茨城産業人クラブ令和5年度定時総会

7月25日㈫ホテル・ザ・ウエストヒルズ水戸において、第60回茨城産業人クラブ定時総会・講演会が89名の参加を得て開催された。主催者挨拶は会長の髙橋と日刊工業新聞社の井水治博社長が行った。

会長挨拶「厳しい行動制限のとられていた新型コロナウイルスですが、感染症法上の位置づけが見直され、世の中は「ポストコロナ」という新たな時代を迎えております。各人の自主的な取り組みをベースとした感染対策に移行したことで、外食・旅行をはじめとするサービス業が緩やかに回復しています。また最近は、東京都心でも外国人観光客を見かけられる機会が増えたのではないかと思いますが、今年5月の訪日外国人数が対2019年比で7割の水準まで回復するなど、インバウンド需要も急回復が続いています。当面はサービス分野を中心としたリバウンド需要が日本経済をけん引し景気は緩やかな回復が続くのではないでしょうか。

一方、我々製造業を取り巻く経営環境は一段と不透感を増しております。ロシアによるウクライナ侵攻など地政学リスクの顕在化、資源・エネルギー価格の高騰を起因としたインフレの加速、気候変動に伴う自然災害の多発など、これまでの常識や過去の経験が通用しない事象が次々と起こり、不連続な時代に直面しています。

今なお経営環境は厳しく、先行き不透明ではありますが、こんな時代だからこそ、前を向き一歩足を踏み出し未来にたすきをつなげたいと強く思います。人工知能(AI)をはじめとする情報技術の活用やイノベーションが成長のエンジンとなる時代が到来した中、我々企業においても変化のスピードを上げ、競争力の強化や、新たなビジネスモデルの創出に向けた動きを加速化させる必要があります。茨城県経済をはじめ、わが国経済全体が、活力を取り戻し、新しい成長を遂げるためにも、産業人クラブをご活用頂ければ幸いです。」 

1号議案は令和4年度事業報告・収支決算を事務局が報告し、監査報告は監事の塩谷智彦様が報告され、可決承認された。続いて第2号議案令和5年度事業計画・収支予算案を事務局から説明し、可決承認された。総会終了後の講演会では,国連在職時にSDGs指標の策定作業に関わられた常磐大学の富田学長にご講演いただいた。学長の富田敬子様には「SDGs達成の現況と産業界の役割」をテーマに、ご講演いただきました。SDGsは貧困、飢餓といった開発途上国に寄った課題だけでなく、気候変動、イノベーション、働きがい(成長・雇用)という先進国の課題も内含する広範囲な目標ですと詳細にお話されました。

講演会終了後、懇親会が行われ、来賓挨拶として茨城県副知事の横山征成様、主催者挨拶は日刊工業新聞社代表取締役社長井水治博様、新入会員紹介ではみとしんリース()代表取締役社長廣瀬千秋様が自己紹介されました。続いて来年開催の産業人全国大会が、千葉県の千葉産業人クラブが主催されるに伴って、PRの一環として挨拶された。そして乾杯は副会長の伊藤幸司様の発声で行われた。立食パーティでは皆さんが笑顔で情報交換しているのが印象的だった。中締め挨拶は副会長の加藤木克也様が行った。

茨城産業人クラブ2023年経済講演会

6月5日(月)水戸京成ホテルにおいて、茨城産業人クラブ・日刊工業新聞社工業新聞社の主催で経済講演会が、91名の参加を得て開催された。主催者挨拶は会長の髙橋と日刊工業新聞社の井水治博社長が行った。

開会挨拶の要約は

「先日、広島市で開催された主要7カ国 首脳会議(G7サミット)が無事閉幕しました。予想もしなかったウクライナのゼレンスキー大統領の電撃訪問が注目された広島サミットですが、G7としては初となる、核軍縮に焦点を当てた「広島ビジョン」が表明されこちらも注目を集めました。核に関しては、一足飛びに「廃絶」というわけにはいかないと思いますが、各国の首脳が原爆の被害を知る機会が持てた、というだけでも非常に良かったのではないかと思います。

またウクライナ問題に関しましては、G7の中で唯一、アジアに位置する日本からロシアを強く非難するとともに、ロシアに対する制裁措置の強化が謳われた事は、この問題は欧州だけの地政学的問題ではない、と示す重要な機会になったのではないでしょうか。国際的な日本の地位が低下しておりますが、これを境に良い方向に動いてくれると期待しています。

さて日本経済ですが、輸出やインバウンド需 要の拡大を促す円安基調の展開やコロナ禍からの回復、好調な企業業績などを背景として「株価の上昇」が続いています。政府が先月25日に公表した「月例経済報告」でも、足元の景気の基調判断を「緩やかに回復している」と、10カ月ぶりの上方修正となりました。

自動車を中心に好調な輸出や、外国人観光客の増加などが景況感を押し上げた格好ですが、一方で、エネルギー価格の高騰や欧米を中心とした世界経済の下振れリスクの高まり、人手不足の深刻化など足下には多くの不安材料を抱えております。

産業界を取り巻く環境は年々厳しさを増しておりますが、今後も事務局と共に茨城産業人クラブをもり立てていきたいと思いますので、皆様方には引き続きご支援の程をよろしくお願い申し上げます。 

さて、本日の講演会ですが、元オックスフォード大学 教授で政府の勉強会の「顧問」を務められております、早稲田大学のスズキ トモ教授に『新しい資本主義』政策と経営 と題し、ご講演いただきます。

スズキ先生の提言される、企業の「付加価値の適正分配を通じていかに人材確保し成長するか」についてじっくりとお伺いする貴重な機会となっておりますので、今回の講演が自社のビジネスを見つめ直すきっかけとなり、強い日本の再生に尽力できる機会になればありがたいと思います。」

 講演会終了後、スズキ トモ先生(英国永住権:大学での正式名がカタカナ表記)も出席され、立食パーティー形式で行われた。久しぶりに対面の懇親会で会員同士の情報交換する姿が随所に見られ1920分に閉会した。

茨城産業人クラブ2023年新春経済講演会・賀詞交歓会

茨城産業人クラブ2023年新春経済講演会・賀詞交歓会が、29日㈭水戸市にある水戸京成ホテルで開催された。3年ぶりのリアルでの開催に茨城県産業戦略部部長、日刊工業新聞社から井水社長はじめ4名の幹部の出席を得て、8299名で行われた。

主催者挨拶の要約は

「年頭にあたり、一言ご挨拶を申し上げます。

2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の拡大も早(はや)3年が経過しました。未だコロナ禍から完全に解放された訳ではなく、感染対策は今なお継続中ですが、ワクチン接種やウィズコロナの環境整備が進んだことにより、状況は大きく改善されています。政府は重症化率の低下などを受け、5月8日より、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行する方針を正式に決定しました。新型コロナに翻弄される3年間でしたが、今年はコロナと共生し、社会経済活動を回していくという、大きな転換の年になる模様です。

一方、昨年を振り返りますと、海外ではロシアによるウクライナ侵攻やミャンマー軍の市民への弾圧、国内では安倍 晋三 元首相の銃撃や32年ぶりの円安など、歴史的な出来事の多い激動の一年となりました。

特に、世界が震撼したウクライナ侵攻は、コロナ禍から回復しつつあった世界経済を大きく混乱させ、世界的なインフレと金融引き締めの影響による景気後退懸念をもたらし、先行きの不透明感を一段と強める事態となりました。

またウクライナ侵攻は、調達や輸送手段を含むグローバルサプライチェーンの脆弱性を浮き彫りにさせた他、エネルギー供給バランスの急激な変化をもたらし、世界的に拡大しつつあったカーボンニュートラルの進行を後退させる事態となりました。

2022年は我が国のエネルギー・安全保障に大きな課題を突きつける年となり、産業界にとりましてもかつてない不確実性とめまぐるしい事業環境の変化に直面する年になりました。  

2023年もこの流れを引き継ぎ厳しい年になりますが、世界が社会課題の解決や持続的な経済成長に向け進化を加速させる中で、我々企業経営者も自社の進化に向けて、今まで以上に新しい事にチャレンジし、具体的なアクションを展開していく事が重要となってまいります。

本日の講演では文部科学省 技術参与 の 栗原 研一様に「脱炭素社会実現に貢献する核融合エネルギーがいよいよ現実に!」と題しご講演にただきます。

核融合はCO2や高レベルの放射性廃棄物を出さず、反応を容易に停止できる優れた安全性を有しており、脱炭素やエネルギー安全保障の切り札と言われるエネルギー源です。

本日は我が国の核融合の第一人者であり、当クラブ会員でもあります栗原様に、核融合の実現性や中小企業の参入の可能性について直接お話を伺うことの出来る、貴重な機会となっております。本日の講演が自社のビジネスの次の経営につながる「ヒント」になれば幸いです。」

