山陽道・西国街道旅日記 二日目(P13~16/P89)

二日目 416日 日曜日

264-1.jpg  5時起床。目的地の天気予報は曇り時々雨。すぐに雨合羽を取り出せるように、リュック内に一番上に置き準備をした。今日の予定は舟木、山口、小郡、富田、宮市、42kmの計画だ。コンビニのおにぎりを食べて、ホテルを6時に出発した。気温は10℃、若干左足の右側甲部に痛みがあるが、支障はない。足の調子も良い。歩き始めてしばらくして頭に、冷たいものが落ちてきた。264-2.jpg

電線の水滴だ。思わず頭に手を当てたら、帽子をかぶっていない。部屋に忘れてきた。ホテルに引き返し、帽子をかぶり再出発、25分のロスタイムだ。踏切を渡り、厚狭川を渡って道なりに進むと小さなため池があった。

264-3.jpg

池の右側を回り込むように進んで行くと、右手から朝日が差し込んできた。さらに狭い道を進んで行くと国道2号線(舟木津布田線)にでた。右折して2号線の歩道を行き、標高57mの西見峠を越えて、チェックポイントの逢坂観音堂を7時過ぎに通過し、次のチェックポイント岡崎八幡宮に向った。途中山間の道を進んで行くと屋根の色が茶色、茶褐色、黒色と同じ色にした 家々が数件ずつ、集落ごとに固まって立っている。一族の結束を示すための屋根の色のように見えた。船木宿に入ると岡崎八幡宮の案内版が見えたので、境内に入った。

264-4.jpg

少しさびれている大きな農家の庭みたいだが、中に入ると大きなクスノキがあり船木地区の産土神(うぶすなかみ)で土地の守護神だという。当社は清酒の御神酒の醸造が許可されている全国に四社しかない神社の一つとして知られているという。岡崎八幡宮でお参りし、国道2号線を進んで行くと、標高90mの吉見峠を8時半に越え、山陽新幹線の橋脚下を2度通過し、大坪川を渡り、山陽本線の厚東(ことう)駅近くを通り過ぎたのは910分だった。


264-6.jpg264-5.jpg

再度、山陽新幹線の橋脚下を通過し、山陽本線と並走し、再再度、山陽新幹線の橋脚下を通過し、進んで行くと瓜生野区に、ぽつんと白木に「殿様道(山陽道往還跡)」の記念碑があった。

264-7.jpg
264-8.jpg264-9.jpg






                                                                          

264-10.jpg

 新町に入り、二俣川を渡り進んでいくと、山中本陣跡、その先に薬師堂と記された白木がひっそりと建っていた。周辺には往時を偲ぶものは皆無だった。12時にコンビニで大盛りのスパゲティとお茶を買い、少し休憩して、次のチェックポイント旧山陽道近くの山口線周防下郷駅だ。国道2号線と旧道が入り組んでいるが、山陽本線の嘉川駅近くを通るので、そこを目指した。順調に進んで周防下郷駅に到着。ここは無人駅だった。次に向かうのは四辻(よつつじ)駅だ。しかしここで道を間違えて反対方向に進んでしまった。方向が分からなくなり、 分かりやすい新山口駅に向い、仕切り直しをした。新山口駅から30分位進んだ時に、空が暗くなって、雷の音が聞こえ、同時に冷たい風が吹いてきたので、急いで店の軒先を借り、雨合羽を取り出し、ズボンも雨用に着替えた。このまま少し歩いて進んだが、雹が降ってきたかと思うと、激しい雨も降ってきたので、通りかかった斎場の大きな屋根の下で、黒い雲が通り過ぎるのを待った。20分後に小雨になったので、次の「大村益次郎の墓」に向って歩き始めた。右側に見える山陽本線と並走して歩き、金毛川を渡って、インターチェンジを通過し、住宅地を通って、目的地の大村益次郎の墓所に到着した。裏山の所を整地してあったが、既に大村神社の社殿は移設してあるとのこと、旧大村神社の社殿の案内板があり、お墓だけがひっそりと佇んであった。

264-11.jpg

案内板によると大村神社はこの地にあり、「大村益次郎が明治2年に亡くなった後、この場所にお墓が作られた。明治天皇の名代として、岩倉具視や木戸孝允ら政府高官がお墓にお参りし、彼の遺徳をしのぶに及んで、鋳銭司村の人たちは明治5年益次郎を祭神とする大村神社を建てた。明治11年には三條実美や伊藤博文ら関係者74人が協力して神社の前に神道碑を建てた。明治24年には鳥居が立てられようやく郷土の偉人を祀るに相応しい神社となった。昭和21年神社は長沢池畔の見晴らしの良い現在地に遷座され社殿は防府市内の神社に移築された。」と記されてあった。  

264-12.jpg

大村益次郎は文政7年(1824)周防の鋳銭司村(すせんじむら)に漢方医の子として生まれ、蘭方医、兵学者となり四国宇和島藩で、日本で初めて様式軍艦を設計し、建造した。禁門の変で朝敵となった長州藩は、幕府軍を迎え撃つため、軍の総司令官に大村益次郎を任命し、圧倒的な数の幕府軍を破り、長州戦争を勝利に導いた。  

264-13.jpg

慶応4年(1868)の戊辰戦争の上野の戦闘では総司令官として指揮をとったが、明治2年暗殺された。 享年46歳。日本陸軍の父といわれ、司馬遼太郎作「花神(かしん)」の主人公として描かれ、維新政府に参画して近代的軍隊の基礎を作ったと云われている。私は30代にこの「花神(かしん)」を何度も読み返し、戦争の原理原則を熟知し、戦略を打ち立て、 戦闘において多数の幕府軍を打ち破ったのは良く理解できた。

264-14.jpg

参拝後、午後320分に出発。空模様が変わってきて、冷たい風が吹いてきた。間もなく前よりも大きな雹と激しい雨が降ってきた。住宅のカーポートの軒先を借りて雨合羽に着替えていた時、家の中から20代半ばの人が玄関から出てきて、車の様子を見に来た。軒先を借りることの了承と次に行く道を教えてもらった。長沢池沿いを進んで国道2号線に出て、左折すれば良いと教えてくれた雨宿りをしていたのは約40分、小雨になってきたので、雨具を着たまま、長沢池を進んだ。途中、池を作った人の大きな石碑が立てられ、地域の人々が功績を後世に伝えようと、建立した。それによるとこの長沢池は慶安4(1651)頃、代官東条九郎右衛門の在任中に築かれ、天保年間には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に長沢池の水を供給し、他村が干ばつに見舞われても、長沢池を利用する村々は干ばつを逃れたとのこと。

264-15.jpg

大分進んだ頃、日が差してきたので、雨具を脱いで、半袖で進んだ。ドライブインで、おやつを食べ小休止を取った。この辺から本来の旧山陽道は岩淵(佐野)峠を通り若宮に行き、佐波川を渡って宮市宿に行くのだが、距離が有り過ぎる。そこで計画段階から旧道を通らずに国道2号線を通って、佐波川大橋を渡った所にあるホテルにした。国道2号線を進んで行くと、今日 3回目の雨が降ってきた。急いで雨具を身に着けた。今度は雨と強風の中を佐波川大橋に向って歩いた。ホテル到着午後515分、47.8㎞、68,455歩、計画より6㎞多く歩いた。道を間違えた結果だ。下着の洗濯、隣のコンビニで、明日の朝食買い、夕食はホテルで食べ、9時に就寝。疲れた。

前の記事へ一覧へ戻る次の記事へ

最近のエントリー

カテゴリ

月別に見る

検索


ページ先頭へ