茨城におけるものづくり企業経営史(1)

20135月、筑波大学人文社会系 平沢照雄教授から連絡を頂き、「茨城におけるものつくり企業経営」の研究の一環としてゼミの学生5名と会社訪問と工場見学の申し入れがあり、そのインタビューを平澤研究室で筑波大学『経済学論集』第66号(20143月)に発表されたので、本日公表する。 

表題

 オーラルヒストリー

   茨城におけるものづくり企業経営史

           ―協立製作所・高橋日出男社長に聞く―

1

はじめに

 本稿は,茨城におけるものづくり企業の史的展開を明らかにする作業の一環として,協立製作所社長高橋日出男氏に,創業から今日に至る同社の企業経営について聞き取り調査を行った記録である2)。

 ここで同社の概要を示すと表1のようになる。同社は油圧機器部品の専門

1 協立製作所・会社概要

設立       19582月(創業者:高橋庫吉)

資本金    9,400万円

従業員    273名(正社員:248名、パート他:25名)

事業内容              精密加工による油圧機器部品の製造

本社           東京都品川区東中延1丁目

茨城工場              茨城県筑西市三郷1239

関係会社              協立熱処理工業()(同上)

上海協立機械(中国上海市松江工業区)

        (資料)1会社提供資料より作成。

     (注)  従業員数:201341日現在。茨城工場および協立熱処理工業の

         合計

1         筑波大学人文社会系教授

2         高橋日出男氏略歴

1950年に創業者高橋庫吉の長男として生まれる。1972年日本大学理工学部精密機械工学

科卒業後、19743月協立製作所に入社。19939月同社社長に就任し、現在に至る。

                                平

メーカーとして,油圧機器の精密部品製造をはじめとし,油圧のピストンポンプやバルブのアッセンブルを主な事業として発展してきた。なかでも建設機械の分野において,油圧ショベル用コントロールバルブの主要コンポーネントであるスプールで世界シェアの約4割を占めるに至っている。

また表2の沿革に明らかなように,同社は、日本経済が高度成長を開始した時期に東京品川の地において製造を始め,高度成長末期にさらなる成長を期して茨城に進出した中小企業であった。茨城におけるものづくり企業に関しては,県北部の日立地区に集積する中小企業がその代表事例として取り上げられるこことが多い。これに対して協立製作所は,そうした産業集積地である日立以外の地域への進出を企図したこと,また進出当初から特定企業の下請けにとどまらず自立経営を指向した点で注目される事例である。

同社は茨城進出直後に石油危機に直面するが,1970年代末以降に取引企業を拡大する形でそれを乗り越える。さらにバブル崩壊と前後する形で中国(上海)に進出するとともに,日本国内においては部品製造にとどまらずアッセンブル製品も積極的に手がけつつ取引相手をいっそう拡大することで,「失われた10年」と言われる時代にも成長を続けてきたものづくり企業として注目することができる。なおこうした発展により,同社は2008年に経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」にも選ばれるに至っている。

 およそ以上の展開を踏まえ,本調査では,主に以下の3点を中心に聞き取りを行った。(1)同社の経営にとって大きな画期となった2つの地域展開-①東京から茨城への進出,②中国上海への進出が,どのような意図あるいは経緯で行われたのか。(270年代の石油ショックをはじめとして90年代初頭のバブル崩壊さらには2008年のリーマンショックに至る外部環境の激変に直面しながら,それをどのように乗り切ってきたのか。(3)ものづくり企業として持続的な成長を実現するにあたり,同社の企業理念や経営目標さらには社長の経営思想がどのような役割を果たしてきたのか,という点である。

