩は大敗を喫したという。

初めてのことを知ることが歩き旅の醍醐味だ。富海本陣跡が目に入った。入口には江戸時代山陽道沿いの、宮市から福川本陣へ向う半宿であり、大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人、日田御用金輸送などの比較的小規模な人数の宿泊に利用されたと記してあった。富海駅から国道2号線を突っ切り、ほぼ並走して椿峠を越えて行った。頂上にはドライブインが2軒あるが、両方とも廃屋になっていた。

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椿峠から緩い下りの道を戸田山、赤迫越えを通り、周南市の福川に着いた。福川の本陣・脇本陣は、ともに御茶屋と称して代々福田家がこれを預かるとある。西町にある本陣は表口17間、奥行き14間で門構えのある大規模な屋敷だった。しかし今は門構えだけ残されて、表札は福田で門の奥は福田の住居になっているようだ。午1時前にファミレスのジョイフルで昼食をとることにした。日替わり定食を注文し、30分の休憩を取り、山崎八幡宮を目指した。30分程歩いて行くと道路沿いに鳥居が見えた。

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これが山崎八幡宮の入口である。山崎八幡宮は和銅二年(709)の建立と伝えられる由緒ある神社とのこと。豊作を祈願して山車を坂から突き落とす「本山神事」が有名とのこと。この神事は元禄十五年(1702)徳山藩主の毛利元次が、五穀豊穣を祈願し、奉納したのが始まりと伝わっている。社殿に入りお参りをした。

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山崎八幡宮を出ると、「左下関道 右上方道」の石碑があった。上方方向に歩き始め、次のチェックポイント徳山市にある「孝女阿米の碑」に向った。旧山陽道沿いにある徳山駅近くだ。徳山駅は山陽本線、岩徳線、山陽新幹線が通っている大きな街だ。商店街を通っていくと、眼鏡専門店があったので、サングラスを買うことにした。店主に、昨日から目が充血しているので、UVカットのサングラスを買いたいと話し、べっ甲もどきの サングラスにした。店主からどこから来たのかと聞かれ、下関から歩いて来て今日で三日目、京都まで行くと話したら、驚いた表情を浮かべていた。会計を済ませてドアを開けようとしたとき、冷たいオロナミンCを渡された。その場で飲み干し、お礼を言って店をでた。気持ちの良い人だ。

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店を出ると間もなく目的地の「孝女阿米の碑」に着いた。こんな近いところにあるとは思いもよらなかった。「孝女阿米の碑」の碑文には寛政三年(1791)現在の周南市(旧徳山市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を失い、12歳の時に父が病に伏したため、孝行心の篤い阿米は四六時中、父の看病に尽くし、病状の回復のみに気を配り、孝養を尽くすこと31年に至ったとのこと。阿米さんは62歳で亡くなったが、今も市内の徳応寺には父母の墓と並んで「孝女阿米墓」があり、多くの市民が供養に訪れ、この碑はその功徳を偲ぶ人たちに守られ、今を生きる私たちに「親孝行の大切さ」語り続けているとのこと。碑文の前には花が生けられていた。一昨年両親の七回忌を済ませた自分にとって、改めて親孝行について問うた。 

 山陽新幹線の橋脚下を通り、左折し花岡宿に行くのが、旧道のルートではあるが、ちょうど良いところに宿泊施設がないので、少しルートの外れた南側の国道2号線沿いにある「サンホテル下松」に泊まることにした。新幹線の橋脚を通り過ぎ、末武川の末武大橋を渡り、およそ20分で「サンホテル下松」に到着した。ここは国道2号線と周南バイパスのインターチェンジにあるビジネスホテルだ。450分チェックイン。43.3km62,225歩の3日目だった。

