中山道六十九次旅日記(6) 

3日目(4月11日)月曜日

5時起床し、6時にホテルを出発した。今日の予定は安中宿を過ぎ、松井田宿寄りに位置する「ビジネスホテル宝泉」だ。約39kmの行程、到着時間は午後3時の予定だ。日程表を作るとき、出来るだけ碓氷峠手前まで行こうと計画した。昼過ぎには碓氷峠のゴールともいえる熊野神社に到着したいからだ。そのために初日50km2日目は49kmと無理な距離の計画を立てた。3日目は松井田宿まで41kmを計画したが、松井田宿近郊に宿泊する旅館がない。松井田駅から5km10kmの距離に温泉旅館があるが、それでは45km50kmを歩くことになる。3日続けて50kmを歩くのは、自分の現在の体力では無謀だ。最初の難所の碓氷峠を無事に超えることができない。昨年の東海道五十三次を歩いた時も箱根の旧道を越えて、芦ノ湖で宿泊し、体力の温存を図るか、そのまま三島宿まで行くか悩んだ。そのため出発前に46kmの歩行を6回行い、自信をつけた。そして三島宿までいくことにした。箱根は標高約850m、碓氷峠は標高1200mだ。体力温存のため、松井田宿手前に見つけたのがビジネスホテル宝泉だ。周辺の状況を確認することなく、予約を入れた。これがのちに行程を変更するほどのアクシデントになるとは思いもよらなかった。

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今日の予定は本庄宿を出発し、新町宿、倉賀野宿、板鼻宿、安中宿を通って、早い時間にホテルに入り足の疲れを取る予定だ。天気予報では気温が12~26℃と高くなるのが心配だ。出発して順調に旧中山道に入り、金鑚神社を右手に見て、462号線を陸橋で渡り、しばらく歩くと左手に浅間山古(せんげんやまこふん)の案内板があり、赤い鳥居があった。

245-3.jpgこの古墳は前方後円墳で、国の史跡に指定されている。関東地方で太田天神山古墳、舟塚山古墳に次ぐ第3位の規模で、4世紀末から5世紀初頭の築造と云われている。次に神流川の神流橋を目指した。を渡ると神流川古戦場の碑があった。神流川の戦いは、天10616158275日)から6月19日にかけて、織田信長が本能寺の変によって敗死したのち、織田方の滝川一益と北条氏北条氏邦が武蔵国賀美郡周辺で争った戦いで、戦国時代を通じ関東地方で最も大きな野戦と云われている。
245-4.jpg北条軍5万、滝川方の上州軍1万6千で戦ったと云う。かつて歴史小説を読み漁っていたが、この戦いは初めて知った。滝川一益は近江国甲賀郡の生まれで、織田氏の宿老の一人で、織田信長に従い天下統一の事業に貢献した人物だ。この時の時刻は7時半を回っていた。

次の宿場町の新町宿は中山道が開かれた後に落合
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町と笛木新町が合併してできた宿場町で、明治天皇が北陸・東海巡幸の際、宿泊所として新築した屋敷が保存されているという。見学せず、次の倉賀野宿に向った。関越自動車道の高架をくぐって鳥川堤のサイクリングロードへ上がり、鳥川にかかる柳瀬橋を渡り、間もなく岩鼻町の交差点を左折し、高崎線を横断した。倉賀野宿の東の入口に入ると、文化11(1814年)に建立された常夜灯と道標、閻魔堂があり、ここ倉賀野追分は中山道と日光幣使街道の分岐点になる。町並みは脇本陣須賀家の連子格子の古い家など古い建物が所々に残っていた。右手には高崎線の倉賀野駅が見える。その先の右手には群馬県指定史跡の安楽寺と異形板碑があった。
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倉賀野は中山道の十二番目の宿場で大変栄えていたが、鉄道が敷設されると衰退てしまった。安楽寺の御本尊は七仏薬師如来であるが、古墳の中にある仏様で大変珍しいお寺、 古墳は七世紀末頃に建てられたと云われている。高崎宿まではほぼ一本道で、途中に若木20ほどで道路の南側だけだが、倉賀野松並木が復元されていた。

次に向った高崎宿は商業が盛んな城下町で、本陣・脇本陣は既になかった。高崎は今や大都会だが、乾櫓やお堀を残す高崎城址、鍛冶町、鞘町など城下町ならではの町名に昔日をしのぶことが出来る。市内に入って上越新幹線の高架をくぐり、上信電鉄の踏切を渡り、左手に南高崎駅を見て、高崎市内中心に入っていった。通行人は閑散としていたが、歩道は綺麗に整備されていた。高崎駅前通りの交差点にファミレスがあったので、12時前だが、昼食をとることにした。気温が高かったので、少し疲れた。ランチを頼みアイスコーヒーをお代わりして、大腿筋前部を伸ばすため、靴を脱ぎ正座して45分ほど休憩した。足の疲れが和らいだが、腰に違和感がある。次に進む旧中山道のチェックポイントは君が代橋、板鼻宿の鷹之巣橋、松井田宿手前のホテルだ。

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ファミレスを後にして本町3丁目を左折し、しばらくすると鳥川にかかる「君が代橋」が見えた。橋の手前端に鳥川の「君が代橋」親柱の記念碑があった。明治11年に明治天皇が北陸東海行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されたと云う。この「君が代橋」の親柱は昭和6年に木橋から鋼橋にかけ替えられた時のもので、昭和52年よ10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され、「君が代橋」も新たに架け替えられたため、ここに移設されたと記してあった。この「君が代橋」からは赤城、榛名の山々が一望できるはずの日は春霞ではっきり見ることが出来なかった。

245-9.jpgのサムネール画像このまま真直ぐに行くと信州街道を行くが、左に折れると旧中山道に進む。案内板に少林だるま寺直進2㎞、直進小諸、安中とあった。今から200年前天明3年に浅間の大噴火など天変地異が多く起こり大飢饉となった。この惨状を見かね、少林寺達磨寺の東獄和尚は農民の困窮を見かねて、寺に伝わっていただるまの絵より木型を起こし、農民の副業として張り子の達磨の作り方をおしえた。現在も高崎の達磨として全国に名が知られ、板鼻の町にも達磨工房が多くみられると云う。

この上豊岡はダルマ工房が多いせいか、街道沿いに達磨のニュメントが多数あった。周りの山々を見ながら、

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碓氷川沿いの道路(国道18号線)を歩き、板鼻下町を真直ぐ進み、板鼻宿に入った。本陣跡の碑と共に皇女和宮資料館が目に入った。この建物は、板鼻宿本陣に付属した書院で、建設年代は2説ある。