茨城におけるものづくり企業経営史           

表2 協立製作所・沿革

1954   11       切削工具の研削・製造開始

1958   2      東京都品川区に有限会社協立製作所を設立

1965   5      油圧部品の研削・製造開始

                            カヤバ工業()(現KYB)と取引開始

1971   8      茨城県真壁郡協和町(現 筑西市)に茨城工場を開設

1979   5      油研工業()と取引開始

               9      ()不二越と取引開始

1980   7      日立建機()と取引開始

1991   6      上海協立機械部件有限公司を設立

                            川崎重工業()と取引開始

1992   9      ()小松製作所(現コマツ)と取引開始

1993   11       (茨城工場)スプール専用工場完成

1996   10      組立工場完成、バルブAssy製品納入開始

1997   9      (茨城工場) 熱処理工場完成

2000   11       ISO9001認証取得

2001   7      東芝機械()(現ハイエストコーポレーション)と取引開始

              10      キャタピラー三菱()(現キャタピラージャパン)と取引開始

2004   4      (茨城)新工場完成、FMS導入、三菱重工業()と取引開始

               4      ハイエストコーポレーションへポンプAssy製品納入開始

2005   12      コマツへポンプAssy製品納入開始、ISO90012000年版)更新

2006   2      協立熱処理工業()設立

2007   9      (茨城)新工場増設(K6工場)

2008   1      資本金9,400万円に増資

               2      ISO14001認証取得

               4      経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれる

               6      コマツへフォークリフト用新バルブAssy製品納入開始

2009   5      東京工場を茨城工場へ統合

               7      日立建機へパワー・ショベル(PS)用レギュレータバルブ納入開始

              12      ISO140012004年版)更新

2010   2      ISO90012008年版)移行・更新

2011   7      「いばらき産業大賞」(茨城県知事表彰)を受賞

               8      パワー・ショベル用メインスプール増産設備(20,000/月)導入

              11       ISO90012008年版)更新

(資料) 会社提供資料より作成。

 なお調査は,201364日に協立製作所茨城工場(茨城県筑西市)におい

て実施された。調査実施にあたっては、高橋社長とともに同社総務部長飯塚勝

夫氏に大変お世話になった。記して感謝の意を表する次第である。当日の聞き手は平沢照雄および筑波大学社会学類平沢ゼミナール学生(市瀬,北浦,津留,長門,浜野)である(以下,本文では一括して質問者と表記する。また本文中の( )内は,特に断りのない限り平沢が補足したものである)。

茨城県経営協会新年号寄稿

新年あけましておめでとうございます。

昨年、本格的な建機の回復は「45月頃の需要状況を見て判断する必要がある」と報告したが、予想を超えた回復に生産が追い付かず、大変忙しい一年だった。有効求人倍率は1.5倍に迫り、製造部門の人手不足は酷く、昨年だけでも90人増員したが、そのほとんどが外国人労働者だった。今年も10%程度の生産増が予想される。今後の生産年齢人口の減少を補うには、技能実習制度を超えた労働力の国際化は急務である。

次に昨年の新年号の続きを述べさせていただきます。91年に上海市で営業許可を取り、ココム規制をクリアし、茨城工場で働いていた中国人2名と現地採用の会計士の3名で市内の賃貸工場を借りて上海協立の生産が始まった。生産の全量を日本に輸出し、生み出した利益を設備投資に回し、紆余曲折はあったが、95年頃に50人を超え、上海市新橋区にある特別開発区の工業団地に移転した。その後業績を伸ばしていったが、98年金融危機の時、日本からの注文が激減したため、中国国内の外資系企業から注文を取るように経営方針を変更した。順調に受注を伸ばしていった2004年、従業員は60名を超えたが、中国政府の金融・インフラ開発の経済政策の変更で、経済は急減速したため、厳しい経営を余儀なくされた。

2008年、農民工と云われる製造現場の労働者は雇用契約の更新延長で従事していたが、労働契約法が終身雇用制に改正されたため、労働問題に巻き込まれるのを回避するため、外注工場の開拓を進め、改正の猶予期間中に人員を半分以下にした。中国の景気は2011年をピークに2015年には底を打ち回復してきた。中国市場の回復は㈱協立製作所に多大な影響を及ぼしている。今年は徹底したムダの排除を行い、スマートな工場を再構築していきたい。

無題0412.JPG


大洗ゴルフ倶楽部秋季号 寄稿

8月初旬、いつも通り大洗ゴルフ倶楽部でプレーし、ホールアウトしたところ、総務課長が出迎えてくれた。「髙橋さん会報誌の思い出のホールと云う企画に寄稿してほしい」と依頼された。かねてより会報誌の「思い出のホール」を読んでいたので、快諾した。その記事と会報誌の表紙・5番ホールの写真を下記に掲載する。

