(4)技術マネジメント(日常レベル)
①人的資源
当社は急速に売上や従業員数が拡大していく中、人的資源の育成が業容の拡大に追いついていなかったというのが今までの状況である。そのため、内部の人材を育成するために外部の人材を活用するということを行ってきた。現在の工場長をはじめ幹部人材の枢要な箇所にはいろいろな企業で実績を上げた人材を中途採用で配し、現在もそれらの人材が中心となって人材の育成を図っているところである。ゲストエンジニア的なことにも着手し、開発への提案ができる人材の育成を始めているところである。
②設備・情報システム
既に述べたが、設備については当社の生産技術を担う大きな要素としてアイデアと設備を使いこなす知識に基づくノウハウを盛り込んだカスタマイズされた設備が使われている。
ただ、工作機械に任せ過ぎるとノウハウが漏れてしまうから、検収後に改造を加えている。
情報システムについては、現在、生産管理システムに関するプロジェクトが進行中である。生産管理システムは以前から存在していたが、そのシステムはうまく運用されていなかった。ここ4年ほどの間に将来にむけて当社の体質を改善しようとしている流れの中で生産管理も適切に行う必要があるためあらためて生産管理システムを運用するための活動を行っているのである。精度の高い情報を顧客から入手し、それに基づいて精度の高い生産計画を立て、製造現場はその精度の高い生産計画に基づいて粛々と生産を行うことを理想に専任の担当者を配置して活動を展開している。
③組織ルーチン
100億円企業を目指して、組織の改善・人材の活性化の活動が活発に行われている。
当社の体質を改善するための様々な取り組みが組織の様々な階層において展開されている。製造現場レベルでは提案活動と5S活動が行われている。
提案活動は推進事務局をおき、評価と褒賞を明確にして活動を展開している。事務局と褒賞の設定により現在は年間3000件ほど提案が出されるなど活発な活動が行われている。
製造現場レベルでの活動の二つ目は5SとTPMに関するサークル活動である。会社内に6ブロック、24チームを設定し、ブロック単位での代表、代表による発表会を3か月単位で実施している。
ユニークな制度としては「品質ポイント制度」がある。前工程から流れてきた部品に不良が混入していることを発見するとポイントが与えられる制度である。これらの取り組みがあり顧客からのクレームも減少している、とのことである。
中間管理者の活性化のためにはコンサルタントの導入による教育を実施した。それぞれに会社の理想像を描かせ、その理想像を実現するためになすべきことを考えさせ、それを題材に議論を行わせた。その結果、今までは自分の担当部署にしか目を向けなかったのが他の部署での動向に積極的に関与するようになるなど確実に成果が現れている。
『南フランスプロバンス地方』
(3)技術戦略(長期の視点)
当社の技術戦略は技術の変遷を見ても分かるように単加工から複数の工程へ、複数の工程から部品の一貫生産へ、部品の一貫生産からAssy品へと技術の範囲を広げることにある。工程や部品の集積度を高めてゆくことによって一括して請け負う能力を身に付け、他との差別化を図っている。単に取り組む仕事の範囲を広げるだけならば同じことを他の企業もできるが、この技術範囲の拡大の裏には確かな生産技術やノウハウの蓄積がある。
技術の範囲の拡大によって業績を伸ばしてきた当社であるが、現在もさらに進んでいる。すなわち、今後は今まで以上に生産プロセスへの関与の度合いを高めようとしているのである。具体的には設計能力を身に付けようとしている。設計能力を身に付けることによってOEM生産をより円滑に立ち上げる、自社で生産しやすいように客先からの図面を自社向けにアレンジするようなことができ、さらに、客先における開発段階から関与することにより、より受注しやすくする可能性が高まるからである。この動きは単に構想としての動きではなくすでに具体的な活動として行われている。
経営者、100億円企業を目標にしている。そのために何が必要か、現場管理の改善しかり、人事管理の充実しかり、原価管理を含めた財務管理の精緻化も当然必要であり、これらの面について、外部からの出向人材や公的支援期間のアドバイザーなどを活用して、将来の飛躍に向けた土台固めをしっかりと行っているところである。
『南 フランスプロバンス地方』
(2)バブル崩壊以後(1990年代以後)、大きな技術変化