。公武合体運動により皇女和宮親子内親王(1846年~1877年、孝明天皇の妹)が第十四代将軍徳川家茂(1846年~1866年)に降嫁するため、中山道を京都から江戸への下向途次、文久元年(1861年)十一月十日に一夜を     
この書院で過されたと云う。幕末の小説には必ずと言って良いほど公武合体のため、皇女和の降嫁の話
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出てくる。小説のお陰でる程度の知識はあったので、京都に向かう各宿場町の本陣に皇女和宮の足跡をたどれると思うと楽しみだ。同時に改めて幕末の中山道に思いを馳せて歩くことの感慨がわいてくる。チェックポイントの碓氷川の鷹之巣橋に着いた。安中駅までもう少しだ。南側に碓氷川、北側に九十九川(つくもかわ)が流れる安中の町は高台に位置する。街道の沓掛から先の地名と木曽街道の地名はあまり知識がないので、友人に勧められた浅田次郎」と島崎藤村の「夜明け前」を読んで地理と地名を覚えるようにした。その物語の中で、「一路」の主人公が窮地に陥った時、安中藩・藩主板倉勝明の助けを借りて、参勤交代の江戸到着遅参の書状を事前に幕府役人に渡さないとお家の取り潰しに合う。江戸まで期限に間に合うように、藩士3名に命じて約100kmを一夜で走っていく。それも3人縦列で先頭がが風よけになり、一定の間隔で先頭者は3番目に後退し、2番目が先頭にあがり、3番目が2番目へと上がる。幕末の中山道に思いを馳せて歩くことの感慨がわいてくる。チェックポイントの碓氷川の鷹之巣橋に着いた。安中駅までもう少しだ。南側に碓氷川、北側に九十九川(つくもかわ)が流れる安中の町は高台に位置する。街道の沓掛から先の地名と木曽街道の地名はあまり知識がないので、友人に勧められた浅田次郎の「一路」と島崎藤村の「夜明け前」を読んで地理と地名を覚えるようにした。
その物語の中で、「一路」の主人公が窮地に陥った時、安中藩・藩主板倉勝明の助けを借りて、参勤交代の江戸到着遅参の書状を事前に幕府役人に渡さないと、お家の取り潰しに合う。江戸まで期限に間に合うように、藩士3名に命じて約100kmを一夜で走っていく。それも3人縦列で先頭が風よけになり、一定の間隔で先頭者は3番目に後退し、2番目が先頭に上がり、3番目が2番目へと上がる。順繰りに隊列を入れ替えて、早く走り無事に遅参の書状を届ける描写だ。

その素地にあるのは藩主板倉勝明が安政2年(1855年)に藩士の心身鍛錬のために「安政の遠足(とおあし)」を行った。遠足とはマラソンのことで、碓氷峠の熊野権現まで走らせ、着順を競わせたと云う。今では毎年5月第2日曜の「安政遠足 侍マラソン」に大勢のランナーが参加している。大名小路と名付けられた安中藩士の家が並んでいる道 には、旧安中藩郡奉行役宅、旧安中藩
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武家長屋が保存されていた。その少し先に新島襄旧宅案内板があったが、旧宅の史跡は見ずに、通り過ぎた。新島襄は同志社の創立者で天保14年(1843年)、安中藩の江戸詰め下級藩士の長男として生まれ、国家の改革者、日本の近代化の先導者になったという。
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あと6㎞と少しだ。群馬県立安中総合学園高を左に見て、国道18号線を渡り、安中原市の杉並木を進み、高札場跡の碑と明治天皇小休所の碑を左手にみて進んだ。あと30~40分の所まで来たのだが、歩いている旧中山道沿いは自然がいっぱいでホテルがあるとは思えない。遠く先を見ても同じだ。ナビでホテルすぐ近くに来たが、安中工業団地の大きな看板があるだけで、工場も相当先にあるようで目視できなかった。ホテルに電話して道を聞くと道路から少し下がった所にそれらしいところがあった。周りにコンビニも商店も何もない。困った。とりあえずチェックインした。到着時間は午後3時の処、45分オーバーの3時45分だった。風呂に入り着替えてから、1日の行動を確認した。歩数計での数字は約40㎞58,535歩を要した。6時に夕食を取るため、食堂に行った。中年夫婦が二人で経営しているビジネスホテルだ。野菜と肉料理で種類も多く美味しかった。部屋に戻り、翌日の日程の確認を行った。初日に日本橋から浦和宿まで一緒に歩いた田部井さんからメールが来て、4日目の碓氷峠を同行したい旨のメールだった。もちろん快諾した。また、友人である大橋さんとは日本橋を出発する前から、横川駅で合流し、碓氷峠を越えて軽井沢までいこうと計画した。しかし困ったことが起きた。朝食時間は6時30分からだ。私は6時に出発しないと横川駅待ち合わせ時間8時03分に間に合わない。朝食はコンビニで購入しようと考えたが、宿の人がホテルの周辺にコンビニはないと言う。おにぎりは用意出来るが、飲み物の自動販売機がない。近くに商店もないという。横川駅まで約9.1㎞約2時間だ。水がないと途中でへばってしまう。やむを得ず計画を変更して、7時30分にタクシーを予約して横川駅に行くことにした。計画段階の失敗だ。





中山道六十九次旅日記(5) 

2日目(4月10)日曜日

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4時に起床したが、前日50km近く歩き、気温も4月初旬としては高く疲労がたまっている。その上、腰に違和感があり心配だ。30入念にストレッチを行い、ホテルを6時に出発した。今日42kmを歩き、到着 時15時の予定だ。コンビニでおにぎり、パンと水を買い、歩きながら食事をした。

最初に行くのは日本橋から7番目の鴻巣宿だ。
244-3.jpg244-2.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像45分で鴻巣宿の「ひなの里通り」入った。鴻巣宿は約300年のひな人形制作の歴史と伝統を誇る町であり、産業観光館「ひなの里」には、鴻巣雛や裃雛などが展示されているが、朝早いので、開館していない。残念だが、見学することはできなかった。通りの左側に徳川家康ゆかりの勝願寺があった。境内に足を踏み入れ、見学することにした。

