山陽道・西国街道旅日記 九日目(P44~45/P89)

九日目 4月23日 日曜日


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5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりと菓子パンで朝食を済ませ、7時に田部井さんと出発した。今日は旧山陽道に戻るため、旧山陽道日芳橋まで1.1km、その後堀越宿跡、毎戸一里塚、矢掛本陣、下道氏墓案内板、吉備寺、井原線清音(きよみ)駅まで28kmを歩き、清音(きよね)駅から電車で倉敷駅に向かう行程だ。倉敷は旧山陽道の宿駅ではないが、旧道ではホテルを見つけることが出来なかったので、倉敷のアパホテル倉敷駅前に宿泊することにした。

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気温10℃、少し肌寒いがすぐに体が温まって、ちょうど良い。ホテルを出て、左に進み旧東城往来笠岡線を右に曲がり、10分程で十字路を左折すると、西国街道(旧山陽道)に出て、小田川に架かる日芳橋を渡った。この辺りはナビでも縮尺によって西国街道が表示されるので、絵地図をみなくて済むので、歩きやすい。30分程進むと「北条早雲ゆかりの地荏原周辺案内図」看板があった。北条早雲の名前を見ても、小田原の北条氏と結びつかなかった。調べてみると北条氏の祖である北条早雲は、戦国時代初期の英雄、伊勢新九郎とのこと。

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この地に生まれ青年期を過ごし、のちに北条早雲と名乗り61歳の時、相模三浦氏を滅ぼし、相模を平定し、小田原北条氏となった。北条氏は戦国時代に戦国大名として関東を広く支配したが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。徒歩以外に移動手段が少ない時代に、相模にまで進出し、一時代を築いた北条早雲に畏敬の念を持った。案内板のすぐ近くに一里塚が置かれてあった。さらに進んで行くと、「北条早雲誕生の地高越城址」があった。高越城は旧山陽道を眼下に、見下ろす高越山山頂(172m)に築かれた中世の山城である。井原線と小田川の間にある西国街道を行くと、まもなく堀越宿に着いた。

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越宿は、小田の堀越、西荏原とともに旧山陽道の矢掛、七日市間の「間(あい)の宿」として賑わい、江戸時代、宿場と宿場を結ぶ街道筋にある宿駅の補助をする宿場を「間の宿」と呼び、本宿で常備する人馬数の一部を負担し、荷物の付け送りをする問屋(といや)などがあり、旧堀越宿には78軒の屋敷があったと伝えられている。今でも虫籠窓を備えた町屋が並び、当時の街道筋の賑わいを垣間見ることが出来るという。

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その少し先に旧山陽道の目印の毎戸一里塚があり、矢掛本陣跡の手前の標識に「矢掛商店街 篤姫が泊まった矢掛本陣石井家」の大きな案内板あった。小田川の栄側道橋を渡ると、矢掛本陣の本陣通り(旧山陽道)に入る。矢掛宿は山陽道の宿場として室町時代の「屋蔭」から来ているとされ、矢掛宿とは異なり、茶臼山西麓の古市にあったとされてい

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る。

江戸時代初期の参勤交代では古市から現在の場所、矢掛宿に移転され、本陣や脇本陣をはじめ江戸時代の旧姿をとどめた町並みは、岡山県町並み保存地区に選定されているという。通り入口の右側に旧矢掛本陣石井家住宅がある。旧矢掛本陣石井家住宅は寛永12(1635)から幕末まで、200年以上本陣職を務めた石

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