講演会終了後、マスクをしての立食パーティーが行われ、3年ぶりの開催に会員間の意見交換、盛り上がりを見せた。

中山道六十九次旅日記(17)

14日目(4月22日)金曜日

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4時に起床。体の調子は良い。今日は最終日、目指すはゴールの京都三条大橋だ。朝は肌寒い。長袖を着てナビと古地図で旧中山道に出るルートを確認しながら出発した。朝食は野州駅近くのコンビニで、おにぎりとサンドイッチ、お茶で食事をとった。

野州駅脇の踏切を越え歩いて行くと、「背くらべ地蔵」があった。これで旧中山道に入ったことが確認できた。道なりに進んで行くと琵琶湖線横断して、

256-2.jpg真直ぐに進むと野州川に架かる野州川橋にでる。橋を渡って振り返ると、近江富士(三上山)が見える。更に道なりに進み今宿一里塚を通りすぎると、予想しなかった「古高俊太郎先生誕生地」の石碑があった。古高俊太郎は尊王攘夷派として、古道具や馬具を扱う商人として、京の情勢を探る長州藩の情報活動と武器調達を担っていたが、新選組に捕らえられ非業の死を遂げた。享年36歳。少し先の近江守護職佐々木氏ゆかりの大宝神社を通過すると、左には栗東駅が見える。東海道本線の高架脇の道に入り、高架下のトンネルをくぐって、突き当りを右に曲がる。ここはもう草津宿だ。256-3.jpgのサムネール画像

草津宿は中山道と東海道が合流する宿場町だ。本殿のある伊砂砂(いささ)神社を見て、JR草津駅方面への大通りを渡ると、アーケードにぶつかる。このアーケードの商店街が旧中山道とのこと。このあたりは大変混雑しているエリアだ。商店街中ほどを左に曲がった覚善寺の門前に「右東海道 左中仙道」と刻まれた道標があるが、これは明治の追分道標とのこと。江戸時代の追分は旧草津川の下のトンネルを出たところに、「左中仙道のぢ 右東海道いせみち」と刻まれている。中山道と東海道という2つの主要な街道が合流する草津宿は、本陣2,脇本陣2、旅籠70余軒を擁する大きな宿場町だった。追分のすぐ先が現存する草津宿本陣で、ほぼ当時の姿を留めているという。

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立木神社を通り、草津川に出る。昨年の4月、東海道五十三次の時は、正午の京都方面は雨の予報なので、雨が降る前に到着しようと、石部宿を午前4時に出発し、南草津駅脇を通って、近江大橋にでて三条大橋に行った。今回は旧道を行く。本陣を過ぎた処にある立木神社は千二百年の歴史がある古社と云われている。

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草津川の「やぐらはし」を渡り、「野路の玉川跡」に向う。「野路の玉川跡」は平安時代から有名になった歌所で、萩の玉川ともいわれ、日本六玉川のひとつとして知られている。

野路は鎌倉時代、有名な宿駅でもあり、平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅256-6.jpg人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原」あたりを越えると、一面に萩の花の景観を堪能したと云われている。少し先に行くと弁天池の標柱があった。ここから瀬田の唐橋まで、旧道(旧東海道)は複雑な道なので、案内板に従って進む。東海道立場跡、一里山一里塚跡、建部神社を通って行くと瀬田の唐橋だ。
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瀬田の唐橋は「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ、多くの歴史の舞台になった。琵琶湖を街道沿いに進むと、旧善所城の城門を移築した善所神社、
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義仲(ぎちゅう)寺が見える。この寺の創建は不詳であるが、源義仲(木曽義仲)の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、日々供養したという。寺は巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれていたのが鎌倉時代後期の文書に見られるという。戦国時代に荒廃し、近江守護の六角義賢によって再興されたが、江戸時代になり再び荒廃していたところを浄土宗の僧・松寿により再再興したという。俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在し、無名庵で句会も盛んにおこなわれた。大阪で亡くなった芭蕉は「亡骸は木曽塚に送るべし」との意思により、元禄7(1694)10月、義仲の墓の横に葬られた。
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その後、荒廃再興を繰り返し、戦後壊滅の危機に瀕するも、一個人の篤志家による寄進で再建に尽力したという。このような人によって歴史が残されて、日本の誇るべき歴史が神社・寺を中心に残されていると思うと考え深い。大津宿は中山道で69番目、東海道で53番目の宿場である。古くから琵琶湖の物資を集散する水運の要として大いに栄えた。本陣2,脇本陣1,旅籠71軒、総家数3650戸、宿内人口14892人を擁し、東海道の宿場で最大の人口を有していた。滋賀県庁、札の辻跡から蝉丸神社下社を通り過ぎ、坂を上がると逢坂山関址の碑、月心寺を通って、京阪京津線追分駅に向かう。

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追分は江戸時代より東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点にあたり、馬子が追い分けることからその由来になっている。更に進んで行くと、昨年東海道五十三次歩いてきたとき、山科駅の標識があった。この地名を見ると京都に入った実感がわく。足を進めていくと「車石」の案内板があった。それによると大津と京都を結ぶ東海道は、コメをはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきた。

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江戸時代中期の安永8(1778)には牛車だけでも年間15,894輌の通行があった。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所であった。京都の脇坂義堂は、文化2(1802)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋間にかけて、約12㎞の道に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷きならべ牛車の通行に役立てた。

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これを車石と呼んでいるとのこと。やはり逢坂峠と日ノ岡峠の上り下りはきつかった。粟田口刑場跡三条大橋はもうすぐだ。粟田神社は、京都の東の出入り口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って東海道を行き来する旅人の信仰も篤かったという。三条大橋に到着したのは午後17分だった。中山道六十九次の14日間の旅は終わった。途中、困ったときに受けた親切は、いつまでも忘れずに心に残る。これで72歳の挑戦は終わった。

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中山道六十九次旅日記(16)

13日目(4月21日)木曜日

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朝、4時に起床し、天気予報と行程の確認を行い、朝食を取り6時に出発した。今日の行程は高宮宿、愛知川宿、武佐宿、守山宿と4宿を行く。今日は松本さんが同行する。少し肌寒いが、1時間も歩くと体が温まり、ちょうど良い。

宿場町から大きく離れたところに宿を取ると、旧道に出るときに道を間違えやすい。8線にでて右折し、間もなく306号線にでて、2㎞位行くと東海道
255-2.jpg新幹線が見える。その手前528号線を右折すると旧中山道だ。1㎞位行くと芹川を渡る。渡り終えると右側に、大きな常夜灯が目印の石清水神社が目にはいった。この神社には能楽の扇を埋めた扇塚があり、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受けた能楽喜多流(北流)は、この地で発展したという。高宮宿に入った。
高宮宿は彦根への玄関口で、天保十四年(1843)の記録では東西800mに本陣1,脇本陣2,旅籠23軒、総戸数835戸、人口3560人と記録され、中山道の武州路の本庄宿などと並ぶ、中山道の有数の大きな宿場で、もともとは多賀大社の門前町として栄えたという。
近江鉄道彦根・多賀大社線を渡ると神社が目にはいった。高宮神社という。高宮神社は明治三年の大洪水で多くの記録が流された
255-3.jpgため、沿革はほとんど残っていない。拝殿と本殿の間には正徳三年(1713)のものと思われる古い石灯籠が残っているだけだ。その先に多賀大社一の鳥居、芭蕉の紙子塚の標柱があり、続いて円照寺、脇本陣跡、本陣跡がある。またここは「高宮上布」と呼ばれた麻織物の問屋町としても賑わったという。高宮布は高宮周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、麻布の集積地として栄えたという。少し進むと犬上川に架かる「無賃橋」を渡った。この橋で高宮宿は終わる。無賃橋の両岸には「むちんばし」「天保三年」と彫られた標石が立っていた。彦根藩は高宮宿の有力者に命じて橋を造らせ、当時一般的だった渡り賃を、払わなくても通れる橋にしたことから「むちんばし」と呼ばれるようになったという。
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松本さんの歩みも順調で足の調子も良さそうだ。何気ない話をしながら歩いているとすぐチェックポイントに到着する気がする。時間の流れが変わるかのように。橋を渡り終えると愛知川宿だ。滋賀県は近江商人の故郷として知られているが、愛知川宿も「愛知川商人」と呼ばれる人々により商業の町として栄え、東海道の土山宿に通じる御代参街道の分岐点でもある。無賃橋を渡って松並木が点在する旧道を進むと、「またおいでやす」のモニュメント」に見送られて進む。
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すぐ先の道を左側には、近江鉄道の尼子駅がある。左に唯念寺があり、少し先に近江商人の寄付で建てられたという旧豊郷小学校、間の宿として栄え、旅人で賑わう立場茶屋のあった石畑一里塚があった。
伊藤忠左衛門記念館だ。この記念館は旧中山道歩き旅の計画段階では気が付かなかった。伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開している。
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繊維卸から「総合商社」への道を開いた足跡を紹介ししている。この時9時半まだ開館していないので、先を急いだ。江州音頭発祥地の石碑があった。この江州音頭は滋賀県を中心に近畿地方各地で盆踊りとして定着したという。宇曽川に架かる歌詰橋を渡って、進むと愛知川宿の門があり、出迎えているようだ。