広い敷地内には信州真田藩祖の信之(幸村の兄)の三男、真田信重と母の小松姫のお墓が並んで建立されていた。小松姫は本田忠勝の娘で家康の養女になり真田信之に嫁ぎ、1620年2月24日に没したと碑文に記してあった。当山に深く帰依した信之の二女松姫がここ勝願寺に分骨造塔したという。

244-5.jpg244-4.jpgのサムネール画像田家は戦国時代から江戸初期にかけて、甲斐国の武田信玄の家臣となった地方領主で、領主の真田昌幸は長男の信之は徳川方に、次男の信繁(幸村)は豊臣方に出仕させ、信之は家康の重臣本田忠勝の娘小松姫と結婚した。30のころ徳川家康や太閤記の小説を読み、幸村が大阪城の出城真田丸を作り、東軍を大いに苦しめたこと、信之が弟と敵味方に分かれて戦い、どちらが勝っても負けても真田家が生き残る戦略をとった。

そして信之の直系の子孫が、現在、愛知淑徳大学教授の真田幸光氏だ。

244-6.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像は真田教授の東アジア地域経済や国際金融市場のメカニズムの話を聴くのが好きなので、今回の旧中山道の旅で、ここ勝願寺に真田家ゆかりのお墓を発見して、うれしくなった。 歩いて旅をする小さな喜びだ。しばらく立ち止まっていた。 気が付くと、朝起きた時の腰の張が和らいでた。足の調子もよい。箕田観音堂、氷川八幡神社を順調に通り過ぎ、吹上駅を左手に見て、吹上神社に着いた。この神社は吹上夏まつりでおなじみの吹上神社だ。年越しから年始三が日にかけては地域の人や、吹上駅から徒歩5分とアクセスが良いことから電車で初詣に訪れる参拝客でにぎわいを見せていると云う。244-7.jpgのサムネール画像244-8.jpgのサムネール画像

吹上神社を後にして荒川堤「久下の長土手」に入った。右手に桜の花が少し散っていたが、心が和む。菜の花の黄色がきれいだ。単調な長い土手を歩くには心地よい。        

気持ちよく歩いておいたが遠くに大きな赤い橋が見える。

244-9.jpgのサムネール画像絵地図を見て進行方向に大きな橋などないのだ。川(荒川)を渡って、間違いがはっきりした。なぜか真直ぐ行くところを左折して、荒川を渡ってしまった。橋の名前を見ると久下橋と書いてあった。なぜ間違ったかわからない。元の道に戻るのが嫌なので、前に進むためにナビで熊谷宿を目指して行くことにした。なるべくナビを使わず、旧中山道の絵地図だけを見ていこうとしたのが、失敗244-10.jpgの原因だった。結局大きく迂回して荒川大橋を渡り、熊谷宿に入った。この荒川大橋が遠くに見えた橋だった。熊谷駅手前を右に曲がり、八木橋百貨店に行くところ、ロスタイムが大きかったので、先を急ぐことにした。旧中山道の両側にあった百貨店を統合した結果、八木橋百貨店の中に旧中山道が通っている。テレビの番組を見て、一度現地に行ってみたかった。残念だが仕方ない。昼食は街道沿いの「とんでん」で刺身盛り合わせご飯セットを注文した。休息と本庄宿までの道順を確認し、深谷宿を目指して出発した。国道17号線を通り、熊谷警察署の前を過ぎてからY字路を斜め左に曲がり、旧中山道に入った。宮塚古墳通りを突っ切ると国道17号線に合流し、少し歩いて斜め右に進むと旧中山道だ。新道と旧道が折り重なるようになっている。旧道を忠実に進むときに間違えやすい。2時間ほどで旧深谷宿の東の常夜燈が歴史を物語るように立っていた。この常夜燈は東の常夜燈で、西の常夜燈の区間約1.7kmが深谷宿である。江戸時代中山道深谷宿の東と西の入口に建てられ、旅人の便が図られた。高さ約4mで、中山道筋で最大級の常夜燈であると云う。唐沢川を渡り、旧道沿いに龍宮神社、岡部藩主阿部家歴代の墓碑がある源勝院、普済寺そして小山川にかかる滝岡橋を渡って本庄宿に入った。本庄宿は中山道の中でも有数の大きな宿場町で、江戸時代末期には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒、人口4,554人を数えたと云う。徳川氏の家臣小笠原信嶺が城主となるが、関ヶ原の戦い後、移封され、廃城となり江戸幕府領となって、宿場町、商人町として発展したと云う。朝は8時頃から半袖のシャツに着かえるくらいの気温だったが、午後から一段と気温が上昇し、本庄宿までにペットボトル4本、途中のコンビニで休憩を取りながら、冷たいアイスコーヒーを2杯飲んだ。脱水症状には気を付けて、多くの水分を補給したが、トイレにはいかなくて済むくらい汗をかいた。ホテルに着く直前午後4時ガソリンスタンドに大きな温度計があった。なんと27℃。この暑さだと足が前に進まないのは無理もないと思った。
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到着予定は午後3時であったが、大幅にペースダウンしたため、2時間10分遅れの510分に到着した。歩数計は69,463歩、48.9kmを記録していた。予定では42kmだが、道を間違えて遠回り、暑さで歩くペースも遅くなった。今日の宿泊は本庄市のビジネスホテル「ホテル本庄」だ。このビジネスホテルには食事の設備はない。食事に行くには10分位の所にある。疲れていたので、近くにあるスーパーで夕食の弁当と果物を仕入れ、明日の朝食(おにぎり、パン、牛乳)と水とスポーツ飲料を一本ずつ買い、ホテルの部屋で食事をすませ、足を冷やしてからシャワーを浴びた。翌日は新町宿、倉賀野宿、高崎宿、板鼻宿、安中宿の5宿を歩く。チェックポイントは旧中山道沿いの新町宿の陽雲寺、板鼻宿板鼻町の柳瀬橋、高崎宿にある君が代橋、板鼻宿と安中宿の中間に在る鷹之巣橋、そして安中宿を過ぎ松井田宿寄りにある「ビジネスホテル宝泉」の予定だ。工程の確認を行ったのち、ストレッチを行う元気もなく爆睡した。

中山道六十九次旅日記(4) 

