東日本大震災から1年

東日本大震災から1年が経過し、3月11日(日)各地で追悼式が行われました。                     1年前の3月12日(土)、出勤出来た社員20数名と一緒に後片付けを行い、幹部と共に災害対策本部を立ち上げ、復旧の検討に入った。幸い人的被害は無かったので、外部の応援を得て、約10日で復旧が終了した。

対策本部で情報収集していた時、気象庁のデータを見つけた。地震のマグニチュードの大きさを時系列的に、大きさを目で見えるように表してあった。                             

 これを見ると3月8日以前は、小さな地震しか起きていないことが分かる。しかし3月9日、10日に異変が起きているのが分かる。そして、3月11日 東日本大震災が発生した。このデータが今後の地震予知に、どのように活かされて行くのだろうか?

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 4年間で87%の確率で、東海地震が発生するとの理由で、浜岡原発を停止させたが、三陸沖の 地震は確立0.00%であるのに、未曾有の地震が発生した。この事を私たちはどのように考えればよいのか。 

東京マラソン初出場(3)

ゴールした後、完走記念メダルを首にかけてもらい、東京マラソンのロゴが入ったバスタオルと飲み物・バナナを受け取った。私の荷物がある10トントラック71号車に向かった。7~8分でいける距離だが、足を引きずって倍以上の時間をかけて、荷物を取りに行った。

 

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138号ブログ写真③.jpg更衣室にようやくたどり着いたが、両足の股関節と両膝、そして足首甲の付け根が痛く、着替えるのも大変だった。ビックサイトの東館 5から西館に移動し、ゆりかもめの「国際展示場正門」駅で電車に乗った。駅までの道順は混雑するとの理由で、一方通行になったため、遠回りをすることになった。普段10分くらいで行けるのだが、足を引きずって、ゆっくり歩いたため40分以上かかってしまった。階段の上がり降りでは、取っ手につかまっていないと転んでしまう。腰を曲げてそろりそろり歩く姿は高齢者そのものだった。

 

新橋駅に到着し、JRに乗り換え、東京駅で新幹線に乗った。小山駅に駐車してある車を運転して、自宅に8時頃と到着した。風呂に入り体を十分に温めた。

すぐ寝室がある2階に這って上がっていった。明日の仕事に支障が出ないように、体を休め睡眠をとれば、回復すると願いながら9時に就寝した。

 

翌朝、6時に目覚めた。良質な睡眠が取れたせいか、関節の痛みも和らぎ、疲労もとれた。8時前に出社し、2階事務所を上がって行く時に、足の痛みを確認しながら行った。思ったより元に戻っていた。

 

翌火曜日、まだ走ることは出来ないが、ほとんど回復し、通常の行動に問題が無いほど体の痛みは取れていた。我ながら体の回復能力に感心すると同時に、両膝周りの筋力を強化して、30キロの壁を乗り 越え、歩かないでゴールすることを、次の目標にした。4月15()かすみがうらマラソン10マイル(16キロ)部にエントリーしているので、頑張ろう。

 

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東京マラソン初出場(2)

厩橋交差点をすぎたところで、応援に来ていた娘の姿を視界に捉えることが出来た。携帯電話で連絡を取っていたから出来ることである。もし携帯電話が無いことを考えると、大勢の応援の観衆の中から、娘の姿を見つけるのは困難だ。少しの間、並走し声をかけてくれたので、元気をもらったが、私の口からでた言葉は「膝が痛い」だけだった。気持ちに余裕が無くなってきた。

 

137号ブログ写真①.jpg30キロ手前で立ち止まり、ボランティアの人が持っていた冷却効果のあるスプレーを右膝に塗布し、屈伸を行い走り始めたが、すぐに立ち止まってしまった。どうしても30キロの壁を越えられない。あとは歩くしかないと決めて、ひたすら歩く。1月に医者に行ったとき右膝外側の痛みは、膝の筋肉の炎症が原因だと診断された。足や膝が痛くならないために、膝周りの筋肉や大きな筋肉の臀部を強化すると良いと、マラソン本に書いてあったので、2週間前から毎日実行したが、筋力トレーニングの時間が少なく間にあわず、痛みが出てしまった。