八幡神社の鳥居があった。その由緒記によると、太政大臣藤原不比等海公(ふひとたんかいこう)717から727年に建てらたとある。

255-8.jpg見るからに古い神社だ。この辺は道がわかりやすい。愛知川に架かる御幸橋を渡ると、常夜灯があり、少し先に行くと「てんびんの里」と書かれた石柱に、銅像が置かれていた。近江商人は銅像のような格好で近江を本拠に日本全国をまわり、一介の商人から大商人になった。その「近江商人」発祥の地といわれる東近江市五個荘が、今歩いているこの地域だ。
その先に、街道沿いに湧く湖東三名水の一つ「清水鼻の名水」の石碑を後にして、東海道新幹線の高架下を通り過ぎ、           奥石(おいそ)神社を右手に見ながら、旧道に入る。
255-9.jpg奥石神社は織田信長の寄進のより、天正年間に建てられた由緒ある古社とのこと、老蘇の森に囲まれた神社は、繖山(きぬがさやま)を神体とする最も古く原始的・根源的な神社で、安産延寿、狩猟、農耕の神様を祀ってあるという。老蘇の森は田園風景の中にある鬱蒼とした森だ。255-10.jpgのサムネール画像平家物語」をはじめ古くから文学の題材になってきたという。この辺りは、旧道には歩道がないところもあり、左側を歩いていると、後からトラックの風圧で体が引き込まれそうになる。255-11.jpg
右側の道路の端を歩き、車を視認し狭い場所では立ち止まり、車をやり過ごした。奥石神社まで約20㎞を歩いた。松本さんの足の調子も良さそうだ。20㎞以上歩いた経験はないが、問題ないと言っていた。結構歩くのが早く、気を抜くと置いて行かれる。鎌若宮神社、東光寺を通り過ぎ、武佐宿に入る。武佐宿は一本道の小さな宿場町だが、宿場風情を湛えた町並みだ。
牟佐神社、立派な冠木門がある脇本陣跡を見ながら、国道421号線の交差点を渡ると、400年以上前からの商家(大橋家)があり、その先に
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下川家本陣跡がある。建物はないが門と土蔵は当時のものであるという。愛宕山の常夜灯を過ぎ、武佐駅を左手に見て、近江鉄道の踏切を渡ると、すぐに伊庭貞剛誕生地があった。この名前に見覚えがあった。伊庭家は近江守護佐々木家の流れを汲み、弘化四年(1847)この地で生まれ、若くして剣の免許皆伝となり、尊王家に入る。明治になり京都御所警備隊士、大阪裁判所の判事となったが、明治政府に期待を持てず、裁判所を辞し、住友家に入社し、四国別子銅山の煙害の解決に尽力し、住友家総理事に就任するが、58歳の若さですべての職を辞し、石山に「住友勝機園を建て、大正1580歳で生涯を閉じたという。
伊庭貞剛の名前をどのような経緯で知ったのか、思い出せない。西宮町の交差点を左に曲がると、国道8号線にでる。この国道は両側に歩道
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ので、怖くなるほど危険だ。片側に歩道があるが、道が狭くなると歩道が消えて、反対側に歩道があるため、車の往来を見ながら、反対側に渡った。白鳥川を渡り、八幡社の鳥居を過ぎ、右手にある馬淵忠魂公園を斜め右に曲がり、進んで行く。
右手に見える新幹線を横目に、畑に沿って歩いて行く。旧中山道はかつて日野川に渡しがあった。今は渡しの場所もないので、土手を左に回り込むようにして、国道8号線に出て、右折し日野川に架かる横関橋を渡った。渡るとすぐ旧道へ、右に曲がり土手沿いに行くと西横関集落に入り進む。8号線の五差路に出ると、守山宿方面の8号線に合流する。
すぐ善光寺川を渡って、旧道に入り、8号線に同流する。この辺りは国道8号線と旧道が入り組んでいて、古地図をよく見ないと
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間違える。鏡宿跡碑があった。鏡宿は紀州徳川家の定宿だという。旧鏡宿は中世東山道の宿駅で、江戸時代は武佐宿と守山宿の間だが、3里半(14)と長いため、間の宿として栄えたという。T字路を右に進み、すぐ鏡口交差点を左に曲がり、8号と合流する。すると右側に源義経宿泊の館あとの石碑があった。ここは鏡宿本陣跡でもある。そして源義経元服の地と伝わる鏡神社があった。義経は承安4年、源氏の御曹司牛若丸は京の鞍馬で遮那王と称して、ひそかに源氏の再興を志していた。
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鞍馬を抜け出した遮那王は兄頼朝を尋ね、供三名を伴い東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥博(さわやでん)」の屋敷に泊まった。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服し、烏帽子屋五郎太夫に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、元結の侍姿を、池の水に写し元服をしたと伝えられている。鏡神社より西側へ130mの所に池があり、石碑が立っていた。本日の宿泊、野州駅近くの「セントラルホテル野州」は守山宿の大分手前、入り口に近いようだ。あと約6.5㎞の道のりだ。

守山宿は京都から江戸に向う場合(東下り)、「京発ち守山泊まり」が一般的だったと言われ、守山宿は最初の宿場町として賑わっていたという。篠原神社の所を斜め右に旧道へ入って、家棟川を渡る。篠原神社を右手に見ながら、進むと桜生史跡(さくらばさま)公園がある。この公園には6世紀を中心とする甲山古墳、円山古墳、天王山古墳がある。
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特に円山古墳と甲山古墳では、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇から産出した凝灰岩をくりぬいた家形石棺や大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出する凝灰岩を用いた石棺があるという。公園を過ぎたころ、右に曲がり新幹線の高架下を進む。ここから旧道を外れ、ナビで目的地に向った。京セラ㈱滋賀野州工場の正門前のホテルが宿泊地だ。ここは京セラの関係者が利用するビジネスホテルのようだ。到着は3時12分、チェックインし、洗濯してからシャワーを浴びた。5時半頃、ホテル近くの居酒屋風の店で食事をした。一日を振り返って、話が弾んだ。松本さんは今年還暦を迎えるという。記憶に残ることをしたい。それは日本橋から生まれ故郷の清水まで、東海道を歩いて行くことだという。後日談だが、5月の連休中に、5日かけて清水到着した。行動力には敬意を表する。守山宿までの道中はお互い一生記憶に残る出来事だ。翌日、私は5時に出発するため、顔を合わすことはないので、ここで分かれた。

中山道六十九次旅日記(15)


12日目(4月20日)水曜日

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朝、4時に起床。天気予報は晴れ、降水確率は少ない。昨日寝ながら考えて、大垣から赤坂宿に向い、旧中山道に入ることにした。赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、醒井宿、番場宿、鳥居本宿の行程だ。鳥居本宿では宿泊施設が見つからないので、約2.5㎞離れた東海道新幹線「彦根駅」近くのコンフォート彦根に泊まることにした。約40㎞の道のりだ。この彦根で友人の松本さんと合流し、翌日、守山宿までの約40㎞を一緒に歩く計画だ。7時に出発し、大垣から赤坂宿まで5㎞、18号線を進んでいき、21号線を突っ切り417号線にでて、養老鉄道を越え、赤坂宿本陣跡に着いたのは、8時頃だった。

赤坂宿は、かつて中山道六十九次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の

254-2.jpg宿場町として繁盛していた。現在もその古い建造物や数多くの史跡が残っており、谷汲街道・養老街道が通って、その道標が分岐点である四ツ辻にある。赤坂本陣公園(本陣跡)は敷地約800坪、建坪239坪、岐阜県では中津川に次いで2番目に大きい本陣だという。皇女和宮も宿泊したが、現在は建物もなく、公園として整備されている。公園内には幕末の青年志士、所郁太郎の功績を顕彰した銅像や皇女和宮を偲ぶ顕彰碑がある254-3.jpg銅像の所郁太郎を見て昔読んだ本の中で、名前があったのを思い出した。この赤坂宿で生まれ、幕末、  医師でありながら長州藩の尊王思想の大義を唱え、高杉晋作らと供に遊撃隊の軍監を務めた。将来を嘱望されたが、若くして27歳で病没した人物だ。歩いて旅をしていると名所旧跡で昔の記憶がよみがえることが度々ある。街道風情が漂う町を通り過ぎると、大名等が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所である御使者場跡碑があった。その少し先に白髭神社を過ぎた直後に、思いもよらない標柱が目にはいった。254-4.jpg

それは「照手姫の水汲み井戸」だ.