1日目(4月9日)土曜日

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4時に起床。中山道六十九次の旅の始まりだ。昨年の東海道五十三次の旅と違い難所であるいくつもの峠を越えなくてはならない。自然と気合が入る。昨年と違うのは3人の友人が途中の行程で合流することだ。前日にコンビニで購入したおにぎりや飲み物などで簡単に朝食を済ませ、待ち合わせ場所である日本橋由来碑に向った。ホテルから徒歩5分だ。すでに田部井さんが待っていた。田部井さんは毎日一万歩近く歩いているとのこと、浦和宿辺りまで行くことになった。出発だ。神田駅を左手に見て、秋葉原駅を右手に見ながら、神田明神を通り過ぎ、東京大学赤門に到着した。この赤門は加賀前田家加茂屋敷の御守殿門で、朱塗りなので赤門と呼ばれていた。私は23才まで東京の品川区と大田区に住んでいたが、赤門に来るのは初めてだ。記念写真を撮り、足を進めると間もなく諏訪山吉祥寺の石碑があった。

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この吉祥寺は太田道灌が江戸城築城の際、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を立てたのが始まりと云われている。更に進むと「本郷追分」に出た。直進すると岩槻街道(日光御成道)へ、左が中山道だ。次のチェックポイント「高岩寺とげぬき地蔵」に向った。巣鴨駅を通り過ぎたあたりから国道17号線と旧中山道が分かれて行く。ナビを見ながら「高岩寺とげぬき地蔵」に向ったが、狭い道に誘導されていくので、おかしいと思いながら歩いているともと来た道に戻ってしまった。二人で歩いていると昔話に夢中になり、道に迷ってしまった。田部井さんのアドバイスにより、国道17号線に出ていくことにした。蕨宿までほとんど国道17号線と一緒だからだ。荒川の戸田橋を渡り、蕨宿に入った。浦和宿に入ったところで、田部井さんは浦諏訪山吉祥寺石碑和駅に向かい、ここで別れた。毎日健康のため散歩をしているとのこと、ここまで約25km、健脚だ。私はそのまま国道17号線を進み、北浦和駅で旧中山道(鴻巣桶川さいたま線・164号線)に入り、大宮宿に向った。さいたま新都心駅を過ぎると氷川神社参道入り口の石灯籠に出会った。     

243-3-3.jpgこの一の鳥居から三の鳥居まで、約kmの並木道が続き明治期には鬱蒼とした杉並木だったが、現在はケヤキを中心とした並木を形成している。大宮宿は氷川神社の門前町から始まったといわれ、鳥居まで、約kmの並木道が続き明治期には鬱蒼とした杉並木だったが、現在はケヤキを中心とした並木を形成している。大宮宿は氷川神社の門前町から始まったといわれ、平安時代の古社で武蔵国一宮として伝統と格式を誇っていた。一の鳥居から約2kmの参道は、江戸幕府が参道の両側の民家を移転させ宿場町として整備したとされる。参道の両側の民家を移転させ宿場町として整備した
される。
大宮駅を左手に見ながら通り、昔を思い出した。45年前弊社顧客の工場が南浦和にあり、担当者の方々と打ち合わせ終了後、この大宮駅近くの繁華街にあるやきとり屋でビールを飲みながら、また口角泡を飛ばしながら、お互いに議論をした 記憶が鮮明に蘇ってきた。その当時の方々には、まだ仕事の進め方を十分に理解していなかった私に、熱心にアドバイスをしていただいた。今でも大変感謝している。JRの宇都宮線の高架下を通り抜け、東北新幹線の高架下を通過し、チェックポイントの南方神社を右手に見て、上尾宿の石碑の在る所に着いた。

上尾宿は、上尾駅近くに「お鍬さま」と呼ばれる宿の鎮守、氷川鍬神社がある。門前の「中山道・上尾宿と本陣」の説明板によると、江戸時代末期の家数は182軒、旅籠41軒、神社の正面に本陣があり、近くに脇本陣3件があったという。比較的小さな宿場だ。ここから桶川宿まで約3kmだ。桶川宿は紅花や麦の集積地で繫栄した宿場で、日本橋から10(40)余り、江戸から6番目の宿として開かれた。
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旧道沿いには古い家がかなり残っていた。本来、この桶川宿で宿泊するのが、丁度よいのだが、標高1200mの碓氷峠は、昨年、東海道を旅した時の箱根850比較しても350m高い。調べれば調べるほど峠越えに自信が持てなくなってきた。朝6時頃出発して碓氷峠の頂上熊野神社に正午に到着、途中疲れても3時までには到着しないと、宿泊地の「あさぎり山荘」に着くころには暗くなってしまうので、出来るだけ碓氷峠の近くに行きたいと計画した。そのため、桶川駅一つ先の北本駅に宿泊するため、やむなく初日に50km近く歩くことにした。初めての50km歩行は不安が大きかったが、挑戦することにした。北本は桶川宿と鴻巣宿の中間の鴻巣宿よりにある。北本の街並みが作られたのは、江戸時代の初期に元宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりで、その後現在の鴻巣の地に移され、宿場の有った所は、本宿(元宿)と呼ばれ、これが北本の地名になったとのこと。

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北本駅近くのビジネスホテルに到着したのは1640分、計画より10分遅れだ。計画では47kmだが、歩数計では51km72,610歩を要した。午後、気温が高くなったので、ペットボトルの水とスポーツ飲料を5本飲んだ。いつもは3本だが、気温が高くなると水分を取る量が多くなり、疲れた。部屋に入り足を冷やしてから、Tシャツ・下着等の洗濯をしてから、フロントで近くのレストランマップをもらい、5分位の所にある食堂に行った。一度歩くのを止めると短い距離でも歩くと足裏が痛い。生ビールと刺身定食を注文したが、コロナ感染防止のため、両方とも扱っていないと言われたので、瓶ビールとカツ丼を頼んだ。メニューの種類が少ないので、選択肢はなかった。客は私一人、老夫婦二人で営んでいる食堂だった。スマホで一日のニュースをチェックしながら、時間をかけて食事した。お客が一人入ってきたところで、勘定を済ませ、部屋に戻った。明日のためにストレッチを十分に行い、足裏のマッサージも丹念に行った。今日は、午後から25℃近い気温だ。このような高い気温では脱水症状を起こしかねない。明日の天気も気温が高そうだ。明日のチェックポイントは簑田氷川神社、熊谷宿の八木橋百貨店、深谷宿の深谷市役所を通り、小山川に架かる滝岡橋を渡って、本庄宿のビジネスホテルの「ホテル本庄」までの約47㎞の行程だ。9時に就寝。一日目が終わった。