上記のように当社は数次の技術変化を経ているがバブル崩壊以後における大きな技術変化はAssy(組み立て)品への進出である。組み立て工程への進出により油圧機器における技術範囲が拡大され、経営基盤もより安定したものになった。技術変化の変遷を見ても分かるように組み立て工程への進出は経営を安定させようとする中での取り組みなので当社が手がけてきた従来技術、従来製品とは連続性を持っており、その意味においてスプールの一貫生産というコア技術とは関係は深い。ただし、組み立てということで工程は複雑になり部品の集積度も高まっているため、新たに導入された技術の割合は高くなっている。
Assy品は大きく分けてバルブAssyとポンプAssyの2種類ある。バルブAssyは既に述べたようにスプールの一貫生産はできるようになったものの競合の出現や値引きの可能性など利益としては安定したものではないので、自社製の部品以外の部品とも組み合わせ性能試験まで行うAssy品に進出した経緯がある。ポンプAssyはバルブAssyとは異なり客先から持ちかけがあり、それに対応して取り組むようになった技術である。ポンプAssyは油圧システムの心臓部にあたる非常に重要度の高い部品でバルブAssyよりも部品の集積度は高い。この技術を確立するのに5年の期間を要し、本格的に稼働したのは2002年である。当初は赤字だったが現在では当社の売上のおよそ30%を占めるようになっている。また、バルブAssyは当社の売上の20%を占めている。このアッセンブリ化の対応の過程の中で、熱処理や試験や塗装の工程の技術範囲も拡大した。
『TPM改善活動発表会 広瀬工場長講評』
今回のブログは7月10日のブログに掲載したが、見にくいので修正して再度載せることにしました。この報告書は経済産業省が中小企業の事例研究で弊社を「技術の範囲拡大型:生き残るために単加工から一貫生産、提案型企業へ」と題して報告した内容であるが、リーマンショック以前の調査研究のレポートである。㈱協立製作所を客観的に調査していただき、我々自身で気がつかないことが多数あった。この報告書は我社の強み・弱みを分析する上で大変役に立つと思う。
(1)創業以来の大きな技術変化
当社は工具の研削、刃付けを出発点とした企業である。当時、切削工具類は高速度鋼が中心であったが、そのうち超硬やセラミックに変わってゆく可能性も考えられ将来性がないと不安を感じていた。そのような時に紹介者を通じて油圧機器メーカーから部品の加工を持ちかけられた。これが当社の油圧機器との付き合いの始まりであり、当社の技術の原点である。当社は工具の研磨の技術を活かして研磨の単加工を請け負うようになっていたが、オイルショックの影響で受注が減少してきたため、茨城工場の機械加工と東京の本社工場の研磨加工とを組み合わせて一貫加工のできる企業として油圧機器メーカーに売り込みをかけた。このような形で営業を行っているうちに工作機械メーカーの紹介など幸運も重なっていくつもの油圧機器メーカー、建設機械メーカーとの取引を行うようになった。
この当時にあった大きな技術変化はNC旋盤の導入である。それまではフライス盤や旋盤などはすべて手動で操作するもので一人前になるのに10年もかかっていた。人を集めることが容易であると予測して建設した茨城工場であったが、実際には人の出入りが激しくなかなか技能者が育たない状況であった。この頃になるとNC旋盤の価格も中小企業の手に届く程度まで下がってきていたので、NC旋盤を購入し現社長が生産技術担当となってNC旋盤に関する生産技術を確立したところ大いに効果があった。
次の技術変化はスプールに関する一貫生産技術の完成度の向上である。機械加工と研磨加工の組み合わせによるスプールの一貫生産で油圧機器業界内での地位は確立されていたが、必ず競合の出現、値下げの要求があることを見越して自社のアイデア、生産技術を盛り込んだ工作機械を工作機械メーカーに改造させることにより他に追随できないワンチャックで機械加工ができる一貫生産技術を確立した。さらに斜め穴を開ける機構も工作機械に盛り込み技術の独自性を高め、これらを武器に油圧機器メーカーに提案営業を行うことができるようになり自社の技術力が高まり、油圧機器業界内で「研磨の協立」から「スプールの協立」へとブランド力を高めることに成功した。
このように当社は創業期をのぞき一貫して油圧機器、特にスプールを手がけているが、節目ごとに数次に亘り技術を変化させることによってスプールを中心とした油圧機器におけるオンリーワンの地位を確立してきている。
『TPM改善活動発表会 社長所感』
■モノづくりDNA
「車が故障したら自分で直そうとしますか?」ほとんどの人の答えはNOだろう。モ
ノによっては修理するより新品を買った方が安いし、時間もかからない。しかし修理することは、そのモノの原理原則が理解できる。そして改善するために油まみれの手で試行錯誤しなければならない。それがモノづくりのDNAになるというのだ。「自分の会社の出来る範囲で出来ることをゆっくりとやっていく。うちは大量生産の会社ではない」ときっぱりと言い切る。同社が得意とする油圧部品やバルブ部品などの精密機械にはそんな匠の遺伝子が組み込まれている。