なぜかというと私の住まいである筑西市(旧協和町)では毎年12月に小栗判官祭のパレードが行われ、小栗判官には芸能人が馬に乗り、照手姫はミス協和が、そして地元の有志が槍や刀を持っての武者行列だ。旧協和町に引っ越してきた48年前、小栗判官の物語を知らなかったので、興味を示さず一度も見に行ったことがなかった。突然、照手姫の名前が目にはいったので驚いた。その標柱には「昔、武蔵・相模の郡代横山将監に女の子が生まれ、照手姫(てるてひめ)と名付けられ成長し、目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になった。その話を聞いた常陸の国(茨城県) の国司小栗判官正清は、使者も立てず強引に婿入りしてしまった。


254-5.jpgのサムネール画像そのため、父親の将監が大変怒り、小栗判官に毒の入った酒を飲ませ殺してしまいました。照手姫は深く悲しみ、あてのない旅に出て、あちこちさまよい青墓の長者「よろづ屋」に買われることになった。長者は、その美貌で客を取らせようとしたが、照手姫は拒み通した。怒った長者は「一度に百頭の馬にかいばをやれ」、「籠で水を汲め」、「十六人分の炊事を毎日一人でやれ」などと、無理な仕事を言いつけた。照手姫は、毎日毎日、泣き泣き仕事を続け
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たが、日頃信仰していた千住観音菩薩の助けで、普通の人間には出来そうにないことを成し遂げることが出来た。一方、毒手に倒れた小栗判官正清は、熊野の湯につかって蘇り、二条大納言兼家の許しを得て都に戻り、朝廷から美濃国を治める役人に任命された。その後、照手姫が青墓にいることを知り、妻として迎え、二人は末永く幸せに暮らしたということです。」と記されてあった。この井戸は籠で水を汲んだと伝えられている。お墓は100m先の園願寺(お寺は消失)境内にあるとのこと。この小栗判官と照手姫の悲恋物語は歌舞伎の演目にもあるとのことだ。昔協和町に居を構えてから地元の歴史を知らなかったことを恥じるばかりだ。確かに旧協和町の小栗に、小栗城跡がある。この城主がモデルともいわれている。
254-7.jpg「小篠竹(こしのだけ)の塚」の標柱に「青墓(あおはか)に昔照手姫という遊女ありこの墓なりぞ 照手姫は東海道藤沢にも出せり その頃両人ありし候や詳ならず」(木曽路名所図絵より)、また和歌が詠まれてあった。「一夜見し 人の情けにたちかえる 心に残る 青墓の里」慈円(天台宗座主、愚管理抄の作者)お墓の前で手を合わせた。大分時間を取ってしまった。先を急ぐ。野一里塚跡の常夜灯をあとに、垂井宿に入った。
垂井宿は美濃路の追分を控えた交通の要衝として栄え、芭蕉の足跡が感じられる宿場町だ。垂井駅がすぐ近くだ。顧客の垂井工場がすぐ近くにある。いつも垂井の駅からタクシーで行くので、景色がまるで違う。宿場の中ほどには南宮大社大鳥居道路を跨でいる。鳥居を少し南に入ると、地名の起こり
254-8.jpgとされる垂井の泉が湧いているという。街道に戻り進むと右に本龍寺がある。当時の住職は芭蕉と親交が深く、裏手に芭蕉句碑が立つという。
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垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っており、旅人にとっては人夫や馬を借りるのに、里程を知り、駄賃を定める目安となっていたという。またこの地は関ヶ原の戦いで浅野幸長の陣地で、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略した。本戦ではこの辺りに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。さらに進み関ヶ原町に入った。
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関ヶ原宿は宿場町としてよりも関ケ原合戦の地としての知名度が勝っている。北国脇往還と伊勢街道の分岐点にあたり西に今須峠を控えていたため、多くの旅人で賑わったが、繁栄ぶりをしのぶ史跡はない。足を進めていくと、旧中山道松並木があった。

美濃路ではここしか残っていない貴重な松並木だという。次に目にはいったのは徳川家康最初の

254-11.jpg陣地だ。ここから西軍の陣地が一望できる。左側奥の山から西軍の宇喜田秀家、写真の中央辺りが                                               開戦地、その左が南天満山、右に北天満山、その手前に小西行長、右隣に島津義弘の陣があった。
ここから徳川家康最後の陣跡まで2.4㎞ある。最後の陣まで30分あれば、決戦の地に到着する。関ヶ原の戦いのイメージが具体性をおびて想像できた。 
最後の陣地まで行くと遠回りになるので、関ヶ原の町中を通り過ぎた。関ヶ原古戦場西首塚の跡碑に出会った。街道から少し離れるが、手前に東首塚がある。西首塚を過ぎてから旧中山道に入ると
254-12.jpgのサムネール画像のサムネール画像京極・藤堂高虎陣跡、福島正則陣跡、少し進むと不破関跡がある。この関は東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛発関と共に、古代律令制化の三関の一つとして、壬申の乱(672)後に設けられたとされている。不破関資料館に着いたのは、12時ちょうどだった。休憩所があったので、おにぎり2個、バナナ2本とお茶で昼食を取った。途中、所郁太郎、照手姫、関ヶ原の名所で大分時間がとられた。10分程で昼食を済ませ、出発してまもなく、川を渡った。この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れていることから、関の藤川(藤古川)と呼ばれ、壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んで開戦した。さら254-13.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍



事上要害の地とのこと。間の宿山中高札場跡を通り過ぎ、東海道新幹線の高架下をくぐると、その少し先に常磐御前の墓があった。常磐御前は源義経の生母だ。このような所に墓があるとは知らなかった。墓の標柱にある関ヶ原町の説明では「常磐御前は都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常磐御前。源義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と分かれ、一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と跡を追って来た常磐は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられている。」ここで手を合わせ、故人を偲んだ。今須宿に向う。今須宿は今須峠を越えた美濃路最後の宿だ。今須峠の頂上は山中の常磐塚あたりの登り口より約1,000254-14.jpgのサムネール画像mの道のりで、一条兼良はこの峠で、「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川記)と認めたように、この付近きっての険要の地と言われている。今須には宿場時代の面影はあまりなく、本陣跡の先の問屋場跡や常夜灯が当時の史跡を伝える数少ない史跡だという。江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七件もあって全国的にも珍しいとのこと。
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美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみで、永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄ぶりがうかがえるとのこと。さらに進んで行くと、「奥の細道」芭蕉道の石碑があった。いくつかの碑に俳句が記されてあった。「夕月も 美濃と近江や 閏月」の 句碑があった。芭蕉は中山道を何回も訪れたようだ。今須宿を出るとまもなく美濃と近江の国境にでた。標柱に「左に美濃国、右に近江国」と記されてあり、写真左の堀には、県境の「左側岐阜県 右側滋賀県」となっている。県境を通って柏原宿に向う。
柏原宿は近江路に入って最初の宿場となる。1.4㎞にも及ぶ大きな宿場で、街道筋には古い家屋が表にそれぞれ元の商売を記してある。町の目の前にそびえる伊吹山は古くから薬草の産地として知られたもぐさは灸に使用され、「伊吹もぐさ」として街道名物だったという。
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楓並木が続く坂道照手姫笠掛地蔵岐阜県と滋賀県県境                    を下って行くと、「照手姫笠掛地蔵と蘇生寺」があった。地蔵堂正面向かって右側、背の低いいかにも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠掛地蔵」という。
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現在はここに祀られているが、元はこれより東、JR踏切を
越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊                                     

ということから「蘇生寺笠掛地蔵」とも言われているという。中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地とのことだ。東海道線の踏切を渡ると柏原の町並みが見えてくる。
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柏原駅を右手に進み、本陣跡、常夜灯、伊吹堂、柏原宿記念館を通り過ぎ、柏原一里塚、小川の関に着いた。長沢にある小川の関跡から昔の街道の面影を残す林道へと入っていく。梓には松並木が残されており、国道を横断して、しばらく国道21号線を歩いて行くと、中山道の大きな石標がある。その先で左の旧道に入ったところ、北畠俱行卿の墓が目にはいった。北畠俱行卿は鎌倉時代に後醍醐天皇に仕え、幕府打倒の謀議に加わったが、笠置城落城の後に幕府方に捕らえられ、この地で斬首されたという。突然、標柱に名前があると、歴史に思いを巡らす。先に進み、醒井宿に入っていく。                     
254-21.jpgのサムネール画像醒井宿は「水の町」である。西行水、十王水、居醒(いさめ) 254-20.jpgのサムネール画像のサムネール画像

