山陽道・西国街道旅日記 一日目(P6~8/P89)

一日目 415日 土曜日262-11.jpg

4時に起床。窓を開け、外を見るとやや強い雨が降っている。予定では7時出発だが、しばらく様子を見ていた。雨の降り方が少し弱くなってきたので、40分遅れて出発した。友人からのアドバイスで購入した登山用の雨合羽を身に着け、京都へ上洛の旅の第一歩を踏み出した。雨合羽は軽く通気性も良いので、歩きやすい。

 最初に訪れたのは、旧山陽道の起点とされる亀山八幡宮まで、約2㎞だ。ホテルを出てほどなく右手に見える「市立しものせき水族館 海響館」を過ぎると、唐戸市場が見える。

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唐戸市場は活気あふれる大きな市場で、刺身や寿司、加工食品を販売する露店がたくさん並んでいる。朝早い時間帯と雨が降っているので、客はあまり見られなかった。真向いには亀山八幡宮がある。この亀山八幡宮の石段下に旧山陽道の起点とされる石碑がある。亀山八幡宮は、平安時代に宇佐神社(大分県)から勧請され、室町時代に明と貿易が始まると、遺明船は太刀を奉納し航海安全を祈願したと云う。戦国時代、国内はもとより藩も疲弊し神社も荒廃していたが、藩主大内義興は朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、社殿等を修復した。

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当時朝鮮と交易していたとは言え海外に寄進を仰いだことは毛利氏が支配するようになっても能舞台を建立するなど八幡宮を保護した。

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江戸末期の文久3年(1863年)藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867年)に困難は去ったとして剣馬を寄進された。このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬と庇護が篤い八幡宮であった。また開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国に先駆け外敵防衛策を取り、亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。   

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砲台跡を見たのち、亀山八幡宮で参拝を済ませ、歩き始めるとすぐに日清講和記念館が見えた。日清戦争は朝鮮の情勢をめぐり、朝鮮半島の権益をめぐる争いが原因となって、日本と清国の間で、主に朝鮮半島と遼東半島・黄海で明治27(1894)に交戦し、明治28(1895)日本側の勝利とみなせる日清講和条約の調印によって終結した。すぐ近くに赤間神社がある。赤間神社は壇ノ浦の戦いにおいて、入水した安徳天皇を祀っている。

江戸時代まで安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は「耳なし芳一」の舞台であったと云う。「耳なし芳一」は、古代の日本を舞台とした会談である。

262-77.jpg昔、読んだ本や映画を思い出した。さらに歩みを進めていくと、下関と北九州門司区を結ぶ関門橋(かんもんきょう)が目に入った。昭和48(1973)に開通した全長1,068mの吊り橋で、開通当時は東洋一の長さだったという。橋を通り過ぎると壇ノ浦の古戦場跡がある。この辺一帯は海岸と国道に挟まれた公園になっている。

262-88.jpg  壇ノ浦の戦いは、平安時代末期の1185324日に、長門国赤間関壇ノ浦を舞台としたこの戦いで、栄華を極めた平氏が滅亡した戦いで、源氏と平氏がおよそ6年に渡って争った。
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これによって源氏の棟梁「源頼朝」が鎌倉に幕府を開き、本格的な武家政権を確立した歴
史のターニングポイントになった。公園に足を踏み入れると、大きな「壇ノ浦古戦場跡」の石碑が置かれてあった。
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寿永四年(1185年)三月二十四日、平知盛を大将とした平家と、源義経率いる源氏がこの壇ノ浦を舞台に合戦をした。当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められ、最後を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水し、知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡したと云う。

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さらに2~3分歩くと天保製長州砲の跡がある。幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864年)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。


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この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消してしまったが、1966年作家の古川薫氏によってパリの軍事博物館で発見され、当時の外務大臣阿部晋太郎氏の尽力により、1984年貸与の形で里帰りした。この機会に下関東ロータリークラブでは創立20周年記念事業として精密に模造して下関市に送ったという。

 国道9号線を先に進み山陽新幹線の橋脚を横切り、「平家の一杯水」を過ぎ前田の交差点を左折した。ここからが旧山陽道だ。この鬱蒼とした旧道は、今ではハイキングコースになっている。しばらく進むと空地の

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