工場内部の様子
■悩みのタネは人材育成
「現地工場での人材育成は考えたことはない」あくまでも作業者。教えたところで未熟な知識と技術ですぐに別の会社に転職していく。精度が命の工作機の取り扱いは非常に複雑。一朝一夕には使いこなせない。「学卒が生産現場に入る日本が特殊。中国ではエリート扱い」と言う通り、優秀な人材を第一線の生産現場で確保することは難しい。更には、文革の影響で技術的知識を持った中間管理職クラスの年代が少ない上、若い世代には甘やかされて育った一人っ子が多いという中国独特の問題もある。
製品の精密部品群 |
■上海の利点と戦略
世界有数の国際都市である上海ならではの利点がある。
「上海には世界中のメーカーがやってくる。これは日本よりすごい!」 資金や人材面で厳しい中小企業にとってこのメリットは大きい。つまり、自ら世界各地を営業しなくても、上海で製品が評価されれば、口コミで評判が広がり、ユーザーの方からやってくるのだ。
さらに現地の営業戦略として「日本への売上げを30%確保すれば後はどこに売ってもいい」と現地の責任者に裁量権を与えた。進出当時の会社設立主旨からすれば、親会社の利益を優先するとの考えもあるが、あくまでも独立した一つの会社として世界を相手にする。
「すでに世界的には日本の親会社より上海の方が有名では」と話していた。ちなみに日本の親会社の油圧ショベル用コントロールバルブのスプール(油の方向を制御する部品)は世界シェアの約45%にまでなっている。
■プライベート
早くに上海に進出したため、進出を検討している大企業の役員をアテンドする機会に恵まれた。そして、関東理工系大学のテニス大会で2年連続ベスト4の実力を駆使して、当時唯一の娯楽であったテニスで人脈を広げた。「ほんとに公私にわたり色々なことで救われた」と振り返る。お陰で、出張の度にラケットを持っていくことに奥様が不審を抱き、上海まで連れてきて説明したという笑い話も。
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小唄を楽しむ高橋社長 |
高橋さんの一番の願いは「若手が自立してもっと会社を発展させる」こと。
同社の生産技術部に在席し、イギリスへの短期留学の経験もある御子息は、先日、上海の大学留学を終えて日本に帰国。今は同社の最前線で活躍している。
「会社を任せる後継者を作り、その後は旅行好きな奥様とヨーロッパでも」と近い将来の夢を語る。
意外な一面としては、三味線の伴奏で唄う小唄の松風流の名取。「松風裕日出」として休日は小唄を楽しむ。
■メッセージ 個人レベルでは「海外では自分の身は自分で守る」ということ。ロンドンのテロ事件の前日までイギリスに滞在していた。テロについてイギリス人の友人に「(一大事だが)イラク戦争の当事国である意識が国民にはあり、日本のようにセンセーショナルに報道していない」と言われ、危機管理の感覚の違いを感じたという。 会社レベルでは「自分達(会社)がなんのために中国に進出して仕事をするのか、目的をハッキリとさせること」基本中の基本である。中国ブームに乗って何となく進出、では成功しない。成功の陰には多くの企業が失敗している事実があることを見逃してはいけない。
2005年8月茨城県上海事務所において上海で活躍する日本の社長と題してインタビューを受けた。仕事以外の個人的なことも掲載したいと申し入れがあり、趣味をはじめ多角的に人間「高橋日出男」を表現したいと言われ、緊張して8月の熱い夏の日に上海虹橋地区にある上海国際貿易中心ビルの事務所で約3時間にわたって副所長からインタビューを受けた。以下茨城県広報誌に掲載された記事を高橋論に思い出のインタビューとして載せることにした。
上海の社長さんに,かく聞きました
第4回 株式会社協立製作所 代表取締役社長 高橋日出男さん
(上海協立機械部件有限公司 菫事長)
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中国における外資系企業の登録ナンバーは69番目。
平成3年に油圧機器の部品を生産する上海協立機械部件有限公司を立ち上げ、世界的にみても早々に中国進出を果たした。15年近く経過した今でも、毎月1回以上は上海を訪れて、自分の足で情報をとり、自分の目で状況を確認し、自分の言葉で指示をする。
「上海と日本を一番多く往復している茨城県人の1人じゃないの?(笑)」と世界を飛び回る多忙さを笑い飛ばすパワーの持ち主、高橋社長をご紹介します。
高橋日出男社長
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■中国進出は早すぎた!?