コインランドリーで洗濯。フロントで幕の内弁当を注文、シャワーを浴びて汗を流した。右足小指に大きなマメの水を抜き、消毒液で消毒し、バンドエイドを貼って治療した。1日を振り返りメモを取っていた時、徳山駅近くにある児玉源太郎像に、気がつかず、通り過ぎてしまった。児玉源太郎は明治期の軍人・政治家で、日露戦争では満州軍総参謀長として日本を勝利に導いた。特に203高地の攻防では、多数の犠牲者を出し、遅々として前進できず膠着状態に陥り、バルチック艦隊が日本海を通過し、旅順港に入られると、日本軍は満州での戦いで補給路を絶たれ、全滅する恐れがあった。そこで海軍の提案を受け入れ、203高地を奪取し、観測地を設け半島の反対から、艦砲射撃で旅順港に停泊している旅順艦隊を撃沈した。児玉源太郎は大臣を辞め、格下の総参謀長に鞍替えして、乃木希典大将を助け、203高地の取るため、戦力を集中させるように助言をした。反省を込め、9時就寝。

山陽道・西国街道旅日記 二日目(P13~16/P89)

二日目 416日 日曜日

264-1.jpg  5時起床。目的地の天気予報は曇り時々雨。すぐに雨合羽を取り出せるように、リュック内に一番上に置き準備をした。今日の予定は舟木、山口、小郡、富田、宮市、42kmの計画だ。コンビニのおにぎりを食べて、ホテルを6時に出発した。気温は10℃、若干左足の右側甲部に痛みがあるが、支障はない。足の調子も良い。歩き始めてしばらくして頭に、冷たいものが落ちてきた。264-2.jpg

電線の水滴だ。思わず頭に手を当てたら、帽子をかぶっていない。部屋に忘れてきた。ホテルに引き返し、帽子をかぶり再出発、25分のロスタイムだ。踏切を渡り、厚狭川を渡って道なりに進むと小さなため池があった。

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池の右側を回り込むように進んで行くと、右手から朝日が差し込んできた。さらに狭い道を進んで行くと国道2号線(舟木津布田線)にでた。右折して2号線の歩道を行き、標高57mの西見峠を越えて、チェックポイントの逢坂観音堂を7時過ぎに通過し、次のチェックポイント岡崎八幡宮に向った。途中山間の道を進んで行くと屋根の色が茶色、茶褐色、黒色と同じ色にした 家々が数件ずつ、集落ごとに固まって立っている。一族の結束を示すための屋根の色のように見えた。船木宿に入ると岡崎八幡宮の案内版が見えたので、境内に入った。

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少しさびれている大きな農家の庭みたいだが、中に入ると大きなクスノキがあり船木地区の産土神(うぶすなかみ)で土地の守護神だという。当社は清酒の御神酒の醸造が許可されている全国に四社しかない神社の一つとして知られているという。岡崎八幡宮でお参りし、国道2号線を進んで行くと、標高90mの吉見峠を8時半に越え、山陽新幹線の橋脚下を2度通過し、大坪川を渡り、山陽本線の厚東(ことう)駅近くを通り過ぎたのは910分だった。


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再度、山陽新幹線の橋脚下を通過し、山陽本線と並走し、再再度、山陽新幹線の橋脚下を通過し、進んで行くと瓜生野区に、ぽつんと白木に「殿様道(山陽道往還跡)」の記念碑があった。

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 新町に入り、二俣川を渡り進んでいくと、山中本陣跡、その先に薬師堂と記された白木がひっそりと建っていた。周辺には往時を偲ぶものは皆無だった。12時にコンビニで大盛りのスパゲティとお茶を買い、少し休憩して、次のチェックポイント旧山陽道近くの山口線周防下郷駅だ。国道2号線と旧道が入り組んでいるが、山陽本線の嘉川駅近くを通るので、そこを目指した。順調に進んで周防下郷駅に到着。ここは無人駅だった。次に向かうのは四辻(よつつじ)駅だ。しかしここで道を間違えて反対方向に進んでしまった。方向が分からなくなり、 分かりやすい新山口駅に向い、仕切り直しをした。新山口駅から30分位進んだ時に、空が暗くなって、雷の音が聞こえ、同時に冷たい風が吹いてきたので、急いで店の軒先を借り、雨合羽を取り出し、ズボンも雨用に着替えた。このまま少し歩いて進んだが、雹が降ってきたかと思うと、激しい雨も降ってきたので、通りかかった斎場の大きな屋根の下で、黒い雲が通り過ぎるのを待った。20分後に小雨になったので、次の「大村益次郎の墓」に向って歩き始めた。右側に見える山陽本線と並走して歩き、金毛川を渡って、インターチェンジを通過し、住宅地を通って、目的地の大村益次郎の墓所に到着した。裏山の所を整地してあったが、既に大村神社の社殿は移設してあるとのこと、旧大村神社の社殿の案内板があり、お墓だけがひっそりと佇んであった。