の清水という「醒井三水」と言われる湧水を集めた地蔵川が旧中山道に沿って流れている。加茂神社の前にある居醒の清水は醒井の名の由来にもなった湧水で、伊吹山の大蛇(一説には白猪)退治で遭難しかけた      日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの清水で熱を冷まし、気分を回復させたという話が伝わっている。

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加茂川神社に上れば、町が一望に見渡せるという。地蔵川は、居醒の清水などから湧き出る清水によってできた川で、大変珍しい水中花「梅花藻(バイカモ)」が咲くことで有名だ。十王水は地蔵川の中にあり、平安時代に水源が開かれた名水で、醒井宿には江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人速や馬を提供した施設が今も残っており、完全な形で復元され、日本遺産に認定されているという。

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また春は桜並木、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々に絵になる景色だという。歩いていても綺麗で清々しい町だ。右手に東海道本線の醒井駅がある。季節になると観光客が大勢押し寄せる町だと思う。水路が流れる樋口の集落を通り、樋口の交差点で国道を渡り、北陸自動車道下をくぐった先に久礼一里塚があた。少し先に行くと番場宿の石碑があった。ちょうど16時の通過だ。

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番場宿は日本橋から六十二番目の宿場で、摺針を控えた細長い宿場だ。番場宿には「○○跡」とかれた真新しい標柱が随所に立っているが、宿場時代の面影を伝える建物はないという。また、番場は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公、番場忠太郎の故郷でも知られている。これから摺針峠(りはりとうげ)を越えれば、鳥居本宿だ。摺針峠は標170mで、彦根市の鳥居本宿と米原市の番場の境にある。

旧中山道の難所の一つで、北国街道の分岐点でもあり、中山道の重要な位置にあったという。江戸時代この峠に望湖堂という茶屋が設けられ、峠を行きかう人達は、眼前に広がる琵琶湖の絶景を楽しみながら休憩したと言われて

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いたが、1991年火災で焼失したという。摺針峠はさほどきつくはなかった。長い登坂は緩やかだが、両側に古い民家が並び峠越えの雰囲気があり、気分的に楽に歩くことが出来た。今度は急な山道を下るようになってきた。徐々に道幅が狭くなってきたが、目の前に鳥居本宿の町と彦根駅の高い建物が目にはいった。鳥居本宿は街道情緒が色濃く残る町だが、街中は車が多い。ここの名物は胃腸薬・赤玉神教丸という丸薬で、今も販売を続ける建物は200年の歴史を持つという。すぐに8号線沿いに行くと近江鉄道鳥居本駅に着いたのは1715分だった。この駅は明治時二十八年に彦根から貴生川の区間で開業した。その後、米原間も開業し、同時に鳥居本駅舎も建てられたという。平成八年にはこの駅で184時間に及ぶ世界最長コンサートが開催されギネスブックに登録されたという。

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しかしこの宿場では宿泊施設を見つけることが出来なかったので、約2.4㎞先の東海道本線彦根駅東口にある「コンフォートホテル彦根」にした。到着時間1745分に松本さんがホテルの前で、動画を取りながら出迎えてくれた。遠く離れた地で、再会するのは、うれしいものだ。到着予定時間は2時間半遅れた。街道沿いに旧所・名跡が多く、見学をしたからだ。今日の歩数は58,69141㎞の旅だった。部屋で洗濯をして、明日の準備をして、最後にシャワーを浴びてから、ロビーで松本さんと待ち合わせ、夕食を取る店に行った。松本さんはすでに店の下見をしていたので、迷うことなく店に入った。ビールで乾杯、田部井さん、大橋さんとの中山道の歩き旅の話を肴に食事した。松本さんは守山宿までの長距離40㎞は初めてのことで、不安はあるが、初挑戦の期待の方が大きかった。

中山道六十九次旅日記(14)

11日目(4月19日)火曜日

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朝、4時に起床。今日の天気は曇りのち晴れだ。朝食はおにぎり、菓子パン、牛乳、リュックにはバナナ3本と水2本を入れ、5時に出発した。鵜沼宿、加納宿、河渡宿、美江寺宿まで47㎞の道のりだ。計画段階で、美江寺宿近郊の宿泊施設が見つからない。

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そこで美江寺宿のある瑞穂市商工農政観光課に電話して、宿泊施設の有無を聞いたところ、この近辺には一軒もないとのこと。ホテルが多くあるのは大垣駅近辺だ。美江寺宿から約8㎞、今渡の渡し場跡 木曽川1時間45分の道のりで、出発地から53㎞の道のりになってしまう。これでは体力が持たないので街道沿いにある樽見鉄道美江寺駅から、電車に乗り、大垣駅に行くことにした。ホテルは駅近くの「コンフォート大垣」にした。ホテルから旧中山道へ出る時が道を間違えやすい。 

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ナビと古地図を念入りに確認した。ホテルを出て可児川の橋を渡り、名鉄広見線とJR太多線の踏切を渡り、248号に出た。これを右折し、更に進むと、もう一度名鉄広見線の踏切を渡り、旧中山道に出る。左折し道なりに行くと木曽川にかかる太田橋に出た。木曽川の「今渡の渡し場」に到着し、太田橋を渡った。橋を渡り終えると、すぐ左手に「太田の渡し跡」があるが、現在、化石林公園の中にある。

公園を出たところで、左折し旧中山道に入った。旧中山道は木曽川沿いに設けられてあり、すぐ右手に古井一里塚跡があった。

253-4.jpg木曽川緑地ライン公園を左手に見て進んでいくと、祐泉寺(旧旅籠小松)、歴史や文化資料を展示する太田宿中山道会館、旧太田脇本陣林家住宅があった。41号線を渡っていくと坪内逍遥ゆかりのムクノキの記念板が目にはいった。それによると「坪内逍遥(18591935)は尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれた。その後、明治二年父の引退に伴い、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けた。十八歳にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となった。演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築いた。大正八年には、夫婦そろって生まれた
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故郷を訪れ、このムクノキの根元で記念撮影をした。逍遥六十一歳でした」と記されていた。その少し先の堤防下に深田神社があり、横に庚申塚があった。木曽川を眺めながら歩く堤防沿いの旧道は、周りの景色も美しく、左側に流れている木曽川は上流の木曽川とは、同じ川とは思えない程、水量豊かで穏やかな流れだ。高山本線坂祝駅を右手に、勝山の信号を通り過ぎるとを通り過ぎると、岩屋観音堂だ。さらに進むと、各務原市にはいった。いったん川側に下りて、国道下のトンネルをくぐり、旧中山道にはいり、うとう峠一里塚を越えて、鵜沼宿に入った。

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鵜沼宿は明治二十四年の濃尾大地震により、江戸時代の建物は消失したが、その後徐々に整備され昔の宿場町の景観が再現されつつあるという。赤坂の地蔵堂を過ぎ、右に曲がる。この赤坂地蔵堂を直進すると犬山城まで2㎞だ。この辺りは名鉄犬山線江南駅で下車し、工作機械の購入時、立合いや宿泊もした場所で、また犬山城近くのホテルで顧客の会議を行った場所でもある。懐かしい。宿場の入り口にある大安寺大橋は木製の欄干や常夜燈があり、資料館になっている中山道鵜沼宿町屋館、その先に坂井家脇本陣がある。

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その横に芭蕉の句碑が3基並んでいる。芭蕉は鵜沼を訪れる度に坂井家に滞在し、いくつもの句を残したという。左手にはJR高山本線と名鉄各務原線が平行に走っている。右手に農村歌舞伎の舞台となる「皆楽座」がある津島神社を過ぎていくと、国道21号線に合流してから各務原駅を過ぎ、名鉄各務原線三柿野駅を左手に見て踏切を渡り、Y字路を右に入って旧中山道へ入っていく。ここから国道とは離れていく。神明神社、広大な各務原市民公園の横を通っていく。新加納立場跡、新加納一里塚、市街地に残る貴重な細畑一里塚、その先に延命地蔵に立つ追分道標があり、「左木曽路」の文字が見える。

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加納宿は現在の岐阜市街に属し、宿場町と城下町を兼ねていたことから美濃16宿のなかで最大の宿場町だった。当時をしのばせるものはほとんどないが、随所に道標や碑がある。中山道は大手門跡から西へ直進していくが、本陣・脇本陣の建物は残っていないという。

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東海道本線の高架下を進むと、名鉄名古屋本線の茶所駅を左手にみて、進んで行くと右手に岐阜駅が見える。二度目の東海道本線の高架下を進み、読み方が難しい多羅野(らり)八幡神社がある。この先には長良川に架かる河渡橋を渡ると、河渡宿に入る。次の美江寺宿まで約6㎞だ。美江寺宿は長良川の「河渡の渡し」や、揖斐川の「呂久の渡し」の間にあたることで栄えた宿場で、小さな宿場だ。今日の宿泊地大垣に行くために、樽見線の美江寺駅から電車で行くことにした。美江寺駅に着いたのは1645分。駅は無人駅で何もない。まわりは閑散とした住宅と畑で、宿場の面影はない。宿泊施設がないと言われたのも理解できた。次の赤坂宿まで約9㎞ある。このまま歩いて行くと18時を         過ぎてしまうので、電車で大垣まで行くことにしたのは、正解だった。