「覚悟はしていたが、早すぎた!?」と笑いながら進出した当時を振り返る。「当然、工場が必要とするインフラ整備も不十分。また、空港にはタクシーなんて待っていないし、機関銃を持った人民解放軍が警備していた。食事をするにもオーダーは取りに来ないし、釣り銭は投げて返されるし・・・」ハード、ソフトの両面において外国人にはストレスの溜まる状況だった。
現在の国際都市の風格からは想像もつかないが、事実、それがつい先日までの上海の姿。しかし高橋さんは、将来上海が必ず発展すると確信していた。
上海協立機械部件有限公司
■なぜ中国なのか
(株)協立製作所は先代の社長である父と叔父が、昭和29年に研磨を生業とする会社として東京に設立。両親の苦労を解消させてあげたかった高橋さんは、大学を卒業して家業を継ぐ際に地方への事業展開を提案し、両親の故郷である茨城県に工場建設を決める。工場建設後も順調に事業は拡大。労働力不足を解消するためにスポーツ紙に求人広告を掲載し、応募してきた1人の中国人を通じて、入れ替わり立ち替わり50人の中国人を雇うことになる。
「日本人より仕事の覚えが早く作業態度もまじめ」というのが高橋さんの中国人の印象。そうした中で大前研一氏の講演を聞いて海外進出の関心が高まり、中国をはじめ台湾、マレーシア、シンガポールなどを視察。そして、まだ日系企業の進出していない中国にチャンスを感じた。直接のきっかけは「茨城工場の増築、開発認可より、上海の方が早かったから(笑)」だという。
11月25日、茨城経営者協会県西地区工場見学会が12社25名の出席を得て開催された。昨年までは県外の先進企業を見学していたが、今年は県西地区の会員会社を見学することになり、環境をキーワードにした見学会を行うことに決まった。そこで既に事務局の生井さんがエコドライブの教育を受け、約30%の燃費改善が得られたとの報告が有ったので、「エコドライブの研修」が提案され茨城県西自動車学校での見学・研修が幹事会で了承された。
1800年の産業革命以前では温室効果ガスは280ppmであったのが、2000年には379ppmに増加し、現在も増加し続けている。一番CO2排出が多いのは産業部門約30%、一般家庭部門が約30%である。車が排出するCO2は日本全体の20%で、自家用自動車が排出する割合はその半分10%とのことです。このような背景のレクチャーを受け、一周1.3kmの教習所のコースで一人ひとり車に乗って実験した。
県西自動車学校の菅原常務が助手席に座り、後部には弊社の飯塚総務部長が座った。車は2000ccのノークラ車。最初にいつも通りに運転してくださいと云われ、加速・減速・一時停止・進路変更を行った。結果は走行時間191秒・燃料消費量 8.0km/L・CO2排出量373.8gとなった。
次にエコドライブの研修を受け、同じコースを走行したところ走行時間は195秒・燃料消費量12.0 km/L・CO2排出量249.2gであった。改善率50%と信じられない数字になった。普段意識しないで運転しているのと少しの知識を意識して運転するのではこんなにも燃費が違うのか驚いた。
エコドライブの要領は①普通の発進より少し緩やかに発進する(最初の5秒で時速20kmが目安) ②加減速の少ない運転で車間距離に余裕を持つ ③エンジンブレーキを使うと燃料の供給が停止されるので、停止位置が分かったら早めにアクセルから足を離すことを意識して運転する。飯塚部長は10.0 km/Lから研修後 14.0km/L。私とは改善後の燃費でも2.0km/Lの差があることが分かった。
私の年間走行距離約15,000kmに置き換えると燃費で78,125円の改善、CO2排出量1,437kg削減、CO2吸収に必要な木の本数302本から201本と101本の改善を果たすことになる。いつの間にか運転が荒くなって、加減速が多くなっていた。これからは意識して運転を変え、習慣になるまで続けよう。