無題180116.jpg





無題180116-1.jpgタイトル:思い出の5番ホール

 

 5年前、5番ホールでイーグルをとれた事が、私の強烈な思い出です。ドライバーは芯をくいナイスショット、ベストポジションの右寄りをキープ、ピンポジションはセンター手前のやや右寄り、残りおよそ170ヤード、5番アイアンをやや短めに持ち、バックスウィングのトップの位置も決まり、バランス良く最高のスイング。フォロースル-もピタリと決まり、そのままボールの弾道を追いかけた。グリーンセンターを狙っていたが、意思に反してややフェード気味に、グリーンエッジに落ちて、そのままカップイン。イーグルだ!ボールが転がって行く様子をはっきりと目で追いながら、信じられない気持ちとこれだからゴルフは止められない、そしてますますゴルフにのめり込んでいきそうな気持ちになった。

 

 未だにホールインワンをしたこともない私がイーグル。それも屈指の難コースである大洗のハンディキャップ1の5番ホールで、イーグルを取れるとは考えもしなかった。しかし奇跡は二度起きた。後半の10番ホールで3打目、およそ100ヤードを左のラフからナイスショットでイーグル。二度あることは三度あるとばかりに、プレーしたが、今日まで奇跡は起きていない。やはりまぐれ?

 

 9年前の58才の時、友人に誘われ大洗のメンバーになった。コースに魅了され次第に訪れる回数が増えていった。そのうちにシングルの域に達したい思いが強くなり、月一ゴルファーが60歳の時には週一ゴルファーに、65歳を過ぎると華麗なる変身を遂げて週二ゴルファーになった。さて70歳からは週三ゴルファーになれるか楽しみである。ちなみに64歳でハンデ9を達成。現在ハンデ8

 

 最後になりますが、いつも楽しくプレーさせていただいているメンバーに感謝いたします。ありがとうございます。

無題180116-2.jpg無題180116-3.jpg(左)

昭和48年頃の5番ホール

           


   (右)5番ホール全景

茨城県経営者協会創立70周年記念誌の寄稿

201767日水曜日水戸プラザホテルにおいて、茨城県経営者協会の創立70周年記念総会が開かれた。それに先立ち会報誌に寄稿した。

 

「茨城県経営者協会創立70周年誠におめでとうございます。

 この記念の日に鬼澤会長のもとで、副会長として皆様をお迎え出来ることを大変うれしく思います。

 私は平成254月より副会長を務め、今回の記念総会に参加できること光栄と同時に、改めて役職の重さに身が引き締まる思いです。会員企業の多くが中堅・中小企業であり、中小製造業の意見を経営者協会に、協会から茨城県へ届けることが、私の役割と思い活動してまいりました。私は1996年茨城県上海事務所の開設をきっかけに、経営者協会の経営教育委員会で「中国事情」をお話しする機会がありました。このことがきっかけになり、委員会活動に参画すようになりました。委員会活動を通じて異業種の人達との出会いは大変勉強になったのと同時に楽しい思い出にもなりました。

 私が茨城県民になったのは1974年です。東京で育ち、学び、㈱協立製作所に入社し、茨城工場立ち上げのため筑西市に移り住み、44年が経ちました。この間、世界経済の激変は云うまでもありません。85年のプラザ合意からバブル崩壊、金融危機、リーマンショックそして2012年以降の中国経済の低迷。私の会社が属する建設機械は2000年以降に中国で急成長しましたが、リーマンショック後の大不況、中国の約60兆円の財政出動による急回復、その後2011年をピークに長期の低迷、2015年に底を打ち、2016年後半に急回復と世界経済の荒波にもまれてきました。

 日本の製造業はコストの低い新興国に進出し、グローバル化に順応してきましたが、足元を見ると長年の課題である少子高齢化に歯止めがかからず、生産年齢人口の減少が中小製造業にとって重くのしかかっています。製造業の立場で課題解決に向けて情報発信を行っていきたい。」

 

現在、会員数は7月末時点で1,146社、今期の会員増強運動で目標会員数は1,170社。

 