中山道六十九次旅日記(3) 前日日程表 

昨年の東海道五十三次を歩いて旅した時は、リュックの重量が7kgになったので、大変苦労した。前回を反省して今回は重量を半分にした。

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48日金曜日午後4時半東京駅に着き、昨年と同じホテルにチェックインした。夕食は前から予約をしていた焼き肉店へ行こうとホテルを出たときに、トラブル発生、スマホの画面が切れている。何度か電源を入れる試みをしたが、起動できない。このスマホに中山道の旅の予定表、宿泊旅館、中山道の通過ポイントを記したグーグルマップのナビがはいっている。使用できないと翌日からの旅に支障が出てしまう。ドコモショップを探して東京駅八重洲口に向った。幸い量販店の中にドコモのコーナーがあったので、起動できるようにお願いした。店員さんが何度か試したが起動しないので、新しいスマホに買い替えると申し入れをした。しかし量販店ではデータのコピーは受けられないと言われ、困ってしまった。明日から中山道を14日間かけて、京都に行く事情を話したところ、一部のデータが破損してしまう恐れがあるが、強制的に起動する方法があると言われた。データが破損しても苦情は言わない約束で、強制的に起動をさせた。後で確認したが、データも維持できていた。今回の中山道六十九次の旅には、友人3人が途中の行程を一緒に歩くことになっている。明日は日本橋から桶川宿の北本まで48kmの道のりだ。東海道の時は旧道を歩くつもりが何度か道に迷ったので、絵地図から旧道をいくつかの地点に分けて、ナビを主体にして旧道に記されている場所を登録した。

中山道六十九次日程表(202249日~4月22日)

49()  1日目 日本橋出発5:00「田部井さんと合流」

東大赤門⇒とげぬき地蔵(高岩寺)⇒志村一里塚辻一里塚跡碑(蕨宿)⇒さいたま新都心駅(大宮宿)⇒上尾駅(上尾宿)⇒桶川宿47㎞ 到着予定時間1630分 宿泊先 ザ・セレクトン北本駅前 

410()  2日目 桶川宿 ザ・セレクトン北本駅前 出発600

箕田氷川八幡神社(鴻巣宿)⇒吹上神社(鴻巣宿)⇒八木崎百貨店(熊谷宿)⇒深谷市役所(深谷宿)⇒滝岡橋(深谷宿)⇒本庄宿42km 到着予定時間1500分 宿泊先 ホテル本庄 

       

411() 3日目 本庄宿  ホテル本庄 出発600

陽雲寺(新町宿)⇒岡醤油醸造(高崎宿)⇒君が代橋(高崎宿)⇒鷹之巣橋(板鼻宿)⇒安中宿39km 到着予定時間1500分 宿泊先 ビジネスホテル宝泉 

 

412()4日目 安中宿 ビジネスホテル宝泉 出発600

補陀寺(松井田宿)⇒碓井神社信越本線横川駅「大橋さん・田部井さん合流820分」碓井関所跡(坂本宿)⇒山中茶屋跡旧碓氷峠遊覧歩道沓掛宿32km 到着予定時間1430分 宿泊先 あさぎり荘 

 

413() 5日目 沓掛宿  あさぎり荘 出発600

御代田一里塚跡(小田井宿)⇒住吉神社(岩村田宿)⇒相生の松(塩名田宿)⇒駒形神社(塩名田宿)⇒中津橋(塩名田宿)⇒大友神社(望月宿)⇒金丸土屋旅館(芦田宿)⇒松尾神社(長久保宿)⇒和田宿40km 到着予定時間1530分  宿泊先 民宿みや

 

414() 6日目 和田宿 民宿みや 出発700

鍛冶足一里塚跡(和田宿)⇒男女倉口(和田宿)⇒広原一里塚跡和田峠(古峠)⇒西餅屋茶屋跡水戸浪士の墓木落し坂諏訪大社下社春宮下諏訪宿29㎞ 到着予定時間1630   宿泊先 鉄鉱泉本館

 

415() 7日目 下諏訪宿 鉄鉱泉本館 出発600

下諏訪宿今井番所⇒塩尻峠展望台⇒東山一里塚(塩尻宿)⇒犬飼の清水(塩尻宿)⇒堀内家住宅(塩尻宿)⇒平出一里塚(塩尻宿)⇒牧野一里塚(洗馬宿)⇒日出塩一里塚(本山宿)⇒ 奈良井宿 40km 到着予定時間1530分  宿泊先 民宿しまだ

 

416() 8日目 奈良井宿 民宿しまだ 出発700分「大橋さん合流」

鳥居峠御岳神社⇒藪原駅(薮原宿)⇒義仲舘(宮ノ越宿)⇒中山道中間点の碑出尻一里塚碑跡⇒木曽福島役場(福島宿)(大橋さん宿泊)⇒上松町役場(上松宿)⇒須原駅(須原宿) 42km 到着予定時間1600分時 宿泊先 民宿すはら

 

417() 9日目 須原宿 民宿すはら 出発700

天長院(須原宿)⇒下在郷一里塚十二兼駅(大橋さん合流)⇒脇本陣奥谷(妻籠宿)⇒馬籠峠陣場上展望台(馬籠宿)⇒馬籠脇本陣資料館(大橋さん帰宅)⇒新茶屋の一里塚跡与坂立場茶屋跡(落合宿)⇒小石塚立場(中津川宿)⇒甚平坂公園(大井宿)⇒恵那宿39km 到着予定時間1600分 宿泊先 ホテルルートイン恵那

 

418() 10日目 恵那宿 ルートイン恵那 出発600

慎ケ根一里塚⇒権現山一里(大湫宿)⇒八瀬沢一里塚秋葉坂の三尊石窟(細久手宿)⇒山内嘉助屋敷跡和泉式部廟所(御岳宿)⇒一本松公園(伏見宿)⇒太田宿43km 到着予定時間1600  宿泊先 ホテルルートイン可児

 

419() 11日目 太田宿 ホテルルートイン可児 出発600

太田の渡し跡⇒中山道鵜沼宿町屋館(鵜沼宿)⇒新加納一里塚本田代官所跡美江寺宿(美江寺駅)42km 到着予定時間1530分 

美江寺駅発1552(樽見線大垣行) 大垣駅1606分着 徒歩3分 宿泊先 コンフォートイン大垣(到着予定時間1610)

 

420() 12日目 コンフォートイン大垣 出発6時 大垣駅621分発 美江寺駅634分着 美江寺宿(美江寺駅)出発640

馬淵家長屋門⇒垂井一里塚(垂井宿)⇒柏原一里塚跡醒ヶ井駅(醒ヶ井宿)⇒鳥居本駅(鳥居本宿)⇒彦根駅46km 到着予定時間 1715分 宿泊先 コンフォート彦根 (松本さんとホテルで合流)

