山陽道・西国街道旅日記 四日目(P21~23/P89)

四日目 418日 火曜日
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5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませた。出発予定6時だが、右足小指のマメが痛いので、治療に時間がかかり、6時半に出発した。今日のチェックポイントは久保市公園、勝間駅、高水駅、米川駅、周防高森駅、欽明寺、新岩国駅、そして宿泊地岩国の末岡旅館までの約39kmだ。


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薄曇り少し寒い、風は微風。国道2線を久保市に向けて歩き始めた。しばらくすると左手に山陽新幹線と岩徳線の二線が平行して、こちらに向ってくる。しばらく並行していくと、旧道に出た。汐入峠を越えて、7時40分頃久保市に着いた。ここから山陽本線の勝間駅まで、約5kmの距離で、国道2号線とほぼ同じ道のりを行く。

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標高の低い峠を越えて、山陽本線の踏切を渡り、少し歩くとまた山陽本線の踏切を渡り、勝間駅に8時40分に着いた。ここも無人駅だった。国道2号線を進み、ガソリンスタンド手前の信号を右折し、旧道に入っていく。岩徳線の踏切を渡ると、左に西善寺というお寺が見える。

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この辺りが呼坂(よびさか)宿だ。少し先に「吉田松陰 寺島忠三郎決別の地」の顕彰碑と辞世の碑があった。安政六年五月吉田松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿(囚人用の籠)は萩を発し、小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂に於いて師と無言の別れを告げた。 

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島忠三郎は天保14(1843)近習寺島大治郎の二男として生まれ、16才で松下村塾に入り、吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞と共に自刃した。寺島忠三郎生誕の地はこの少し      先にある。

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中村川の呼坂橋を渡ると呼坂本陣跡があった。呼坂本陣跡は防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂(えびさか)」と記されているという。                                   


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江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を    勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしたと云う。左手に高水駅をみて、先に進み、岩徳線の踏切を渡り、今市宿に入った。



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高水村塾之址の石碑と浄土宗正覚寺を、右に曲がり道なりに進むと、芭蕉塚があり石碑俳句が彫られているが、文字が薄れ判読が出来なかった。更に道なりに進み踏切を渡り、進むと「郡境の碑(山陽道中山峠)」と石碑に彫られた道標があった。「従是東玖珂郡 従是西熊毛郡」と記してあり、東玖珂方面に足を進めた。中山峠の山中を歩く。行きかう人はいない、静かな山の中を歩くと水の流れる音が絶え間なく、聞こえてくる。山の斜面から、小さな水の流れ、少し大きな水の流れを、あちこちから見ることが出来る。このような空間で水の流れる音だけが聞こえる体験は初めてだ。 

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少し行くと石仏4体ありと絵地図に記されてある。調べたが、由来が分からない。ここはもう岩国市だ。島田川支流の橋を渡り、島田川沿いに進むと左手に、米川駅が見える。のどかな日和の中、島田川沿いをのんびりと歩いた。島田川支流を渡って、真直ぐに行くと旧山陽道だが、少し寄り道をして高森天満宮に着いたのは1140分だった。

266-11.jpg高森天満宮由緒には、菅原道真公を主神に奉ってあり、延喜元年菅原公57歳の時、左大臣藤原時平が右大臣である道真公を政敵として排除し、九州に左遷された道真公は太宰府の途中、当地梅林またの名を緑江の里で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉を潤し、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。この由緒ある地に総持寺の勝宗和尚により祠が建立されたと云われている。 
 
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 見学後、旧道に戻り、高森宿の中心部周防高森駅に到着した。結構大きな街だ。途中、吉田松陰宿泊の地の石碑が、また「作家 宇野千代先生文学の碑 入口」の碑が建てられてあるのを見つけた。

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宇野千代は、大正・昭和・平成にかけて活躍した小説家で、 出生地は岩国市(川西駅)とある。高森本陣跡には「旧山陽道 高森本陣跡」と記された白木が建立されてあった。    

      


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