茨城県経営協会新年号寄稿

半年以上遅れてしまったが、茨城県経営者協会の新年号の寄稿を掲載する。

建設機械の代表的な機種である油圧ショベルは世界需要の半分を中国が占める。昨年前半、4年に渡る不況に底打ち感が出てきた。8月頃から対前年同月比で増加に転じ、11月に入っても改善が続いている。今回の長い不況は2008年のリーマンショック後に60兆円の財政支出を実施し、世界経済を支えた中国が、そのリバウンドで需要の減少、過剰在庫、腐敗撲滅運動による工事の未着工等々が長い不況の要因と考えられる。特に地方政府の資金不足が影響したと云われている。昨年、新規国債の発行が、地方政府の仮需の借り換えで可能になり、工事再開の需要条件が整ってきたことが回復の要因としてあるようだ。しかし本格的な回復を予想するには45月頃の需要状況の様子を見て判断する必要がある。

19891222日の夜、初めて上海の虹橋空港を降り立った。空港内には機関銃を持った人民解放軍の兵士がパトロールしていた。半年前に起きた天安門事件の影響で警戒しているとすぐに分かった。出口に向かって行くと、うす暗い中で目だけが光っている大勢の人達がこちらに視線を向けていた。異様な光景だった。知人二人の顔が見え、安堵したのを覚えている。上海で会社を作って、人を集め、日本語教育を行った後、協立製作所で技能実習を行い、上海に戻して部品を製造し、日本に輸出する。当時の人手不足の解消と海外進出の目的のため、自分の目で見て、肌で感じて、実施の可能性をみたいと思った。

1971年創業者の父と会社の将来を話し合った。当時、東京品川の小さな町工場だった協立製作所は10人足らずの従業員で、1階が工場、2階が住まいで住込みの従業員も数人いた。私は地方に工場を作れば、自分が行くと話した。品川の工場は常に人手不足で、納期を間に合わせるため、両親は従業員が帰ってからも仕事をしていた。これらを解消するため、地方の工場であれば、人手不足を解消できるのではないかと提案した。入社後いかに考えが甘かったかを思い知らされ、後に人手不足解消のために上海進出へと繋がって行くことになるとは、この時思いもよらなかった。

茨城工場に赴任した時は40坪の工場に4名で始まった。それから15年の間に3回の増築で工場は320坪に拡大し、社員は50名を超えていた。80年のバブル時代、人手不足は恒常的に起こっていた。東京でスポーツ新聞に社員募集を出したところ、中国人1名が応募し入社した。この中国人から友達を紹介してもらい、茨城工場に2名の中国人が来ることになった。バブル期後半には中国人や他の外国人だけで3040名在籍するようになり一時的に人手不足は解消した。同時に発生していたのが、工場スペースの不足だった。土地の用途変更があり、工場の増築は出来ず、深刻な問題へと発展していった。移転できる適当な場所が見つからなかったが、およそ3年で開発行為と建築確認の許可をもらうことが出来た。新工場は経営の決定から4年目で完成した。また同時に活動を開始していたのが、中国に進出し、人手不足解消と工場面積の拡大を行うことである。会社設立の活動を始めてから1年で認可を受け、貸工場の契約も行い準備ができた。中国の会社には最初に茨城にきた中国人2名が設立に参加した。しかしその後さまざまな困難が待ち受けていた。

続きは次の機会で報告したい。

 

字数が限られていたので、続きは2018年の新年号に掲載予定。

茨城産業人クラブ経済講演会inつくば2017

茨城産業人クラブでは530日、茨城県つくば市で「茨城産業人クラブ経済講演会inつくば」を開催した。つくばでの講演会開催は昨年に続き2回目。科学技術が集積し、ベンチャー企業の創出も相次ぐつくばの地で、事業を下支えするつくば研究支援センターの斎田社長と、コマツ茨城工場の鈴木工場長が国内でも最先端のIoTを推進する取り組みについての講演が行われた。(日刊工業新聞社記事による。)

 

私の会長挨拶は以下の通り。

「茨城産業人クラブ会長を仰せつかっている高橋でございます。

日頃より、茨城産業人クラブに対し、多大なるご協力を賜り、また このように多くの方々にお集まりいただき、厚く御礼申し上げます。開会にあたり、主催者を代表し一言ご挨拶をさせていただきます。