253-11.jpg美江寺駅発17時3分の電車に乗った。乗客はほとんど高校生だ。1717分に大垣駅に到着し、「ホテルコンフォート大垣」にチェクインしたのは、18時を過ぎていた。今日の歩数は64,417歩、約45㎞の道のりだったが、疲れは少ない。洗濯をし、シャワーを浴び、ホテル近くの大型のショッピングセンター内のレストランで食事をし、コンビニで明日の朝食を準備し、ホテルに帰った。明日は電車で美江寺駅に行って、赤坂宿に行くか、直接、大垣から赤坂宿に行くか考えながら、9時にベッドに入った。


中山道六十九次旅日記(13)

10日目(4月18日)月曜日

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朝、4時に起床。天気は一日中雨の予報だ。本来の計画は大井宿から、奥深い山中に漂う街道情緒の大湫(おおくて)宿、ひなびた宿場に一軒の旅籠がある細久手(ほそくて)宿、願興寺の門前町として栄えた御嶽宿、国道21号線が宿場町を貫き、当時の雰囲気は感じられないという伏見宿、そして木曽川の「太田の渡し」を控えた太田宿、約43kmの道のりだが、歩いての旅は変更して、歩きと電車で行くことにした。10時頃小雨になったのを、見計らっていくと10分もしないうちに「恵那駅前津島神社」があった。趣意書に「大正七年(1918)大井町中心部に疫病患者が大発生し、神にすがるのみであったという。当時、町内各戸より、多数の人が津島神社総本社に、お祓祈祷をなし、御分霊を仰ぎ駅前高台の地に祀り、御神符発行のお許しを賜り、八月十四、十五日の両日を例大祭と定め、夏祭り、宵祭りが盛大に行われる」とあった。旧街道を歩いていると、街道沿いに日本の歴史が神社を通して、由来が記されている。日本橋から旧中山道を歩いていると、街道沿いに様々な記録が記されている。古墳時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代の記録が神社の由来の碑に記されているのが印象的だ。後半の街道には江戸時代、幕末、明治の記録が残されていると思うと楽しみだ。津島神社を過ぎて、間もなく雨が強くなってきた。恵那駅から多治見駅で下車し、時間調整のため喫茶店に入った。多治見駅から可児駅には昼頃に到着した。さらに時間調整をして、15時に「ホテルルートイン可児」にチェックインした。恵那宿から約43㎞の道のりを考えると、太田宿は遠いので日本ライン今渡駅近辺が良いと思ったが、適当なところが見つからない。歩く距離を考えて、手前の可児駅近くの旅館にした。太田宿は「太田の渡」を控えた宿場で、この地方の行政・文化の中心として発展したという。飛騨街道と郡上街道の分岐点で、飛騨方面へ向かうJR高山本線、郡上方面へ向かう長良川鉄道が発着する交通の要衝である。入り口の祐泉寺には北原白秋や芭蕉、坪内逍遥の歌碑や、日本ラインを命名した地理学者・志賀重昴の墓碑が立ち並ぶという。洗濯してから食事をとり、天気を確認して、就寝。


中山道六十九次旅日記(12)

9日目(4月17日)日曜日

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5時起床。体調は良い。十二兼駅まで2時間で行けると思い、出発は610分にした。須原宿は街道の随所に水船が置かれており、木曽五木の一つ、サワラをくりぬいた水船には、裏山から引いた湧水が注がれていた。朝の空気はすがすがしい。左手に国指定重要文化財の定勝寺(じょうしょうじ)がある。定勝寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦如来、木曽町の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺の一つで、日本最古の「蕎麦切り」に関する文書が発見されているという。

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旧中山道は定勝寺から岩出観音、茶屋本陣跡、天長院、大桑駅まで、山側方向に遠回りになっているので、今回は待合せ時間に間に合わせるため、国道19号線で大桑駅前を通るルートを選んだ。大桑駅を過ぎると電車と山々の景色が見事だ。右手には木曽川が流れている。

木曾川沿いを歩いて行くと河原には、白い大きな石がたくさんあり、なぜこんなにも白いの251-3.jpgのサムネール画像か不思議に思いながら、野尻宿に入った。野尻宿は「七曲がり」と呼ばれ、外敵を防ぐための曲がりくねった町並みで知られている。野尻宿は特別なものはないが、懐かしい木曽の原風景ともいえる宿場町だ。国道と合流、町境の橋を渡り、左の坂道を上っていき、十二兼駅に着いた。この駅は街道より高い位置に線路を走らせているので、無人駅の改札口には、階段を上がって行った。到着は8時10分、時間通りだ。改札口の椅子に座って待っていると、8時20分に電車が入ってきた。251-4.jpg

大橋さんと合流し、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿まで、一緒に行き、大橋さんは馬籠宿からバスに乗り中津川から名古屋に出る。早速、三留野宿に向けて出発した。5.7㎞の道のりは木曽川沿いを歩く道のりだ。柿其橋から「南寝覚」と呼ばれるきれいな渓谷が見える。

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右手に木曽川、左手に中央本線が走る街道を進んだ時、左手に「与川」の文字が目にはいり驚いた。 昨年末に友人から、中山道を行くには参勤交代を描いた杉田次郎作「一路」が、参考になるとアドバイスされた。木曽街道についての知見に疎いので、  地名や物語にまつわる出来事を読みながら、歩いて旅をするイメージを膨らませた。

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   「一路」は美濃地方の旗本の参勤交代を描いた小説だ。その中で、どうしても想像できないのが、与川の氾濫で足止めになった時の描写だ。小説といっても杉田次郎氏の対談集を読むと、作者自身が現地を訪問し、時代考証もしっかりしていると感じた。参勤交代で妻籠宿を出発したが、嵐にあい上流が氾濫し木曽川支流の与川から、木曽川に激流となって行列を襲う描写があった。  この描写で家来の身を守るために、激流の与川に縄を張って、行列が持っている全ての荷物類を放棄し、身軽になり、縄に掴まって与川を渡った。

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翌朝早く福島宿の関所を通ろうとしたが、宿役人は前日の嵐で与川を渡れるはずがないと思い、荷物を放棄するのは参勤交代の法度に背いていると詰問した。参勤交代の御供頭が、荷物は全て放棄して、江戸到着の時刻に間に合うように来たので、福島宿の関所を通過させるよう要求し、何とか通過していった。

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宿役人が荷物を放棄した場所に行くと、御供頭の報告通り大小の荷物が河原に散らばってあった。宿役人はすべての荷物を拾い集め参勤交代の行列に追いつき、渡したというくだりだ。現地の与川を見たとき、与川の川幅(3m位)は狭いが、急斜面から水が落ちるので、激流になり、川幅の広い木曽川に流れ込んでいく。木曽川の河原は広く、白い大きな石があるので、荷物が石と石の間に挟まって、激流が止まれば、拾い上げることが出来ると納得がいった。幕末の参勤交代の大変さを感じながら、三留野宿に入った。

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三留野宿はかつて妻籠と並ぶくらいに栄えた宿場だったが、明治十四年(1881)の大火で町並みの大部分を消失したと云う。およそ20分進んだところに上久保一里塚の案内板があった。南木曽町の町内には、十二兼・金知屋(かなちや)・上久保・下り谷の四か所に一里塚があったが、現在原型をとどめているのはこの上久保一里塚だけで、江戸から数えて78番目の塚である。少し進むと妻籠宿への道標があった。案内通り右の街道を進んでいくことにした。この先を右に曲がり10分ほど寄り道をしていくと妻籠城址がある。典型的な山城で、これから行く妻籠の街並みが見渡せると云う。

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妻籠城は室町中期に築城され、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり木曽義昌の家臣山村良勝が籠って、徳川家康配下の菅沼・保科らの軍勢を退けた。また慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢が入ってここを固めたが、元和二年(1616)には廃城になったという。ここ妻籠峠の道は整備され、歩きやすい。所々に旧中山道の道標が立ててあり、旧道を歩く人への配慮がうれしい。

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大きな岩が目に留まった。鯉ヶ岩という。信濃道中記に鯉ヶ岩は、名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが、明治二十四年美濃の大地震で移動したため、形が変わったと云う。すぐ近くに妻籠宿の北側に位置する古い住宅があった。妻籠宿は日本の宿場を代表する存在で、木曽川の流れに沿って南下してきた中山道は、三留野宿を過ぎてはじめて川と分かれ、山中の道に入る。その始まりが妻籠宿であると云う。全長800m宿場には、出梁造り(だしばりつくり)の二階屋と竪繁格子(たてしげこうし)、卯建(うだつ)のある家などが立ち並んでいる。