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案内板によると大村神社はこの地にあり、「大村益次郎が明治2年に亡くなった後、この場所にお墓が作られた。明治天皇の名代として、岩倉具視や木戸孝允ら政府高官がお墓にお参りし、彼の遺徳をしのぶに及んで、鋳銭司村の人たちは明治5年益次郎を祭神とする大村神社を建てた。明治11年には三條実美や伊藤博文ら関係者74人が協力して神社の前に神道碑を建てた。明治24年には鳥居が立てられようやく郷土の偉人を祀るに相応しい神社となった。昭和21年神社は長沢池畔の見晴らしの良い現在地に遷座され社殿は防府市内の神社に移築された。」と記されてあった。  

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大村益次郎は文政7年(1824)周防の鋳銭司村(すせんじむら)に漢方医の子として生まれ、蘭方医、兵学者となり四国宇和島藩で、日本で初めて様式軍艦を設計し、建造した。禁門の変で朝敵となった長州藩は、幕府軍を迎え撃つため、軍の総司令官に大村益次郎を任命し、圧倒的な数の幕府軍を破り、長州戦争を勝利に導いた。  

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慶応4年(1868)の戊辰戦争の上野の戦闘では総司令官として指揮をとったが、明治2年暗殺された。 享年46歳。日本陸軍の父といわれ、司馬遼太郎作「花神(かしん)」の主人公として描かれ、維新政府に参画して近代的軍隊の基礎を作ったと云われている。私は30代にこの「花神(かしん)」を何度も読み返し、戦争の原理原則を熟知し、戦略を打ち立て、 戦闘において多数の幕府軍を打ち破ったのは良く理解できた。

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参拝後、午後320分に出発。空模様が変わってきて、冷たい風が吹いてきた。間もなく前よりも大きな雹と激しい雨が降ってきた。住宅のカーポートの軒先を借りて雨合羽に着替えていた時、家の中から20代半ばの人が玄関から出てきて、車の様子を見に来た。軒先を借りることの了承と次に行く道を教えてもらった。長沢池沿いを進んで国道2号線に出て、左折すれば良いと教えてくれた雨宿りをしていたのは約40分、小雨になってきたので、雨具を着たまま、長沢池を進んだ。途中、池を作った人の大きな石碑が立てられ、地域の人々が功績を後世に伝えようと、建立した。それによるとこの長沢池は慶安4(1651)頃、代官東条九郎右衛門の在任中に築かれ、天保年間には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に長沢池の水を供給し、他村が干ばつに見舞われても、長沢池を利用する村々は干ばつを逃れたとのこと。

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大分進んだ頃、日が差してきたので、雨具を脱いで、半袖で進んだ。ドライブインで、おやつを食べ小休止を取った。この辺から本来の旧山陽道は岩淵(佐野)峠を通り若宮に行き、佐波川を渡って宮市宿に行くのだが、距離が有り過ぎる。そこで計画段階から旧道を通らずに国道2号線を通って、佐波川大橋を渡った所にあるホテルにした。国道2号線を進んで行くと、今日 3回目の雨が降ってきた。急いで雨具を身に着けた。今度は雨と強風の中を佐波川大橋に向って歩いた。ホテル到着午後515分、47.8㎞、68,455歩、計画より6㎞多く歩いた。道を間違えた結果だ。下着の洗濯、隣のコンビニで、明日の朝食買い、夕食はホテルで食べ、9時に就寝。疲れた。

山陽道・西国街道旅日記 一日目(P9~12/P89)

