山陽道・西国街道旅日記 三日目(P17~20/P89)

三日目 417日 月曜日
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5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませ、6時半に出発。今日の予定は宮市宿にある佐波神社、富海(とのみ)、福川、富田(とんだ)、徳山、花岡(下松市)39kmの行程だ。宮市宿の佐波神社に向えば、旧山陽道と合流する。気温は7℃半袖シャツに薄いジャンバーを着て歩き始めた。出発してまもなく記憶にとどめるため、山の写真を撮った。

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佐波神社へはグーグルナビを使い、6.5km1時間20分の道のりだ。二日続きの雨の中、今日は雨に降られることはないだろう。まだ通勤の車はわずかだ。旧山陽道は標高の低い山が多く、450m前後だという。観光地の道路標識が目に入り、近辺の旧所名跡が分る。佐波神社に着いたのは8時だった。

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佐波神社は、元は金切神社といい仲哀天皇が筑紫征伐の折ち寄った社伝を持ち、天照皇大神ほかの十三柱をまつる神社で、周防国総社として代々の国司が参拝したと伝わっている。明治後半に他の四社を合併し、佐波神社と改称されたとのこと。参拝を済ませ、神社を出て、左に進むと左手に毛利氏庭園があり、その山の手には毛利庭園ゴルフ倶楽部がある。


265-4.jpg毛利氏庭園は旧長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品歴史資料2万点を蔵、公開しており、これらの資料の内国宝が47点、重要文化財が約9千点、西日本有数の博物館として知られている。合わせて、国の文化財に指定されている庭園と屋敷を公開しているという。今宿、浮野を通り抜け、浮野峠108mの茶臼山を越えて、下っていくと山陽本線が右手に見え、瀬戸内海に出て、山陽本線沿いに歩くと左手に旧山陽道の橘坂があり、進んで行くと山陽本線富海駅(とのみ)に着いた。駅の小さなロータリー近辺にある「山陽道富海一里塚跡」を探したが見つからない。


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道を掃除していた人に聞くと、「一里塚なんてものはないよ」と言われてしまった。私の服装を見て質問してきた。旧山陽道を歩いて下関から京都まで歩きながら、街道の歴史を調べていると云うと、幕末に伊藤博文がイギリス留学を中断して、舟でこの富海を経由して下関に行ったとのこと。初耳だ。調べてみると文久3(1863)イギリスにいた伊藤博文、井上薫は英米仏蘭の4ヶ国連合艦隊が下関を                 攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断し         

265-6.jpgて帰国の途に就いたとのこと、両名は元治元年(1864)624日に富海に上陸し、飛舟問屋入本屋磯七の宅で、刀を借り、衣服を着替えて、山口の藩庁へ行き、勝ち目のない戦いを止めるよう説得をしたが、関門海峡の戦いで長州藩は大敗を喫したという。

初めてのことを知ることが歩き旅の醍醐味だ。富海本陣跡が目に入った。入口には江戸時代山陽道沿いの、宮市から福川本陣へ向う半宿であり、大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人、日田御用金輸送などの比較的小規模な人数の宿泊に利用されたと記してあった。富海駅から国道2号線を突っ切り、ほぼ並走して椿峠を越えて行った。頂上にはドライブインが2軒あるが、両方とも廃屋になっていた。

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椿峠から緩い下りの道を戸田山、赤迫越えを通り、周南市の福川に着いた。福川の本陣・脇本陣は、ともに御茶屋と称して代々福田家がこれを預かるとある。西町にある本陣は表口17間、奥行き14間で門構えのある大規模な屋敷だった。しかし今は門構えだけ残されて、表札は福田で門の奥は福田の住居になっているようだ。午1時前にファミレスのジョイフルで昼食をとることにした。日替わり定食を注文し、30分の休憩を取り、山崎八幡宮を目指した。30分程歩いて行くと道路沿いに鳥居が見えた。

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これが山崎八幡宮の入口である。山崎八幡宮は和銅二年(709)の建立と伝えられる由緒ある神社とのこと。豊作を祈願して山車を坂から突き落とす「本山神事」が有名とのこと。この神事は元禄十五年(1702)徳山藩主の毛利元次が、五穀豊穣を祈願し、奉納したのが始まりと伝わっている。社殿に入りお参りをした。

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山崎八幡宮を出ると、「左下関道 右上方道」の石碑があった。上方方向に歩き始め、次のチェックポイント徳山市にある「孝女阿米の碑」に向った。旧山陽道沿いにある徳山駅近くだ。徳山駅は山陽本線、岩徳線、山陽新幹線が通っている大きな街だ。商店街を通っていくと、眼鏡専門店があったので、サングラスを買うことにした。店主に、昨日から目が充血しているので、UVカットのサングラスを買いたいと話し、べっ甲もどきの サングラスにした。店主からどこから来たのかと聞かれ、下関から歩いて来て今日で三日目、京都まで行くと話したら、驚いた表情を浮かべていた。会計を済ませてドアを開けようとしたとき、冷たいオロナミンCを渡された。その場で飲み干し、お礼を言って店をでた。気持ちの良い人だ。

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店を出ると間もなく目的地の「孝女阿米の碑」に着いた。こんな近いところにあるとは思いもよらなかった。「孝女阿米の碑」の碑文には寛政三年(1791)現在の周南市(旧徳山市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を失い、12歳の時に父が病に伏したため、孝行心の篤い阿米は四六時中、父の看病に尽くし、病状の回復のみに気を配り、孝養を尽くすこと31年に至ったとのこと。阿米さんは62歳で亡くなったが、今も市内の徳応寺には父母の墓と並んで「孝女阿米墓」があり、多くの市民が供養に訪れ、この碑はその功徳を偲ぶ人たちに守られ、今を生きる私たちに「親孝行の大切さ」語り続けているとのこと。碑文の前には花が生けられていた。一昨年両親の七回忌を済ませた自分にとって、改めて親孝行について問うた。 

 山陽新幹線の橋脚下を通り、左折し花岡宿に行くのが、旧道のルートではあるが、ちょうど良いところに宿泊施設がないので、少しルートの外れた南側の国道2号線沿いにある「サンホテル下松」に泊まることにした。新幹線の橋脚を通り過ぎ、末武川の末武大橋を渡り、およそ20分で「サンホテル下松」に到着した。ここは国道2号線と周南バイパスのインターチェンジにあるビジネスホテルだ。450分チェックイン。43.3km62,225歩の3日目だった。

コインランドリーで洗濯。フロントで幕の内弁当を注文、シャワーを浴びて汗を流した。右足小指に大きなマメの水を抜き、消毒液で消毒し、バンドエイドを貼って治療した。1日を振り返りメモを取っていた時、徳山駅近くにある児玉源太郎像に、気がつかず、通り過ぎてしまった。児玉源太郎は明治期の軍人・政治家で、日露戦争では満州軍総参謀長として日本を勝利に導いた。特に203高地の攻防では、多数の犠牲者を出し、遅々として前進できず膠着状態に陥り、バルチック艦隊が日本海を通過し、旅順港に入られると、日本軍は満州での戦いで補給路を絶たれ、全滅する恐れがあった。そこで海軍の提案を受け入れ、203高地を奪取し、観測地を設け半島の反対から、艦砲射撃で旅順港に停泊している旅順艦隊を撃沈した。児玉源太郎は大臣を辞め、格下の総参謀長に鞍替えして、乃木希典大将を助け、203高地の取るため、戦力を集中させるように助言をした。反省を込め、9時就寝。

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