 

茨城産業人クラブは昨年に続き二度目の「つくば市」での経済講演会となります。つくば市は皆様ご存じのように、国の研究機関等が多数立地する国内有数の知的集積地であり、「サイバーダイン」を始めとする多くのベンチャーが起業する場所としても注目を集めています。

また、つくば市は「国際戦略総合特区」の指定を受けるなど、研究機関の研究成果を、今まで以上に新事業・新製品に結びつけようとする動きも活発化してきております。 我々、県内中小企業としましても、つくば市に集積する科学技術をいかに活用するかが今後はより一層重要になってくるのではないでしょうか。

 

さて、日本経済ですが、内閣府が18日に発表した2017年1―3月期のGDP(実質国内総生産)は大方の民間予測を上回り、年率換算2・2%のプラスとなり、11年ぶりの5四半期(ご しはんき)連続成長となりました。緩やかな景気回復が続いているという政府の景気判断を裏付ける結果となった訳ですが、経済成長を実感している経営者は少ないのではないでしょうか。

 

一方、労働生産人口の減少や景況感の改善、建設機械の急回復やスマートフォン関連などの生産の好調さの中、人手不足が大きな問題になっています。中小企業の人手不足感が新年度になっても収まっていません。日本政策金融公庫総合研究所が製造業を対象に実施した調査によりますと先月の従業員判断指数、つまり不足の割合から過剰の割合を引いた値はプラス19.4と前の月から0.1ポイント上昇しました。これは1995年の調査開始以来最高を更新しているとのことです。直近の県内有効求人倍率は1.4倍になるなど小規模企業では人手不足で事業を縮小せざるを得ないところも出ていると聞いています。官民挙げて人手不足問題を解決する工夫が必要ではないでしょうか。

 

海外に目を向けますと北朝鮮問題による東アジアの緊張の高まりや、米トランプ大統領の疑惑など、多分に外的要因に左右されるところが大きい昨今の景気動向です。ただ、こうした難しい状況にあっても、新しい技術や製品、サービスを創出し、人々の暮らしを豊かにしていくという企業の本分は変わりません。それぞれの企業が事業を通じて社会に役立つことで、社会から信頼される存在になり、それが継続的な成長に結びついていくのだと思います。

 

本日の経済講演ではつくば研究支援センターの斎田陽介社長に「つくば発ベンチャーの最新トレンドとつくば研究支援センターの役割 」について 、お話しいただき、小松製作所の執行役員生産本部茨城工場長の鈴木 康夫様には「コマツ流IoT活用」と題しご講演いただきます。

 

我々 製造業経営者の抱える多様な経営課題に対し、多くのヒントをいただけるのではないかと期待しております。」

茨城産業人クラブ50周年式典

昨年(2014)、11月4日水戸京成ホテルにおいて、茨城産業人クラブ50周年の記念式典がおこなわれ、長年の功績に対して30社を超える企業・団体に感謝状を贈呈した。

 

私の会長挨拶は以下に要約。

 

「先週、日銀が追加緩和を発表し、株価は大幅に上昇し、為替相場も欧米では114円まで、円安が進みました。日銀総裁は「円安は日本経済全体ではマイナスよりもプラス」と述べる一方で、「製造業、特に輸出企業にはプラスになるが、輸入企業や非製造業、中小企業にはマイナスの影響が直接的に及ぶ」との認識を示されました。我々中小企業にとっては非常に難しい対応を迫られると思いますが、今後の成長戦略を注視したいと思います。

 

さて、茨城産業人クラブは、2014年4月、設立50周年を迎えることが出来ました。これも偏に会員各社の長年にわたるご支援の賜物であるとともに、激しい時代の変遷の中で礎を築いてこられた先輩達の努力の成果であると、心より御礼申し上げます。

 