263-1.jpg一角に「軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑」の石碑があった。経年劣化で字は読みにくい。亡友と云うのは福田久槌という人であると石碑の銅板に記してあり、詳しいことは分からない。明治37年日本海軍は旅順港内の閉塞作戦を実施、軍艦「朝日」の水雷長広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃したが、散弾に倒れた。37歳であったという。30歳代に司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み、漢詩を愛し、講道館柔道に熱中し六段、ロシア駐在武官時代ロシア語に熟達、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名で、ドラマにもなった。風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男に一種のあこがれを感じていた。
ここから10分もしないうちに高杉晋作回天義挙碑がある功山寺(こうざんじ)に着いた。時間は830分。
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功山寺は鎌倉幕府が滅ぶ6年前、1327年に開かれた曹洞宗の寺院で、高杉晋作が挙兵した寺である。境内にある馬上姿の銅像からはわずか80名という少人数で藩に立ち向かった晋作の強い決意がうかがえる。境内を散策すると三吉慎蔵の墓所が目に入った。
263-3.jpgのサムネール画像幕末、寺田屋における坂本龍馬襲撃事件の際、長州藩から護衛として京に入った人物で、坂本龍馬を助け、一緒に薩摩藩邸に逃げ込んだ人物である。この境内で三吉慎蔵お墓があるとは思いもよらなかった。お墓に向って合掌した。263-4.jpgのサムネール画像  



またこの功山寺には、幕末において7人の公家が京都から追放された。俗にいう「七卿落ち」で、うち5人は功山寺に滞在した。ところが第一次長州征伐の結果藩政の実権を握った俗論派は、5人を追放しようと謀った。高杉晋作の騎兵隊クーデターは、これが原因で起こったものである。すぐそばにある下関市立歴史博物館を訪れた。印象的だったのが「下関に集う志高き人々」のパネルだ。                
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こには中山忠光・久坂玄瑞・高杉晋作・平野国臣・中岡慎太郎・坂本龍馬らが街道と海道が交わる下関において、攘夷戦や幕長戦争の最前線で活躍した人々の紹介をしていた。他にも大内氏の滅亡と毛利氏の進出、毛利秀元と長府藩の始まり、幕府側の長州再征軍進発の絵巻物、幕長戦争、小倉藩との小倉戦争の概要、高杉晋作と坂本龍馬の写真や交流のいきさつ、坂本龍馬の使用した飯碗の展示、長府毛利家に仕えた三吉慎蔵の日記など見ごたえのあるものが多かった。263-6.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

更に旧道を行く。歩きだすと正面方向に長府毛利邸が見える。長府毛利邸は長府藩14代当主毛利元敏、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅とのこと。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした風情を感じさせるという。長府教会を過ぎ、十字路を左に曲がると、古い壁に囲まれた多くの家屋がある通りを進んで行った。しばらく歩くと商店街があり、「乃木さん通り」の標識があった。乃木さんとは長州藩出身で、日露戦争を戦った乃木希典大将のことだ。下関には多くの乃木神社があるが、この通りの近くにも乃木神社がある。また東京赤坂の乃木坂にも乃木神社がある。近くの海岸沿いには工業団地があり、神戸製鋼所やブリヂストンタイヤ工場ある。長府印内町、長府八幡町を過ぎると、左手に山陽本線が見え、線路と並行して進んで行くと山陽本線長府駅まえに着いた。長府駅は旧山陽道沿いにあり、ナビの目的地にすると歩きやすいので、チェックポイントにした。

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次に向かうのは東行記念館だ。しばらく山陽本線の線路沿いを平行に進み、491号線を横断して、宇部市の西町を通り、東町辺りから左に折れ山陽本線を渡って神田川の神田橋を渡った。予定よりも遅れているので、小月駅手前のコンビニでおにぎり弁当を店内で済ませ、出発した。そのまま491号線を進み、木屋川手前を左に曲がり、木屋川沿いに下関宿から四番目の吉田宿に、午後1時半に到着した。吉田宿は大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として栄えた。この町は赤間ヶ関から厚狭、舟木を経て山口に至る山陽道本街道と、長府方面より藩都萩へ通ずる萩街道の分岐点にあたるため、郡役所にも比すべき役所を置いて厚狭郡             一帯の政治経済に当たっていた。