 

銀座四丁目交差点を左折し、大観衆の声援を受ける。右膝が痛みを通り越して力が入らないと、同時に両足首の筋肉痛に襲われた。足首の筋肉痛は、走っているときは出ないのだが、長く速く歩き続けると出てくる。使う筋肉が違うのだろうなどと思いながら、歩き続けた。この大観衆の前を走ってと通りすぎることが出来たら、どんなに気持ちがいいだろうと思いながら、足と膝の痛みに耐えて、腕を大きく振りながら歩き続けた。

 

工事中の歌舞伎座の前を通りすぎると35キロを超え、残り8キロである。35キロを超えると、不思議なことに足と膝の痛みが少し楽になってきたので、歩くスピードが早くなった。ラスト7キロはアップダウンのきついコースで、特に最も長い上り坂となる佃大橋がある。最後の橋となる東雲橋を渡って、東雲一丁目を右折すると都橋通りに入る。ゴールとなる東京ビックサイトが目の前に見える。もう少しもう少しと思いながら、ゴールのゲートをくぐった。満足感と達成感を味わいながら両手を挙げて。タイムは6時間15分01秒。

 

ゴールすると完走者にメダルが贈られ、気がついたら石原東京都知事がいた。完走したランナー達とハイタッチをしていた。私も思わずハイタッチを行い「ありがとう」といった。なぜあの時、「ありがとう」と云う言葉が出たのだろう。私がゴールするまで待っていてくれたと云う勝手な思いと、このようなマラソン大会を実施した知事に感謝したのだ。

 

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東京マラソン初出場(1)

月26()初めての冬の東京マラソンに不安を感じながら、新宿駅に朝7時15分に到着した。曇り気温5度、トップランナーには良い天気だが、私にとっては気温が低すぎる。1月の練習の時、気温が5℃~8℃の環境で20㎞走った。最初3㎞位で汗が出始めるが、10㎞ 過ぎた頃、だんだん寒くなってくる。練習後風呂に入り、体を温めても風邪を引いた症状が出てしまう。不安が襲う。

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 早めに荷物を預け、7時30分スタート地点に到着。足踏みをしながら、待っていたが、とにかく寒い。9時10分スタートが告げられたが、なかなか動かない。スタートゲートを通過するのに約20分以上かかったが、出だしは快調。最初は長い下り坂が続くので、飛ばし過ぎないように、体を温める程度にと言い聞かせながら走った。しかしスタートまで2時間近く待っていたため、寒く体が冷えてきたこともあって、尿意を感じてきた。やむを得ず4km地点の トイレに入った。長い行列が出来ていたが、先は長いと思い列に並んだ。スタートするまで15分掛かってしまったが、体調は良好。

 

km地点の飯田橋交差点を右折し、西神田を回ると、皇居が見えてきた。日比谷の交差点を右に曲がると、日比谷通りに入り、12キロ付近となる東京タワーや増上寺を通過し、折り返し地点の品川駅を南下していき、Uターンした。このままのペースを維持しようと言い聞かせながら、1キロ当たり6.5分のペースで走った。調子はいい。

 

しかし、17キロ付近で右膝外側に違和感を覚えてきた。2月に20キロの練習した時、 15キロ付近で右膝に違和感を覚えたので、練習を一時中断した経緯があった。膝の痛みの再発を心配しながら、少しペースを落とすことにした。銀座四丁目交差点を左折し、給水所で水とチョコレートパンでエネルギーを補給した。日本橋、水天宮、浅草へと足を進めていった。多くの応援の人がいて、元気をもらった。しかしこの頃になると右膝の痛みが激しくなってきたが、我慢できる範囲と言い聞かせながらの走りとなった。東京スカイツリーが見えてきた。

 

コースは28キロ地点で2回目の折り返しとなる浅草・雷門を通り抜けた。ものすごい大観衆である。大観衆の前を走っていくのは、気持ちが高揚して膝の痛みを忘れさせる程の効果があった。東京下町の名所では多くのイベントが開催されて、ランナー達を元気づけていた。