 

421() 13日目 鳥居本宿 ホテルコンフォート彦根 出発 600分「松本さん合流」 岩清水神社⇒石畑一里塚⇒御幸橋(愛知川)⇒奥石神社義経元服の地森山37㎞ 到着予定時間1530分 宿泊先 セントラル野洲 


422() 14日目守山宿 セントラル野洲 出発500分                       今宿一里塚⇒本陣(草津宿)⇒潮田唐橋⇒大津事件の石碑⇒逢坂山関址碑⇒山科駅前⇒三条大橋35km 到着予定時間1300


中山道六十九次旅日記(2)(2022年4月9日~4月22日)

まえがき

2021471歳の時、東海道五十三次を日本橋から京都三条大橋まで1213日の日程で歩いて旧街道を旅した。三条大橋に到着した時の充実感・達成感は脳に焼き付いている。旅日記をまとめ終わり、翌年も歩いて旅をしたい思いに駆られ、京都までの旅程で東海道と対をなす中山道に決めた。中山道はもともと古代・中世の東山道を受け継ぐ道だったが、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6(1601)から7年かけ、江戸幕府によって、五街道の一つとして大きく整備された街道だ。

中山道は日本橋から武州、上州、信濃、木曽、美濃、近江を得て京都三条大橋約534kmで、東海道よりも約40km長い道程だ。現在の都道府県で云うと東京都(日本橋)、埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県、滋賀県、京都府(三条大橋)になる。中山道は東海道に比べ、山岳地帯を進むため難所も多く、冬は雪に見舞われる過酷な道だという。しかし東海道よりも川の障害がすくないのが利点で、特に女性は中山道を利用することが多かったというが、東海道の難所箱根の標高は約850mに対して、中山道の最初の難所は碓氷峠1200m、第二の難所は1600mの和田峠。そして7つの峠があるといわれている木曽路は、女性にとって大変な道程と言わざるを得ない。江戸時代の1日に歩く距離は男性で10(40km)、女性で8(32km)と記されている。中山道は京都から日本橋に向かうときは、下諏訪から和田峠に登る方が急斜面で最大の難所になる。逆に碓氷峠は下りになるので、足場が悪いことを除けば、楽な道程だ。日本橋から京都に向かうときは、その反対で碓氷峠が最大の難関で、和田峠越えは頂上までは比較的緩やかな登坂で、下諏訪までが急な下り坂になるが、標高1600mに変わりはない。中山道は江戸時代の遺構や街並みが多く残っているといわれているので、その情景を思い描きながら歩こうと思う。大変だが、楽しい旅になるだろう。

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第31回日本国際工作機械見本市開催

2022年11月7日。8日から始まるJIMTOF(日本国際工作機械見本市)の前夜祭が、㈱共和工機殿主催でグランドプリンスホテル新高輪にて開催された。2020年は新型コロナで開催されず、WEBにより運営されたが、盛り上がりに欠けたと云われている。4年ぶりの開催とあって、主催の㈱共和工機殿も1年前から、準備をはじめていたと聞いている。

239号-11.jpgのサムネール画像のサムネール画像当日、講演会として、一般社団法人静岡経済研究所の馬瀬和人理事長の「日本経済の行方~扉(みらいを開くカギとは?~)」の演題で、2年に及ぶコロナ禍とともに、ロシアによるウクライナ侵攻や急激な円安が日本の企業や家計に大きなダメージを及ぼしている。脱炭素化など時代課題への対応は待ったなしの状況にあり、企業経営はまさに「グレートリセット」を迫られている。そうした中で、扉(みらい)を開くためには何が必要か、押さえておくべきキーワードを交えながら解説していただいた。

㈱共和工機殿の「感謝の夕べ」が地下1「飛天」で、メーカー・ユーザーの約650人が参加され華々しく開催した。冒頭、岩崎洋三社長が、日頃の感謝の気持ちを込めて、有意義な時間を過ごされると同時に明日開催のJIMTOF2022において、未来に向け世界を動かす最先端技術と素晴らしい出会いをつなぐ場として、新たな発見をしていただけたら幸いですと力強く挨拶された。

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ユーザー代表として㈱ヌカベの西田慶太郎社長は㈱共和工機殿が常にユーザーの立場に立ち、提案型の営業を心掛けていると感謝の気持ちを述べた。次にメーカー代表としてオークマ㈱の家城淳社長が日本工作機械工業会会長の稲葉善治氏を差し置いての挨拶はご容赦願いたいと前置きし、工作機械業界の現況と商社である㈱共和工機殿をたゆまぬ努力を称賛さ挨拶とした。懇親会が始まった。  

弊社と㈱共和工機殿との付き合いは大隈鉄工所の展示会で、NC旋盤LSNの購入を決めた時から始まった。それから四十数年が経過し、弊社工場の大部分は㈱共和工機殿を通じて工作機械を購入した。私もユーザー代表として舞台に上がり、挨拶したことを鮮明に記憶している。

私は前方中央の円テーブルに席を設けていただいた。このテーブルには岩崎社長、㈱ヌカベの西田社長、マルスン㈱の鈴木社長、㈱富士テクニカ宮津の長谷川社長、㈱木村鋳造所の木村社長、㈱岡本工作機械製作所の石井社長、そしてファナック㈱の稲葉会長の8名が同席した。和やかに情報交換をしながら、近況を交えて話が進んだ。隣のテーブル席にオークマ㈱の家城社長、THKの寺町社長がいた。私と寺町社長が話をする様子を見て、㈱共和工機の岩崎会長が我々の所に来て、私と寺町社長の取り合わせが不思議らしく、その関係性を聞かれたので、前述の話をしたところ、大変興味深く聞いておられた。久しぶりの対面の懇親会で旧知の人ともお会いして、その健在ぶりを喜び合った。㈱共和工機殿とホテル側の万全の感染対策に感謝しながら、締めの挨拶後、早々に部屋に引き上げた。翌日はJIMTOF2022の開幕だ。日頃取引のあるメーカーのブースに行き、情報交換を行った。4年ぶりの開幕で、初日の来場者は例年に比べて大分多いという。オークマ、ツガミ、東京精密と日頃お付き合いのあるブースを訪問した。見本市の成功は間違いないと思った。