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高杉晋作率いる奇兵隊も駐屯して訓練に励んだゆかりの地とのこと。旧山陽道を少し外れるが、高杉晋作の東行(とうぎょう)記念館(東行庵)に向う。東行記念館は曹洞宗功山寺の末寺で清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)と称し、維新の革命児・高杉晋作の零位礼拝堂として明治17年に創建された。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうのである。

晋作の死後、おうのは「梅処(ばいしょ)」と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられている。早速記念館の受付で入場券を購入した。

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受付のおばちゃんが私の身なりを見て、話しかけてきた。どこから来たの、下関から歩いてきたと言ったら、驚いていた。これから晋作のお墓参りをして、15日かけて京都に行くことを話したら、さらにびっくりした表情を浮かべて、お歳は、何処からと質問してきたので、茨城県から新幹線で下関に来て今日が一日目だと話すと、郷土の英雄晋作を我がことのように教えてくれた。晋作は病気療養のため下関から、3日かけてこの地に来たことを昨日のことのように話してくれた。このような地元の人達が晋作の記念館を守っているのだと感じた。

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靴を脱いで館内に入っていくと、晋作の歴史がわかるように「第一章 藩内における戦い」尊王攘夷を掲げて、長州藩の禁門の変や下関戦争の敗北を受けて、三家老四参謀が死罪、これをきっかけに晋作が起こした功山寺決起は、藩論を変えるきっかけを作り出した。「第二章 幕府との戦い」征長戦争・小倉戦争に勝利し、藩の存亡をかけた戦いで勝利に貢献した。「第三章 病との戦い」では小倉戦争中、体調不良を訴えていた晋作は戦線を離脱し、東行庵で闘病生活に専念した。愛人おうの等が、懸命に看病したが慶応3年(1867年)413日夜半に27歳8ヶ月の生涯を閉じた。

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当時、日本が欧米列強の植民地にならずに、今日の日本の繁栄の礎を築いた偉人の一人だ。このような人々がこの時代に現れたのは、日本の奇跡だ。有名な晋作の辞世の句「おもしろき おもしろきなく世におもしろく」をかみしめて記念館を後にした。今日の宿泊地厚狭市に向う。近くに司馬遼太郎文学碑や奇兵隊の墓があるが、見学で大分時間を費やしてしまったので、拠るのを断念ししばらく歩くと宇賀山陽線を左に曲がり、埴生口峠を越え、山陽本線を横断して、中村の信号を左に曲がって、広い道路(厚狭・埴生線)の歩道を進んだ。         

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前場川を渡りしばらく進むと山陽自動車道がみえ、橋脚下を過ぎ、埴生インターチェンジの標識を過ぎて、談合東の信号を左折し、舟木津布田線に入ると、右手には工業団地が見え、しばらく団地沿いに進んで、宿泊地、山陽本線の厚狭(あさ)駅近くホテルに到着した。一日中小雨が降っていたので、雨合羽を着たままでの一日目の旅だった。到着時間午後5時半、41.3km59,044歩。すぐに下着の洗濯、汗を流し、近くの居酒屋で夕食を取り、9時に就寝した。


山陽道・西国街道旅日記 一日目(P6~8/P89)

一日目 415日 土曜日262-11.jpg

4時に起床。窓を開け、外を見るとやや強い雨が降っている。予定では7時出発だが、しばらく様子を見ていた。雨の降り方が少し弱くなってきたので、40分遅れて出発した。友人からのアドバイスで購入した登山用の雨合羽を身に着け、京都へ上洛の旅の第一歩を踏み出した。雨合羽は軽く通気性も良いので、歩きやすい。