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脇本陣、高札場、本陣、人馬会所、水車小屋、枡形、常夜燈などが忠実に保存・復元されている。保存より開発の方が優先と考えられていた昭和46年、「妻籠宿を守る住民憲章」には、建物などを「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則がうたわれ、忠実に守られてきた。脇本陣奥谷は歴史資料館となっているが、代々脇本陣・問屋(といや)を務めたのが林家(屋号が奥谷)の建物で、総檜造りになっている。またここは島崎藤村の初恋の人、「おふゆさん」の嫁ぎ先でもある。時間は10時半、少しお腹がすいたので、妻籠宿にある五平餅の看板が掲げてある店に入り、一皿食べた。

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木曽街道は峠が多いため、昔の人は体力を維持するために炭水化物を多くとっていたという。その代表的な食べ物が五平餅だ。食後少し休んでから出発した。この先に本陣跡、光徳寺、上嵯峨屋を通過し、馬籠宿へと向かった。水車小屋をはじめ、昔ながらの風情が残る大妻籠集落を通り、つづら折りの石畳の道を進んでいくと、林間のハイキングコースだ。
男滝・女滝を右手奥に見ながら、歩いて行くと国史跡の中山道男垂山国有林だ。神居木(かも
いぎ)といわれる樹齢およそ350年以上の立派な椹(さわら)で、垂直に伸びた枝に山の神が座るとある。
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その先には一石栃白木改番所跡、一石栃立場茶屋跡があった。すると峠を歩いて、初めて案内人を先頭に10人前後の集団とすれ違った。馬籠宿から妻籠宿に向うと言っていた。70歳前後の男女で女性が多いように見えた。さらに足を進めると馬籠峠の頂上に着いた。標高は790m、ここからは下りで、いよいよ木曽街道で一番有名な馬籠宿だ。馬籠宿は眼下に美濃の国を眺望できる絶好の場所に位置するが、曇りで今にも雨が降りそうな天気で見ることは出来なかった。

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馬籠宿は山の斜面にあるため風通しがよく、幾度か火災に見舞われたという。とくに明治28年(1895)の大火ではほとんどが消失してしまい、今ある家並みはその後復元されたものだという。両側には飲食店や土産物屋があり町並み保存に力を入れ、また月日を得たことで、馬籠は宿場町ならではの風情を醸し出している。

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馬籠宿の名が全国に広まったのは、島崎藤村の幕末から明治の激動の時代を描いた「夜明け前」だ。私はこの旧中山道六十九次の歩き旅を思い立ってから、古地図や歩いて旅する本を買って、計画を作ろうとしたが、木曽街道の地理に疎い。今回、木曽街道二人旅を提案した大橋さんが、島崎藤村の「夜明け前を」進めてくれた。この本の第一部が木曾街道十一宿を理解する上で役に立った。主人公の青山半蔵は島崎藤村の実の父で、この小説を書くきっかけになったのは、詳細を極めた叔父の日記を発見したからだ。時代考証を加えて、執筆したので、小説での登場人物はモデルがいる。

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今回の中山道六十九次の歩き旅で、一番行きたい場所の一つだった。馬籠宿で蕎麦と五平餅を食した。妻籠宿で食べた五平餅と味も形も違う。

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馬籠宿に藤村記念館に「夜明け前」の重要な資料になった代々の古文書など多数展示されているという。空模様が怪しい。雨が降ってきそうだ。見学したいが、残念だ。記念館で大橋さんと分かれ、落合宿、中津川宿、そして宿泊地の大井宿に向う。約20㎞の道のりだ。別れてからすぐに島崎本陣(藤村の生家)があった。「夜明け前の」の主人公青山半蔵の記念碑もあった。馬籠城跡の説明の木板があった。

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 そこには戦国時代の馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌が納めた。天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上ることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島村重通(島崎藤村の祖)が警備をした。

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 天正十二年九月、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じ、三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠の北に陣地を構えた。その後、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消したという。

 雨が降りそうな空模様なので、歩く速さを上げ、次の落合宿に向う。正岡子規の句碑が立つ子規公園があった。

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病弱であった正岡子規が中山道で句を詠んで、この地で後世に残したことに敬意を表したい。さらに急いでいくと美濃と信濃の国境の石碑を見つけた。長年の風雨に耐えて、石は傷んでいるが、文字ははっきりと判別することが出来る。木曽十一宿の終点だ。雨が降ってきた。さらに強く降ってきた。

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雨宿りが出来るところを探して進んでいくと、大きな公園があり、休憩所があった。びしょ濡れになった下着、シャツを着替え、靴下も取り換えた。3040分しても雨の強さは変わらない。現在午後3時を過ぎ。さらに30分様子を見たが、雨の強さは増すばかりだ。ここから大井宿(ホテルルートイン恵那)まで3時間30分はかかる。歩いて大井宿に行くのを断念して、一番近い中津川駅までタクシーと電車で行くと決めた。周りの様子を確認すると案内所の看板が見えた。ここは落合石畳マレットゴルフ場で駐車場も大きく案内所もしっかりしていた。早速案内所に行き、タクシーを依頼したが、何時になるか分からないという。何時でもいいから予約してくれと強く言った。担当者は要領の得ない回答だった。このやり取りを聞いていた7~8人のマレットゴルフ仲間の一人が事情を聴いてきた。歩いて旅をして、京都まで行く途中だと話したら、その人が立ち上がって「よし、ひとはだ脱ぐか」と言って、自分の車に乗せてくれた。中津川駅まで約10分の所要時間だ。中津川駅に連れて行ってくれた。車中で話をしたところ、生まれも育ちも地元で、リタイヤして地域の活性化のため、マレットゴルフを通じてチームを作り、県大会に出場して活躍しているとのこと、リタイヤして地元の仕事を少し手伝っていたが、現在、仕事はしていないと言われた。別れ際に自己紹介をし、彼は山田さんと云って元気な白髪の77歳の方だった。旅先で困ったときに受ける親切はありがたい、いつまでも忘れない。

330年ほど前、江戸から北へ向かった松尾芭蕉も「奥の細道」の中で困った時の親切は忘れないと記している。中津川駅のホームに入ったところ、後ろから声をかけられた。大橋さんだ。藤村記念館で別れた後、バスを待っていたが、タクシーが来たので、乗車し、運転手に旧中山道を歩いて落合宿に行く友人を追いかけてくれと頼んだが、私の姿を見つけられなかった。ちょうど落合石畳マレットゴルフ場の待合室にいたころだ。再開を喜ぶとともに再度の別れをした。

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中津川駅から電車に乗り、恵那駅に16時頃に到着。駅からタクシーで「ホテルルートイン恵那」に行った。チェックインして部屋に入り、濡れた下着、シャツ、靴下を洗濯し、乾燥させてから18時頃、近くのレストランで食事をとった。歩数は46,125歩を数えた。本来なら、格式の高い本陣が見ものだと云われている落合宿を通り、木曽路と美濃路の接点と云われる中津川宿に行く予定だ。中津川宿には、中山道歴史資料館に、桂小五郎の中津川会談をはじめ幕末騒乱に関する文書や、和宮降嫁の行列や水戸天狗党の往来の様子など、多くの資料を展示しているという。幕末から明治時代の歴史が好きな私にとって一番行きたい場所であった。大井宿までは多少舗装されているが、古い街並みや野仏などはほぼ昔の面影をとどめているという。大井宿は恵那市街の一部で、昔の面影を残す建物も多くあるという。中山道広重美術館には歌川広重の「木曽街道六十九次之内」「東海道五十三次之内」「京都名所之内」など、主に広重と中山道をテーマとして展示しているという。


中山道六十九次旅日記(11)

8日目(4月16日)土曜日

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5時に起床。2日間雨で歩いていないので、足の調子は良い。6時30分に朝食を済ませ、大橋さんと共に7時にここ奈良井宿を出発した。今日は鳥居峠を越えて、藪原宿を通り木曽川沿いに宮ノ越宿、そして福島宿まで20㎞を一緒に行き、ここで別れて私は上松宿、須原宿まで約20㎞の道のりを行く。

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宿場時代の家並みを色濃く残した1㎞にわたる奈良井宿を通り抜けた。20分で鳥居峠旧道に入った。島崎藤村の小説「夜明け前」の冒頭に「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・」とある。鳥居峠から山々が迫る木曾谷を望み、ここから九十九折の道や旧坂を下って藪原宿を目指すと記してある。出発しておよそ50分の所に一里塚の石碑が目に留まった。