 

 

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シングルへの道(5) 

2011年の平均スコア88.5、2010年89.6、2009年88.2、と足踏み状態である。2010年よりは良くなっているが、2009年よりは悪くなっている。

 

シングルへの道(4)のブログでは、「原因を考えると練習量が少なかったことが一番だと思う。2009年は週一回の練習を行ったことが平均スコア88.2の結果が出たのだと思う。練習をしないと良い時と悪い時の差が大きすぎる。失敗すると自分のスイングに自身がなくなり、不安を持ったままスイングして失敗する。この繰り返しでスコアが伸びない。2009年は週一回の練習を欠かさなかったので、失敗しても自分のスイングに迷いはなかったことが、平均スコア88.2を達成できた要因だと思う。ゴルフは難しい。」と記した。

 

2011年は震災の復旧・復興で練習も出来なくなり、5~6月は震災の影響で納期遅れの挽回のため、忙しかった。7~9月は罰金を伴う節電で、サマータイムを導入し朝6時から出勤、エアコンは禁止、デマンドシステム監視装置の警報が鳴り出すと、現場の機械を順次止めていくルールを決めた。夜勤は従来から行っているので、節電にはならない。

 

ようやく9月からゴルフを行うことが出来た。この頃フォームがみだれてきた。練習場で自分のスイングをビデオで見ると、バックスイング時に右膝が流れてしまい、タメが作れなくなると同時にスイングの軌道がばらついてきた。自分がイメージしていたフォームとまるで違っていた。そこでレッスンプロに教えてもらうことにした。

 

私はゴルフの理論はまるで知らない。若いときに上手な人のフォームを真似していただけだった。はじめてプロに教わると自分のフォームがバラバラになってしまい、2~3年は安定しないと聞いていた。しかしこれ以上、我流ではシングルになれないと思い、月2回程度レッスンを受けることにした。

 

メンバーコースのハンディキャップは10である。9にするためには半年以内で3回アンダーを達成すれば良いと聞いた。1月4日の新年杯では81のスコアでアンダーを達成しているので、6月までに2回アンダーでプレーすれば良いことになる。

 

「強く思えば達成できる」と信じて頑張って行きたい。2012年再挑戦するゾ。

 

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リーマンショックから3年過ぎて(2)

ヵ月後、雇用調整助成金の申請を行い09年1月から3勤4休の勤務体制を敷き、9月まで継続した。月曜日は幹部のみ出勤し会議を行い、金曜日は完全に休んだ。我社の弱みである生産管理システムを強化するため、08年11月から09年2月の4ヶ月間工場長をチームリーダーに各部署から人員を引き抜き5名のプロジェクトチームを作って改善を進めた。

 

私の事業再構築の骨子は、受注は80%減、売上高は20%しかないが、世界の需要は50%減である。お客様の在庫調整が終われば、最低でも売上高は50%まで回復する。我社の経営を50%でも継続できる体質にすれば生き残ることが出来ると思った。

 

この間、取引先の金融機関に融資のお願いをするため、出来るだけの資料を用意してコミュニケーションを欠かさなかった。私は社長になった18年前から月に1回、各金融機関の支店に出向いてコミュニケーションを図ってきたが、リーマンショック後は金融機関に今回の米国発の不況は従来と異なると説明し、従来通りの融資を統制するため、3カ年計画を作成し背景を説明した。結果として4行が計画通り融資が実行され、1行が6ヶ月遅れて実行された。

 

金融庁のガイドラインで中小企業の格付け審査をするときに、劣後債は資本勘定で良いとの通達が出たので、2009年9月に日本政策金融公庫より劣後債を入れ、資本の増強に努めた。茨城県では協立製作所が第一号だった。劣後債を入れるときの審査は大変厳しかった。最初に事務方同士で徹底的に帳簿のチェックを行い、最後は私と後継者へのインタビューであった。約3時間、我社が何度か事業の業態を変えて行った時の考え方を多く聞かれた。大変熱心で創業のときから私が社長になってどのように事業に取り組んでいったか質問に対して丁寧に答えた。私の後に息子である後継者へのインタビューが始まった。事前のアドバイスは一切していなかった。