 最初に訪れたのは、旧山陽道の起点とされる亀山八幡宮まで、約2㎞だ。ホテルを出てほどなく右手に見える「市立しものせき水族館 海響館」を過ぎると、唐戸市場が見える。

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唐戸市場は活気あふれる大きな市場で、刺身や寿司、加工食品を販売する露店がたくさん並んでいる。朝早い時間帯と雨が降っているので、客はあまり見られなかった。真向いには亀山八幡宮がある。この亀山八幡宮の石段下に旧山陽道の起点とされる石碑がある。亀山八幡宮は、平安時代に宇佐神社(大分県)から勧請され、室町時代に明と貿易が始まると、遺明船は太刀を奉納し航海安全を祈願したと云う。戦国時代、国内はもとより藩も疲弊し神社も荒廃していたが、藩主大内義興は朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、社殿等を修復した。

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当時朝鮮と交易していたとは言え海外に寄進を仰いだことは毛利氏が支配するようになっても能舞台を建立するなど八幡宮を保護した。

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江戸末期の文久3年(1863年)藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867年)に困難は去ったとして剣馬を寄進された。このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬と庇護が篤い八幡宮であった。また開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国に先駆け外敵防衛策を取り、亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。   

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砲台跡を見たのち、亀山八幡宮で参拝を済ませ、歩き始めるとすぐに日清講和記念館が見えた。日清戦争は朝鮮の情勢をめぐり、朝鮮半島の権益をめぐる争いが原因となって、日本と清国の間で、主に朝鮮半島と遼東半島・黄海で明治27(1894)に交戦し、明治28(1895)日本側の勝利とみなせる日清講和条約の調印によって終結した。すぐ近くに赤間神社がある。赤間神社は壇ノ浦の戦いにおいて、入水した安徳天皇を祀っている。

江戸時代まで安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は「耳なし芳一」の舞台であったと云う。「耳なし芳一」は、古代の日本を舞台とした会談である。

262-77.jpg昔、読んだ本や映画を思い出した。さらに歩みを進めていくと、下関と北九州門司区を結ぶ関門橋(かんもんきょう)が目に入った。昭和48(1973)に開通した全長1,068mの吊り橋で、開通当時は東洋一の長さだったという。橋を通り過ぎると壇ノ浦の古戦場跡がある。この辺一帯は海岸と国道に挟まれた公園になっている。

262-88.jpg  壇ノ浦の戦いは、平安時代末期の1185324日に、長門国赤間関壇ノ浦を舞台としたこの戦いで、栄華を極めた平氏が滅亡した戦いで、源氏と平氏がおよそ6年に渡って争った。
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これによって源氏の棟梁「源頼朝」が鎌倉に幕府を開き、本格的な武家政権を確立した歴
史のターニングポイントになった。公園に足を踏み入れると、大きな「壇ノ浦古戦場跡」の石碑が置かれてあった。
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寿永四年(1185年)三月二十四日、平知盛を大将とした平家と、源義経率いる源氏がこの壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められ、最後を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水し、知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡したと云う。

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さらに2~3分歩くと天保製長州砲の跡がある。幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。


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この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消してしまったが、1966年作家の古川薫氏によってパリの軍事博物館で発見され、当時の外務大臣阿部晋太郎氏の尽力により、1984年貸与の形で里帰りした。この機会に下関東ロータリークラブでは創立20周年記念事業として精密に模造して下関市に送ったという。

 国道9号線を先に進み山陽新幹線の橋脚を横切り、「平家の一杯水」を過ぎ前田の交差点を左折した。ここからが旧山陽道だ。この鬱蒼とした旧道は、今ではハイキングコースになっている。しばらく進むと空地の

山陽道・西国街道旅日記 一日目(P1~5/P89)

まえがき

20224月、東海道五十三次に続き、中山道六十九次を歩いて旅をした。
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20234月は山陽道・西国街道を歩いて京都府三条大橋に行くことにした。最初、京都から下関まで行こうと思ったが、都落ちと云う言葉にネガティブな意味を感じたので、旧山陽道の起点である下関から京都へ上洛する方が、幕末の長州藩の藩士の気持ちが感じられると思った。下関から京都まで約560kmの行程を計画するにあたって、旧山陽道の資料が少なく苦労した。ネットで探し当てたのが昭和48年中国新聞社発行の「山陽道四十八次」だ。この本は下関から大阪までの道のりを作者が歩いて、当時の旧山陽道の情景を描いてある。