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令和4年度・第59回茨城産業人クラブ定時総会・講演会

2022720日、ホテル・ザ・ウエストホテル水戸において「定時総会・講演会」が行われた。

開会は大井川和彦茨城県知事が来賓を代表してご挨拶をいただいた。製造業を中心とした産・学・官・金の産業人クラブの経営者に、さらなる県内経済界の発展と活性化に向けてご挨拶をいただいた。

 次に主催者挨拶として私が開会のあいさつを行った。挨拶は以下の通り。「茨城産業人クラブ会長の高橋でございます。平素は茨城産業人クラブに対し、多大なる協力を賜り、厚く御礼申し上げます。また、本日は第59回定時総会・講演会にご臨席を賜り、誠にありがとうございます。主催者を代表し、一言ご挨拶をさせていただきます。

 ワクチン接種の効果などから落ち着きを見せていた新型コロナウイルス感染症ですが、7月現在、急速に感染が拡大し「第7波」に入ったと言われています。岸田首相は14日の会見で「新たな行動制限は現時点では考えていない」と表明していますが、経済活動の回復に向けた取組みと感染拡大防止のバランスをより一層慎重に図ることが求められます。

 さて世界経済ですが、コロナ禍からの世界的な回復による需要増はあるものの、ウクライナ情勢の長期化などを背景に物価上昇が続いております。各国は金融引き締めを一段と強化しておりますが、米国の利上げに伴うドル高により、新興国からの資本流出が「既に発生している」との見方もあり、世界経済の先行きに不透明感が強まっております。

 また先日おこなわれたG20では、ロシアのウクライナ侵攻を巡る意見対立から(4月の)前回会合に続き、共同声明の採択が見送られました。

先進7カ国(G7)に中国、インドなどを加えた広範な枠組みでインフレや食料危機などの課題に対し対策を取ることが期待されましたが、政策面での成果がほとんど得られず、G20の機能不全が改めて浮き彫りとなったかっこうです。

 国内に目を向けますと、資源価格の上昇や上海のロックダウンなどを主因とするサプライチェーンの停滞が生産活動の足かせとなり、製造業で一段と深刻化しています。特に品不足は今や主要な電子部品だけでなく、汎用品にいたるまで調達難を引き起こしており、受注好調な企業も頭を悩ませておられるのでは と推察いたします。

参院選に大勝し「黄金の3年」を手中に収めた岸田政権ですが、新型コロナの再拡大に加え、物価高対策やエネルギーの安定供給など喫緊の課題が山積しております。変化が激しい経済情勢や国際環境を鑑み、民意は政治の安定を選択した形ですが、岸田政権には中長期の視点で経済・安全保障政策を進めていただくことが求められます。

また我々企業においては、DXやAI、IoTなど新たな技術を用いて、競争力の強化や、新たなビジネスモデルの創出に向けた動きを加速化させる必要があります。今まで以上に具体的なアクションをどう展開していくのかが大切になる1年ではないでしょうか。

 総会終了後の講演会では茨城県 警察本部の飯利雄彦(いいり・たかひこ)本部長に「技術情報の流出やサイバーアタック」をテーマにご講演いただきます。サイバーリスクに関しては小島プレス工業がマルウエア被害を受け、トヨタの14工場28ラインが止まったという事件がありました。ひとたびサイバー事故が発生すれば、企業の事業継続に甚大な被害や影響がありますので、茨城産業人クラブとしても積極的に取り組んで参りたい課題と考えております。 

それでは本日お集まりの皆様のご健勝と、茨城県経済のさらなる発展を祈念するとご挨拶にかえさせていただきます。」  

 その後、会則により会長が議長を選任され、第一号議案「令和3年度事業報告・収支決算の承認を求める件」、第二号議案「令和4年度事業計画・収支予算の承認を求める件」は賛成多数で承認された。第三号議案「役員の選任を求める件」では新熱工業㈱の大谷直子社長・フォージテックカワベ㈱の河辺真理子社長・㈱諸岡の諸岡正美社長三名が新理事に承認され、役員の退任、役員名の一部変更、役員の役職の一部変更の報告があり、すべての議事が終了した。

 次に茨城大学より、副学長・理工学研究科長の増澤徹氏から、「茨城大学博士課程の社会人進学制度のご紹介」と題して、我々経営者が世界に進出するにあたって、博士号を取得し、経営者がドクターの称号を持つことの重要性のお話をいただき、茨城県の活性化のため、茨城大学が協力出来るコースを設立したことの説明を受けた。

 続いて講演会が開催され、「技術流出をめぐる情勢とサイバー攻撃の実態」と題して、茨城県警察本部 本部長 飯利雄彦様より、経済安全保障政策とサイバー攻撃の具体的な事例をご講演いただいた。産業人クラブとしては警察本部からの講演は初めてのケースで、激動する世界情勢を視野に入れてのことである。

 懇親会は新型コロナ感染防止のため、「着席式」に変更した。冒頭、主催者挨拶で日刊工業新聞社の井水治博社長にご挨拶をいただき、予定通り終了した。

令和4年度・第59回茨城産業人クラブ定時総会・講演会

2022720日、ホテル・ザ・ウエストホテル水戸において「定時総会・ 講演会」が行われた。

開会は大井川和彦茨城県知事が来賓を代表してご挨拶をいただいた。製造業を中心とした産・学・官・金の産業人クラブの経営者に、さらなる県内経済界の発展と活性化に向けてご挨拶をいただいた。

 次に主催者挨拶として私が開会のあいさつを行った。挨拶は以下の通り。「茨城産業人クラブ会長の高橋でございます。平素は茨城産業人クラブに対し、多大なる協力を賜り、厚く御礼申し上げます。

また、本日は第59回定時総会・講演会にご臨席を賜り、誠にありがとうございます。主催者を代表し、一言ご挨拶をさせていただきます。

 ワクチン接種の効果などから落ち着きを見せていた新型コロナウイルス感染症ですが、7月現在、急速に感染が拡大し「第7波」に入ったと言われています。岸田首相は14日の会見で「新たな行動制限は現時点では考えていない」と表明していますが、経済活動の回復に向けた取組みと感染拡大防止のバランスをより一層慎重に図ることが求められます。

 さて世界経済ですが、コロナ禍からの世界的な回復による需要増はあるものの、ウクライナ情勢の長期化などを背景に物価上昇が続いております。各国は金融引き締めを一段と強化しておりますが、米国の利上げに伴うドル高により、新興国からの資本流出が「既に発生している」との見方もあり、世界経済の先行きに不透明感が強まっております。