ヨーロッパから帰国した翌13日、日立建機ときわ会機械技能競技会の表彰式に大会会長として出席した。競技会は9月12日(土)20名の選手により、全国各地の参加会社で行われた。
私はときわ会の機械技能競技委員会の委員長を務めている。委員会は競技会の課題・学科・ルールを議論し、決定していく。NC旋盤の大会のため、競技に使用する機械は選手の所属会社で行われるので、選手1名につき立会い者2名の手配も委員会の役割に入っている。
私は表彰式の冒頭に『今回の大会は百年に一度と云われる厳しい経済環境の中でしたが、皆様のご協力により実施することが出来ました。競技会の目的は会員各社の「ものつくり」の技術・技能のレベルの向上を図ると共に、「ものつくり」の伝承を継続的に行っていくことです。しかし競技会ですから入賞できた方とそうでないない方が出来ます。「うまくいかないことを楽しめた時、成果は最大となる」と言われますが、上位入賞者の方々は、うまくいかないことを明確にして、それを克服することを楽しめたからではないかと私は考えます。』と挨拶した。成績は総合1位が日立建機の大塚卓也選手、ときわ会の1位が大橋機産の佐々木一成選手でした。おめでとうございます。当社の選手は入賞できませんでした。残念。
総合1位 大塚卓也選手
日立建機選手と競技会役員
ときわ会1位 佐々木一成選手
入賞者と競技会役員
私は11月に技能者のレベル向上を目的に機械技能競技会に準じた教育プログラムを作り、勉強会を開始しました。6名の作業者を2班に分け、週一回2時間を学科・プログラム作成・NC旋盤作業に指導者を配置して、1年の計画で指導していくことにしました。1年後の成果を見て、評価し、改善を行い根付かせていきたいと思っている。
我々は過去に技術・技能の固有技術で発展してきた会社である。切削工具の刃付け研削から始まり、油圧機器精密部品の研削、前工程の機械加工、後工程の熱処理、そして組み立て、試験、塗装と長い年月をかけ、ようやくポンプとバルブのOEM商品を作れるようになって来た。しかし固有技術だけでは会社の運営がうまくいかず、数年前から組織的な管理技術に力を入れてきた。管理技術と固有技術は車の両輪と同じである。バランスが悪いとうまく会社の運営をコントロールすることが出来ない。固有技術の継続的な発展の一つとしてNC旋盤の技能者教育に力を入れて行きたい。
おはようございます。9月の月次決算が黒字になりました。単月度としては12ヶ月ぶりになります。全員一丸となって、世界同時不況に立ち向かった結果だと思います。改めてお礼申し上げます。お客様の在庫調整が終わり、需要数と生産数がほぼ同じになってきた結果、受注高は最盛期の半分まで回復してきました。まだ収益力は弱く正確な管理を行わないと、赤字に陥る可能性があります。中国の需要がダントツに回復してきました。インドは最盛期まであと一歩まで、インドネシアに回復の傾向が見られるようになりました。しかしアメリカの回復が弱く半年ほどずれ込んで、来年半ばと予想されます。ヨーロッパは来年後半、国内の回復は先がまだ見えません。従って受注が不安定のため、収益力の回復は弱く、不安定な状態が続くと思われますので、精度の高い管理を行い、収益力を確実なものにしなければなりません。
先月3週続けてマイナス在庫がゼロになりました。生産管理のコンピュータシステムで確実に仕事を行い効率の良い経営体質に変えていくため、つまり中小企業から中堅企業に経営の体質を変えるため、昨年の10月に生産管理改革プロジェクトを立ち上げ、一年掛かってマイナス在庫をゼロにすることが出来たことは、全員で目標に向かって一歩一歩前に進んでいけば、「必ず目標を達成することが出来る」と云うことを証明したわけです。