1964年(昭和39年)産業人クラブは、政治、経済、技術などの情報を交換し、経営者の資質向上、事業の拡充を図り、わが国産業の発展に寄与することを目的に、工業人クラブとして、関東地区の産業人111人で設立されました。正確な産業情報を素早くキャッチし、それぞれの企業経営に役立てること。さらには産業界に起こるさまざまな問題の研究や、解決を図りながら「日本の将来は工業立国である」という共通の目標のために手を組んで進もうと組織され、当地域では常磐地区の産業界の交流、発展を図るために「常磐工業人クラブ」として会員26名、特別会員名で スタートしました。初代会長は、日立市の日立機械工業社長の北山直太郎氏が就任されました。その後、6代目に平沼産業の平沼社長、7代目にコロナ電気の柳生社長を経て、私が8代目の会長を務めることとなりました。

 

現在、茨城産業人クラブでは、幾度かの名称変更を経て、会員160名を擁し、県内産業の活性化を目的に産・学・官・金交流活動などをベースに諸事業を実施し、会員企業の長期・安定的な発展基盤の構築を目指しています。

 

本日は永年会員として産業人クラブを支えてくださった企業の方々に感謝もうしあげ、記念講演では日野自動車・市橋社長様にご登壇いただき、今後の目指す方向と取組みになどについてご講演いただきます。講演会後の懇親交流会には橋本知事・県幹部の方々も出席されますので、多くの皆様にご参加をお願い致します。

50周年集合写真2014.11.18.jpg

シングルへの道

2014年は月末にハンデキャップになってから、月は成績が悪く90を切れなくなってしまった。シングルになった達成感が強かったためか、なんとなく次の目標が定まっていないためか、同じ気持ちでプレーしているつもりでも、スコアがまとまらない。どこかのホールで大たたきしてしまう。忙しくなって練習が出来なくなったのも調子を落とした一因かも知れない。

同年月の連休中に毎日続けて練習したところ、少しずつ感覚が戻ってきた。月のコンペで84を出し復調の兆しが出てきた。夏休みも練習を行い、コースにも行きプレーしたところ、月末のころに調子が上向いてきた。月に行われた大洗ゴルフ倶楽部のシニア選手権で、初日アウト45イン4287でまわり、二日目アウト43イン41の  84、トータル171でホールアウトした。ハンデキャップラウンドで18、ネット153オーバーで優勝した。開場記念杯は1025日土曜日に出場し、FT6188ヤード、アウト40・イン3979ホールアウトし、アンダーで優勝した。2014年は通算回優勝し、最高のゴルフイヤーだった。

私が2014年最高のプレーが出来たのは10日に開催された理事長杯である。予選を通過した32名が翌週マッチプレーで戦っていく。私は午前の回戦は大変調子が良く、特にドライバーが近年になく調子がよかった。距離も十分でフェアーウエイのキープ率も高かったので、16番で決着がついた。軽食を取り、回戦に臨んだ。ドライバーとパティングの調子も持続し、アップで勝った。回戦の相手はハンデのHさん強敵だ。前半は相手の調子が悪く、私は調子が持続していた。ホールでアップし勝てるかも知れないと、後半に望んだが、10番から12番まで連続して負けてしまい、アップまで後退。イーブンのまま18番ホールにもつれ込んだが、一歩及ばず負けた。でも貴重な体験が出来た。

明けて2015月・月も寒さに耐えて出来るだけコースでプレーしたが、90前後でしかまとめられない。寒さが原因とはわかっていても65歳の年齢を考えると気持ちがくじけそうになる。しかし気候が良くなった4月頃から徐々に調子が上向き、気持ちも前向きになった。その結果月の大洗ゴルフ倶楽部の「茨城新聞杯」RT6687ヤードではアウト39イン4483、ネット74で準優勝、続いて「茨城県知事杯」ではBT7190ヤヤード(コースレート74.4)をアウト43イン4285、ネット76で準優勝した。65歳過ぎても進化し続けることが実感できたヵ月だった。ハンデ目指して、頑張るゾー。


茨城キリスト教大学寄附講座(2)

当社は1958年に設立、今年で56年目を迎えました。私で2代目です。大学3年の時に、先代社長の父から"後を継ぐか"と問われ、悩みましたが入社する決意をしました。「"挑戦と創造"でお客様のご要望に応える」を経営理念として、日々業務に取り組んでいます。