 また先日おこなわれたG20では、ロシアのウクライナ侵攻を巡る意見対立から(4月の)前回会合に続き、共同声明の採択が見送られました。

先進7カ国(G7)に中国、インドなどを加えた広範な枠組みでインフレや食料危機などの課題に対し対策を取ることが期待されましたが、政策面での成果がほとんど得られず、G20の機能不全が改めて浮き彫りとなったかっこうです。

 国内に目を向けますと、資源価格の上昇や上海のロックダウンなどを主因とするサプライチェーンの停滞が生産活動の足かせとなり、製造業で一段と深刻化しています。特に品不足は今や主要な電子部品だけでなく、汎用品にいたるまで調達難を引き起こしており、受注好調な企業も頭を悩ませておられるのではと推察いたします。

参院選に大勝し「黄金の3年」を手中に収めた岸田政権ですが、新型コロナの再拡大に加え、物価高対策やエネルギーの安定供給など喫緊の課題が山積しております。変化が激しい経済情勢や国際環境を鑑み、民意は政治の安定を選択した形ですが、岸田政権には中長期の視点で経済・安全保障政策を進めていただくことが求められます。

また我々企業においては、DXやAI、IoTなど新たな技術を用いて、競争力の強化や、新たなビジネスモデルの創出に向けた動きを加速化させる必要があります。今まで以上に具体的なアクションをどう展開していくのかが大切になる1年ではないでしょうか。

 総会終了後の講演会では茨城県 警察本部の飯利雄彦(いいり・たかひこ)本部長に「技術情報の流出やサイバーアタック」をテーマにご講演いただきます。サイバーリスクに関しては小島プレス工業がマルウエア被害を受け、トヨタの14工場28ラインが止まったという事件がありました。ひとたびサイバー事故が発生すれば、企業の事業継続に甚大な被害や影響がありますので、茨城産業人クラブとしても積極的に取り組んで参りたい課題と考えております。 

それでは本日お集まりの皆様のご健勝と、茨城県経済のさらなる発展を祈念するとご挨拶にかえさせていただきます。」  

  その後、会則により会長が議長を選任され、第一号議案「令和3年度事業報告・収支決算の承認を求める件」、第二号議案「令和4年度事業計画・収支予算の承認を求める件」は賛成多数で承認された。第三号議案「役員の選任を求める件」では新熱工業㈱の大谷直子社長・フォージテックカワベ㈱の河辺真理子社長・㈱諸岡の諸岡正美社長三名が新理事に承認され、役員の退任、役員名の一部変更、役員の役職の一部変更の報告があり、すべての議事が終了した。

次に茨城大学より、副学長・理工学研究科長の増澤徹氏から、「茨城大学博士課程の社会人進学制度のご紹介」と題して、我々経営者が世界に進出するにあたって、博士号を取得し、経営者がドクターの称号を持つことの重要性のお話をいただき、茨城県の活性化のため、茨城大学が協力出来るコースを設立したことの説明を受けた。

続いて講演会が開催され、「技術流出をめぐる情勢とサイバー攻撃の実態」と題して、茨城県警察本部 本部長 飯利雄彦様より、経済安全保障政策とサイバー攻撃の具体的な事例をご講演いただいた。産業人クラブとしては警察本部からの講演は初めてのケースで、激動する世界情勢を視野に入れてのことである。

懇親会は新型コロナ感染防止のため、「着席式」に変更した。冒頭、主催者挨拶で日刊工業新聞社の井水治博社長にご挨拶をいただき、予定通り終了した。


令和4年度茨城県経営者協会総会

202269日、水戸プラザホテルにおいて、「令和4年茨城県経営者協会の定時総会・講演会」が行われた。

開会挨拶は寺門一義会長、来賓を代表して下角茨城労働局長が代表して祝辞を述べた。会則により寺門会長が議長の任につき、第一号議案から第四号議案まで承認可決された。今回の総会では役員の改選期にあたるので、理事は別室に移動して理事会を開催し第一号議案「会長・副会長、専務理事の選定について」、第二号議案「名誉会長、顧問、参与の委嘱について」承認され、寺門会長と小濱副会長の退任と新会長に笹嶋律夫氏(常陽銀行会長)、副会長には家次晃氏(日立埠頭社長) 、若松賢太郎氏(日本製鉄鹿島地区副所長)が就任した。理事会を開催している間、議場では新入会員の紹介が行われた。 理事会終了後、理事は議場に戻り、総会を再開し、新役員の発表を行った。笹島新会長から寺門会長、小濱副会長に感謝状の贈呈を行い、労をねぎらった。寺門会長退任挨拶、小濱副会長退任挨拶、笹島会長就任挨拶、家次、若松両副会長の就任挨拶が行われ、すべての議事が終了した。

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休憩後、記念講演ではテーマ「ビジネスモデルをチェンジ、時代とともに変化し成長へ~なくてはならない人となれ、なくてはならぬ企業であれ」と題して、アダストリア代表取締役会長 福田三千男氏に講演頂いた。アダストリアの成長の源は「変化」であり、成長戦略は「マルチブランドプラットフォームの進化」、「自社ESドットエスティ」、「海外事業」、「飲食事業」、「新規事業開発」と喝破しておられた。30分の名刺交換会を行ったのち、交流懇親会は密にしない配慮から、2部屋に分かれ着席式で行われた。私は副会長として乾杯の指名を受けたので、次のように挨拶した。

「只今、ご紹介をいただきました副会長の髙橋です。定期総会・講演会と長時間にわたり、ご参加いただきありがとうございました。おかげさまで、総会を無事終えることができましたこと お礼申し上げます。寺門会長にはコロナ禍の中、さまざまな課題解決のご指導をいただき、ありがとうございました。小濱副会長には18年の長きに渡りご指導いただき、感謝申し上げます。笹島会長・家次副会長・若松副会長 どうぞよろしくお願いいたします。そしてアダストリア代表取締役会長の福田様 ご講演ありがとうございました。」以上の口上を述べて乾杯した。その後、大井川知事が議会のため、遅れて参加した。経営者協会総会成立の祝辞をのべ、茨城県活性化のため、経営者の皆さんにはなお一層頑張って欲しい主旨の挨拶を行った。新型コロナで自粛していたため、久しぶりの懇親会となった。着席式なので、参加者が移動することなく和やかに、懇親会が行われた。

最後に、幡谷副会長の挨拶があり、令和4年度定時総会が無事終了した。

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