    

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しかし大雑把な絵地図しか記載されておらず、下関から大阪までの四十八次の地図は右記に示すような地図しかなかった。この資料を基に歩くことに大きな不安を感じた。調べていくと山陽道は五街道と違い、古来山陽道は都と太宰府を結ぶ最重要の街道であったが、江戸時代では江戸から遠く離れているため、五街道に準ずる脇街道となってしまった。しかし西国大名の参勤交代路で、長崎と江戸を結ぶルートであるなど重要な街道であることには変わりはないと云う。一方では東海道などと比べると見劣りしている。宿場にしても「東海道五十三次」のように大規模でなく、はっきりとしていない。宿泊施設のない半宿や、半宿にしては大きいけれど本宿ではなさそうな宿場が沢山ある。街道の呼び名にしても、地方からの視点の名称も多くあり、今回の旅では山陽道・西国街道の名称でルートを検索していく。山陽道の始点と終点についても諸説あり、当時の幕府は東海道の続きということで大阪~下関間をさすが、古代山陽道にならって京都~下関とすることもあるという。この場合京都~西宮は狭い意味で西国街道と呼ぶと云われている。このようなことから旧山陽道のルートを作るにあたって、大変苦労した。

 そんな時友人の大橋さんから、昭和40年代に発行された「太陽コレクション」という雑誌に記載されている山陽道の本をバラバラにして地図の部分を裁断し、ポケットサイズ(86ページ)の地図に製本し直したと連絡があった。1月に新年会を上野で行っていた時、山陽道の資料が非常に少ないので、困っているだろうとプレゼントしてくれた。早速この地図と山陽道四十八次を見比べた。この地図では下関~京都間の山陽道五十六次であり、中国新聞社発行の本は下関~大阪間の山陽道四十八次となっている。この大橋さんの地図がなければ、「山陽道四十八次」の挿絵をコピーし、張り合わせて地図を作り、挿絵とグーグルナビを使って、計画表を作ろうと思った。しかし大橋さんからプレゼントされた地図を見て、歩いて旅をすることに自信が持てた。この地図に記してある旧跡・名跡・神社をスマホのナビに入力して行程計画を作った。大橋さんに改めて感謝申し上げたい。

 このような経緯で古代山陽道にならって下関~京都の山陽道・西国街道で、下関から京都に上洛するというルートで行くことに決めた。

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                      山陽道・西国街道行程表(下関―京都)

415日㈯ 一日目 下関ドーミーインプレミアム下関 出発7時

亀山八幡宮山陽道石碑⇒壇之浦古戦場高杉晋作回天義挙の碑長府駅小月駅高杉晋作東光記念館長慶寺厚狭市41.3km 宿泊先 

エクストールイン山陽小野田厚狭駅前  

416日㈰ 二日目 出発6時

逢坂観音堂⇒岡崎八幡宮⇒周防下郷駅⇒四辻駅⇒大村益次郎墓⇒佐波川大橋⇒宮市宿(防府市) 宿泊先 HOTEL AZ 山口防府店

417日㈪ 三日目 出発6

佐波神社⇒富海宿富海駅椿峠⇒福川本陣跡⇒山崎八幡宮⇒孝女阿米像⇒富田宿39km   宿泊先 サンホテル下松

418日㈫ 四日目  出発6

久保市公園⇒勝間駅⇒米川駅⇒周防高森駅⇒欽明寺⇒新岩国駅⇒御庄宿(岩国市)38.3km  宿泊先 末岡旅館

419日㈬ 五日目 出発6:00

吉田松陰東遊記記念館長州の役戦跡碑玖波駅大野浦駅廿日市駅古江駅広島宿 45.2km 宿泊先リーガロイヤルホテル広島           

420日㈭ 六日目  出発6

海田脇本陣⇒安芸中野駅⇒瀬野駅⇒八本松駅⇒西条駅⇒西条宿40.5km  宿泊先  東横イン東広島駅前  

421日㈮ 七日目 出発6:00

仁賀ダム展望台⇒賀茂川荘⇒安芸高木山城跡⇒本郷駅⇒三原城址⇒三原宿36.8km  宿泊先  三原ステーションホテル(田部井さん合流)