先週、技術・技能の伝承と技能レベル向上を目的に技能競技会のキックオフを行いました。6名の選手が登録され、来年の7月に社内競技会を行い上位2名がときわ会のNC旋盤技能競技大会に選手として出場します。上位入賞するに越したことはありませんが、目的ではありません。計画的に学科と実技の訓練を行うことで選手の成長を促し、技能の向上を継続的に行うことが目的です。中小企業から中堅企業に脱皮するためには、管理技術と固有技術の両輪が同じように力を発揮しないと会社はまっすぐに進むことが出来ません。
日本VE協会のVEリーダーの資格を取るために2名がエントリーされ、既に勉強に入っています。資格を取る勉強の過程で、物事の考え方が変わり仕事に生かされると思います。
最後に、24日に5S・TPM改善活動の発表会が行われます。前回の問題点を明確にして、発表されることを望みます。
大きな駅前広場に着いた頃は、辺りは明るくなっていた。大勢の通勤客や大きなバックをもった旅行者が駅構内を足早に行き来していた。駅の中を見物しているとアラブ系の中年女性に道を聞かれ、私も分からないと返事を返した。地元の人間に間違えてくれたことは、私が地元に溶け込むことを工夫をしていたからだと思う。
このミラノ駅は映画「アンタチャブル」(主演;ケビン・コスナー、ショーン・コスナー)のクライマックスシーンであるシカゴ駅階段での銃撃戦の撮影をした場所。ずいぶん前にこの映画を観たあと、10年ほど前だと思うが、トリノにあるお客様を訪問後、トリノ駅からミラノ駅まで急行列車で移動した。その時雑誌で当時のシカゴ駅の風情を残しているのはミラノ駅であるとの記事を思い出し、駅に到着したあと撮影した階段を見にいき、映画のシーンと重ね合わせて思い出していた。なにしろ私はこの映画が好きで3回も観ていた。
結局ホテルに帰るのに2時間もかかってしまった。次の日は再度ドゥーモ行きのコースを設定しなおし、道に迷いながらも45分で到着。帰りは迷わず走ってきたので30分でホテルに着いた。朝もっと明るければ、これほど迷わないのだが、まだ陽が上らないうちに走っている人は皆無で、6時ごろになるとジョギングしている人に数人会うようになった。
ミラノからの帰路。モナコに宿泊したとき、私はF1レース(モンテカルロ)のコースを走るため、ホテルでコースが載っている地図をもらい夜のうちに準備をした。朝5時日が昇っていない街は暗く、なかなか地図の通りに走ることが出来なかった。というのは私が想像していたより道路の幅があまりにも狭く、こんな道路でF1が走ることが出来ないと思った。そこで海岸沿いにスタート地点に行き、コースを確認しながら走っていた。だんだん明るくなって回りの景色が良く見えるようになると、間違いなくF1コースだった。
一周約2.3km。道幅は一般道路と同じ幅で、路面も同じ、モンテカルロホテル前のヘアピンカーブはすごかった。こんなカーブを100㎞超のスピードで突っ込んでくる。「すごい」の一言に尽きます。
10年の間にヨーロッパ出張の度に、宿泊先の街をジョギングしてきた。思い返すと最初に走ったウィーンでは迷子になって1時間の予定が2時間半。ドイツのハノーバーは空港脇のホテルで、何もない真っ暗な道を。プラハの街は街全体が世界遺産に登録されていてすばらしい景観。そのほかドュッセルドルフ・バース・バーミンガム・プリマス・アムステルダム・ストックホルムの街を走ってきた。街を車で行くより、その国の様子が分かる。私が走る5時頃清掃員が道の清掃やごみの収集をしている。ほとんどがその国の人ではない人達だ。国の経済格差が朝の清掃員の人達を見ると分かるような気がする。6時頃になると朝食の準備をするレストランの様子など、その国の食の情報を見ることが出来た。