事業所は茨城県の筑西市に所在しており、主に建設機械に用いられる"スプール"や"バルブ"など、油圧技術を用いた製品を製造しています。

世界における建設機械の需要としては、最近では中国経済の減速が報道されておりますが、それでも世界全体で50%の比率を中国が占めています。

私共も上海に工場を設け、現在のところ30名の社員が従事しております。上海への進出は、手狭になった茨城の工場を拡げるため、近隣の用地を確保したかったのですが、行政から許可が下りなかったことがきっかけです。国内でも土地を探しましたが、適した用地が見つかりませんでした。当時、私は40歳前後でした。大学を卒業して20年近くに亘り、一生懸命仕事に取り組み、当然税金を納めていましたが、このような困難な時こそ行政が手助けすべきではないのか・・・と思い立ちまして、19891222日に初めて上海を訪問し、1991年に進出しました。思い返せば、上海へ進出して20年以上が経ちます。

「意・行・習・人は運命を作る」は私が勝手につくった造語ですが、私の座右の銘としています。意識が変われば行動が、行動が変われば習慣が、習慣が変われば人生が変わる、との意味で、同趣旨の格言は他にもありますよね。

また、皆さん"和顔布施"という言葉を知っていますか?仏教の教えで"無財七施"の一つです。これは私が30代の頃、人材育成など色々な悩みを抱えていたとき、私はいつも険しい顔をしていました。そんな時"和やかな表情にはお布施をする程の価値がある"とこの言葉に教えられ、以来ずっと実践してきました。また心の持ちかたにおいても、お(怒るな)・い(威張るな)・あ(焦るな)・く(腐るな)・ま(負けるな)、の頭文字をとって"おいあくまの精神"を心がけなさい、と先輩からアドバイスをいただき、日頃より心がけています。

これから社会にでて、色々なご経験をされるかと思いますが、本日のお話が少しでも皆さんの、お役に立てば幸いです。今後の益々のご活躍を祈念致します。


茨城キリスト教大学寄附講座(1)

716() 茨城県経営者協会からの要請で、茨城キリスト教大学の寄附講座の講師として講義を行った。茨城県経営者協会は10年ほど前から大学側の要請と企業の社会貢献の一環として、現役経営者が学生に講義を行うようになり、現在、県内三つの大学で寄附講座を開催している。今回の講座は既に決まっていた講師が、人事異動により寄附講座の出講も日程も調整できないとの事、ピンチピッターとして事務局から要請で、引き受けることにした。今回で3回目の出講である。

茨城キリスト教大学は、1949茨城県日立市のクリスチャンとチャーチ・オブ・クライスト(キリストの教会)のアメリカ人キリスト教宣教師たちにより設立された大学である。多賀キリストの教会の付属教育機関として設置されていた夜学校や幼稚園を前身に、シオンカレッジを開校。その後、茨城キリスト教学園と名称を変更、1967年大学文学部を設置し、単科大学としてスタートした。1995年に大学院文学研究科、2000年に生活科学部を、2004年に看護学部を、2011年には経営学部、大学院生活科学研究科及び看護学研究科を開設し、現在は4学部7学科と3研究科をもつ総合大学となっている。

所在地の大みかキャンパス(茨城県日立市大みか町) は約13haの広大な面積を誇り、幼・中・高・大・院の校舎が立ち並ぶ。以前は日立製作所所有のゴルフ場「大みか倶楽部」の敷地であり、キャンパス各所には、大きな松の木や芝生が広がり、一部にはホールであった穴を発見できるなど、ゴルフ場であった面影を見ることができる。現在も、隣接して大みか倶楽部は営業しているが、戦前18ホールあったコースは6ホールに減少している。(ホームページ抜粋)

経営学部の学生およそ100人。今回の講義の主旨は、私が茨城県の工場に赴任してから、現在まで時系列的に会社の沿革に沿って、社会の出来事、国際的な出来事、円ドルの推移そして家族の出来事を年表にし、その時、その時、どのように考え、悩み、決断し、会社の方向性を決め、実施していったかを話すことにした。実施する前に考えたメリット・デメリットと実施後どのようになったか、今後どのように考え会社経営を進めていくか。1時間の出講であるが、茨城県経営者協会の事務局が要約し、9月号に掲載した「『意・行・習・人』が運命を作る」と題した内容は次の茨城キリスト教大学寄附講座(2)に記す。

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