422日㈯ 八日目  出発6

尾道駅⇒防地峠⇒今津本陣跡⇒備後赤坂駅⇒大渡橋⇒神辺駅⇒井原駅着⇒井原市40.4km  宿泊地  ビジネスホテル歴城荘(田部井さん合流)

423日㈰ 九日目  出発7

旧山陽道⇒日芳橋⇒旧山陽道堀越宿跡⇒矢掛本陣⇒下道氏案内板⇒吉備寺⇒静音駅⇒倉敷市35.3km 宿泊地  倉敷アパホテル倉敷駅前(田部井さん合流)

424日㈪    十日目  出発6:00 

高松城址跡⇒備前一宮駅⇒岡山後楽園⇒東岡山駅⇒香登駅⇒備前長船刀剣博⇒ 岡山宿39.5km  宿泊地  常磐旅館

425日㈫ 十一日目  出発7

片上八幡神社⇒廣高下公民館⇒三石駅⇒有年峠⇒大避神社⇒有年駅⇒相生市38.1km  宿泊地  東横イン相生駅新幹線口

426日㈬ 十二日目  出発6:00

正条宿道標⇒太子町牛飼⇒夢前橋⇒播磨高岡駅前⇒姫路城⇒御着城址⇒加古川橋⇒加古川宿43.0km  宿泊地  ビジネス宿泊穴田荘

427日㈭ 十三日目  出発6

土山駅⇒光明寺⇒史跡敦盛塚⇒一ノ谷戦の濱碑⇒監物太郎の碑⇒海軍練所⇒明石宿39.7 km  宿泊地 ホテルヴィアマーレ神戸

428日㈮ 十四日目  出発5

住吉駅⇒西宮神社⇒甲武橋⇒昆陽寺⇒伝和泉式部の墓⇒桜井駅⇒菅谷三平旧邸⇒郡山宿本陣⇒継体天皇陵高槻⇒郡山宿50km  宿泊地 高槻サンホテル(松本さん合流)

429日㈯ 十五日目  出発8

一乗寺⇒離宮八幡宮⇒正覚寺⇒淀城跡⇒寺田屋跡⇒伏見稲荷⇒京都国立博物館⇒三条大橋30km(⇒京都駅1600)

帰宅予定:京都駅発ひかり65816:33⇒東京駅着19:12⇒東京駅発19:28⇒小山駅着20:09⇒タクシー約40

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前日 414日㈮、自宅を610分に出て、水戸線新治駅発629分、東京駅発83分、新大阪行の8号車に乗った。座席は約半分が埋まっており、ほとんどが外国人観光客、マスクをしているのは2割程度だった。新大阪駅到着後、博多駅行こだま849号に乗り換えると、座席は約60%強が埋まり、半数が外国人だった。コロナが落ち着いて、58日に2類から5に移行するとの報道から観光客、特にインバウンドが戻ってきたようだ。下関行の山陽新幹線に乗り、新下関駅で下車し、山陽本線下関駅に到着したのは1543分だった。

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早速、下関のオービジョン海峡ゆめ広場に向い、海峡ゆめタワーに行き、チケットを買い、エレベーターで展望台に上った。小雨が降っていたが、九州の小倉城、下関国際ターミナル、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島(船島)など下関海峡が一望できた。明日、下関を出発すると、すぐに通る壇ノ浦の古戦場や赤間神社を見ることが出来る。


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今夜の宿はドーミーインプレミアム下関だ。チェックインしてから下関駅に行き、地元でとれる地魚の刺身定食を頂いた。明日の天気予報をチェックしたが、一日中雨が降りそうだ。明日は山陽小野田市厚狭駅近くのビジネスホテルまで、42kmの道のりだ。雨合羽を確認して9時に就寝。

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