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一里塚は江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、鳥居峠一里塚はその面影をとどめていない。場所も古老の話や古地図、文献などによって「ほぼ、この辺り」としたものであると云われている。

鳥居峠は標高1197m、木曽川と奈良井川の分水嶺である。江戸時代の五街道の一つ、
250-4.jpgのサムネール画像のサムネール画像中山道の宿場町である奈良井宿と藪原宿の境をなし、旅人には難所として知られていた。戦国時代に、木曽義仲が松本の小笠原氏と戦った時に、この峠の頂上から御岳を遥拝(ようはい)し、戦勝を祈願した。その功あって勝利を得ることが出来たので、峠に鳥居を立てた。以来、この峠は「鳥居峠」と呼ばれるようになったと云う。北から木曽路へ入り、初めて御岳山を望むことのできる場所として御嶽神社がある。神社の境内には御嶽を信仰する講社の人々が建立した石碑、石仏、石塔がある。御嶽神社を過ぎるとつづら折りの道を下っていくと藪原宿がもうすぐだ。藪原宿は、尾張藩の御鷹匠役所があり、役所跡の下が飛騨街道の分岐点がある。またミネバリという木で作ったお六櫛(おろくぐし)で全国に名を広め、櫛は大流行したという。

藪原宿を過ぎると右手に木曽川の渓谷を眼下に望みながら進み、山吹山を目指していく。
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出発して3時間ほど進んだ場所に巴ヶ淵があった。この巴ヶ淵は、木曽の僧が滋賀県の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと「木曽義仲が討ち死にした場所で、弔って欲しい」という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現れ、「自分は巴という女武者、義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかった」と語る。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいた。巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が浮かんでくるようだと木柱に
記されてあった。巴ヶ淵から15分ほどで「義仲館」があり、
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その入り口に木曽義仲と巴御前の銅像があった。

この「義仲館」は1992年に開館し、2021年にリニューアルしたとある。「木曽義仲は今から850年以上前、平安時代と鎌倉時代のはざま「源平合戦」で活躍した源氏の武将で、埼玉県で生まれ、長野県で育ち、北陸新幹線のルートと重なる足取りで北陸道を戦い抜き、京都へ入った。巴御前は長野県木曽町で生まれ義仲と共に育ち、その最後まで見届けたと伝えられている」と云う。

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記念館を出て宮ノ越宿の本陣に向った。宮ノ越宿は慶長六年(1601)徳川幕府の中山道整備の時、藪原宿と福島宿の間が遠いので、江戸から三十六番目の宿として新設され、明治三年(1870)宿駅制度廃止まで続いたと云う。

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宮ノ越宿は何度も大火に遭っており、明治十六年(1883)の大火では主屋は消失するが客殿は残ったと云う。                      木曽十一宿中で唯一現存し、明治天皇が休まれた部屋が残る貴重な建物であると云われている。

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旧中山道を道なりに進んでいくと、中央本線の踏切を渡り、右手に原野駅をみて歩いて行くと、「中山道中間点の碑」が建っていた。碑文には「ここは、中山道の中間点、京都双方から六十七里二十八町(266)に位置している。

中山道は東海道と共に江戸と京都を結ぶ二大街道として幕府の重要路線でした。

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木曽路という深山幽谷と思われがちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場と指定された慶長六年(1601)頃からは整備も行き届き、和宮などの姫君の通行や、茶壷道中などの通行に利用されていた」とある。中間地点からは左手に木曽駒ケ岳をはじめ中央アルプスが綺麗に見える。木曽川支流の正沢川を渡る。ここにかかる橋は下がすけて見える橋だ。先に進むと木曾義仲の勉学のため京都の北野天満宮を迎えた手習天神(てあらいてんじん)があった。源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し、養育したことが記されているが、山下は上田の古名で、付近には中原兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っていると云う。              

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さらに進んでいき、上田口の交差点を右折し19号線に合流する。右手に出尻一里塚跡碑を見ながら、緩やかな下り坂を進んでいくと、右手に蕎麦屋の看板が目にはいった。

大橋さんが前に木曽福島を訪れた時、「くるまや本店」の蕎麦が美味しかったが、ここは支店の「くるまや国道店」だ。昼を過ぎていたので、ここで昼食をと

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ことにした。天ざるそばを注文し、奈良井宿からの道のりを思い返し、疲れているにも関わらず、奈良井宿から峠を越えての約20㎞、会話が弾んだ。休息を取り木曽町に向って進むと10分程で福島宿の象徴ともいえる巨大な関所門を通った。福島宿は中山道の要衝、福島関所は木曽川の断崖上の狭い場所に設けられた。

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木曽十一宿で最大の宿場で、福島関所の創設は中山道の重要な守りとして碓氷、箱根,新居とともに当時天下の四大関所と称され、木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治二年六月まで機能していた。ここには山村代官屋敷跡、福島関所跡、高瀬資料館がある。高瀬家は島崎藤村の姉の嫁ぎ先で「家」のモデルとなり、藤村の書簡などが収められている。さらに進んでいくと「くるまや本店」の看板が目にはいり、5~6人が並んでいる。先を急ぐ身としては支店で食事したのは正解だった。大橋さんはここで宿泊、私は次の上松宿、須原宿へと約20㎞先を歩いて行く。休息を十分に取ったおかげで、足の調子が良い。旧中央線のトンネルを抜け、元橋を左折し中央線を横断すると右手に沓掛の一里塚跡、沓掛観音があった。少し進むと木曽川沿いの道に出た。     

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 旧中山道は上松宿までほぼ木曽川と並んで作られている。河原の石が異様に白く大きい。このような河原の風景はあまり記憶がない。木曽の桟(かけはし)の場所に着いた。木曽の桟は長野県木曽郡上松町の上松町道長坂沓掛線(旧国道19号線の下にある橋跡で、長野県の史跡となっている。午後3時半、上松宿に着いた。

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上松宿は「木の国」を象徴する宿場町で、昔から木曽檜の集散として知られ、玉林院、本陣跡、一里塚跡の碑、島崎藤村文学碑、材木役所の跡などで知れれている。ここ上松には有名な「寝覚の床」と云われる景勝地がある。

木曽川の水流によって花崗岩が浸食されてできた自地形で水の色はエメラルドグリーンとのこと。

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すでに午後4時前になっていたので、暗くならないうちに宿に着くため道を急いだ。旧道沿いに小さな滝があった。この滝は「小野の滝」と云い、広重・英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵であるが、残念ながら、明治四十二年鉄道の鉄橋が真上に架けられ、往年の面影はない。萩原の一里塚、立町立場跡、木の吊り橋を過ぎ、右手の木曽川の渓谷を望みながら、国道を歩いて行く。

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この国道19号線は旧道と同一で須原宿まで続いている。午後四時、携帯電話に宿泊する「民宿すはら」から到着時間を教えてほしい旨の電話があった。5時半頃到着すると答えた。この民宿は予約時に食事はなく、素泊まりと聞いていた。5時半に須原駅に着いたが、この近くのはずが見当たらない。そのまま通り過ぎて探したが、民宿は見当たらない。電話では須原駅の斜め前だと言っていたので、戻ることにした。途中地元の人がいたので、道を聞いたところ、駅方面の道沿いに行くようにと教えてくれた。「民宿すはら」に電話したところ、民宿の前に立っていると云われた。歩いて行くとすぐに分かった。やはり通り過ぎたのだ。古民家で入り口が狭く低く看板も小さいので、見落とした。

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民宿のご主人が「民宿すはら」の仕組みを説明し、鍵を渡してくれた。食事は5分ほどの所に日本料理、中華があり、隣にコンビニがあるとのこと。翌日のチェックアウト時は鍵を所定の場所に置くようにとのことだった。早速、中に入ると想像以上に広い。引き戸を開けると土間が広がっており、正面に16畳位の広さで、中央に囲炉裏があり、椅子、テレビ、小さなテーブルの上に雑記帳が置いてあった。

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ページをめくるとほとんどが英語で書かれており、日本の伝統的な古民家に宿泊でき、感激したようなことが書かれてあった。 

私は古民家の感想と日本橋から京都までの日程表を記した。六畳一間、六畳の書斎、八畳二間の寝室、木造りのお風呂、トイレは2か所、洗濯機と乾燥機と洗面所があった。

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外国人が5~6人宿泊して、囲炉裏を囲んで食事、談笑する様子が目に浮かぶようだ。民宿の裏手から中華食堂に入り、ラーメン定食を食した。帰る途中でコンビニに行き、翌日の食事とお茶2本を買った。民宿に帰り、風呂に入ってストレッチを十分に行い、翌日の日程を確認した。

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大橋さんは木曽福島駅を736分発の電車に乗り、十二兼駅820分着だ。須原から十二兼駅まで約10㎞2時間の距離だ。朝、6時に出発すれば8時に到着する。10時に就寝した。


       



                

 


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