山陽道・西国街道旅日記 十日目(P50~51/P89)

279-1.jpg垣を築かず土嚢だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように沼沢が天然の外堀をなしていた。広場中央に案内板があり、「中国役では、秀吉軍は天正10年三万の軍勢をもって備中南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略最後に攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。」と記してあった。


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当初の予定では、備中高松城址から歩いて備前一宮駅まで行くことにしていたが、途中で道を間違えたため、岡山駅に着くのが遅くなってしまう。
やむなく、高松城址から歩いて10分程の備中高松駅で電車に乗り、岡山駅に向かうことにした。1131分発の電車に乗り、岡山駅に着いたのは1251分だ。岡山駅で蕎麦を食べた後、田部井さんは新幹線に乗り帰宅した。1241分発で赤穂線岡山駅を出発し、1250分に東岡山駅に到着した。


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当たり前だが、電車は本当に早い。東岡山駅から常磐旅館まで約22kmの旅だ。駅を出て赤穂線、山陽本線の踏切を渡り、旧山陽道に入り、山陽新幹線の高架下を道なりに進んで行くと、右側に「陸軍大将土肥原賢二忠魂碑」があった。東京裁判の記録を読んだ時、記憶に残った名前だ。土肥原賢二陸軍大将で、謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たした。極東国際軍事裁判でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑されたという。
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更に先に進むと藤井宿に着いた。「新往来」の案内板があり、幕末、備前藩では長州征伐にあたり、幕府軍が岡山城下を通過するため、一時的に山陽道を北方に迂 回させ、岡山城下を通らないようにした。藤井宿から北に山陽道を付け替えたとある。
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藤井宿は山陽道の中で岡山城下に近い宿駅がおかれたところで、町並みにその面影をとどめている。江戸時代は、参勤交代制を定めるに至り、西国大名が江戸への往来の途中、岡山城下町以東最初の休憩地として、本陣(安井家)、旅籠屋等が整備され大変賑わった。後に、本陣一つでは不便があったため、更に創設され、従来のものは西本陣、新しい本陣は東本陣と称されるようになった。「新往来」の案内板を右に曲がり進んで行く。山陽本線の踏を渡り、青津池を右に見て250号線を左折して進む。

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この辺りは250号線と旧山陽道、西国街道が入り乱れているので、250号線を行くことにした。更に行くと旧山陽道赤坂一里塚があり、砂川の砂川橋を渡り進んで行く。国道2号線の手前の岡山市楢原の信号を左折して、旧山陽道に入った。一時間程歩いて行くと旧山陽道一日市本陣跡があり、少し先に常夜灯、一日市一里塚跡があった。
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一日市本陣跡は宿場町の面影は見られず、常夜灯が昔の面影を残している。前に見える大きな橋を渡ると、備前長船刀剣博物館はもう少しだ。吉井川にかかる備前大橋を渡って、川沿いに左に進むと、「明治天皇巡幸記念碑」と彫られた立派な石碑が建てられていた。昨年の中山道69次、一昨年の東海道53次を歩いた時にも明治天皇巡幸の記念碑がいたるところにあった。明治の時代



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