 

2009年9月頃予想通りお客様の在庫調整が終了し、受注が戻ってきた。2010年は急速に受注が回復したので、4月から約半年で130人増員し生産に対応していった。2011年 1月決算時の売上高は2007年度過去最高に迫る回復をした。まさにジェットコースターに乗っているような経営である。2011年2月新しい期を迎えてリーマンショックで痛んだ財務を回復させようとした時に、3月11日14時46分あの大震災が起こった。

 

リーマンショックから3年過ぎて(1)

リーマンショックから3年が過ぎた。今この3年間を改めて振り返ると苦しかったことがはるか昔のような気がするから不思議なものである。

 

2008年9月15日米国のリーマンブラザーズが倒産したことから大きな津波に襲われたような錯覚に陥った。私が幸運だったのは心の持ち方に準備期間があったように思う。過去に数度の不況に襲われたが、その度に順応しながら生き抜いてきた。かねてよりどんな苦境に陥っても健康で気力が充実し、幾多の体験と経験を積んできたことを考えると常に最悪の事態になっても逃げずに立ち向かえると思っていた。

 

米国のサブプライムローンの問題を知ったのは2005年12月頃だった。新聞にこの問題を取り上げ始めたのが2007年6月頃だったと思う。注意深く関心を持って見守っていた。そんな時2008年8月中国にある上海協立の総経理から8月の受注が半減したと報告があった。北京オリンピックの影響で8月は電力制限があり、例年より暑いので現場の作業者が体力を消耗するため、生産性が著しく低下してしまうので受注が減ってちょうど良いくらいにしか考えなかった。

 

しかし上海協立の受注は9月に入って回復するどころか低下した。おかしいと思って調査していくうちにリーマンショックが起こってしまった。日本の協立はこの時過去最高の受注で、 残業・土日出勤の連続だった。私は大きな恐怖感に襲われた。我社は数年の間に企業規模を 3倍規模に拡大し、大きな設備投資の連続だった。従って損益分岐点売上高が危険水域に近づいていたためだ。

 

恐怖感は資金繰りに行き詰まり倒産することが現実味を帯びてきたからだ。私は情報を収集し、一つの結論を出した。未曾有の不況が来る。私は知りえる限りの対策の骨子を幹部に提案した。10月の第1週の日だった。最初に役員報酬の60%削減、現場の3班2直4勤2休 体制を廃止し、1直体制に、社員の残業ゼロ、派遣社員130人の契約満了時継続不可、聖域を設けず経費のカット、消耗工具の棚卸による経費削減等々の計画を示した。

 

茨城県ホームページ

茨城県のホームページに支援事業として当社が紹介された。受賞理由が記されているので、ホームページの内容を紹介したい。

 

いばらき産業大賞表彰式開催
茨城県では,本県産業の発展を支え,地域経済の活性化に貢献している企業等を表彰するいばらき産業大賞の表彰式を県庁において実施しました。
式において,上月副知事から受賞者の皆様に表彰状と記念品が授与されました。
 (受賞者)
  大 賞:㈱協立製作所
  奨励賞:㈱三友製作所,
      NPO法人くらし協同館なかよし

132号ブログ写真①-1.jpg     後列左から宮田審査委員長、横山商工労働部長、守谷産業政策課長、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

     前列左から塚越様(くらし協同館なかよし)、高橋(協立製作所)、

     上月副知事、加藤木様(三友製作所)

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いばらき産業大賞受賞

7月7日茨城県県庁5階にある上月副知事応接室において、いばらき産業大賞の表彰式が行われ、私と総務部長が協立製作所を代表して出席した。受賞企業は大賞が㈱協立製作所、奨励賞が㈱三友製作所とNPO法人くらし協同館なかよしの三社である。

 

いばらき産業大賞の趣旨は本県産業の発展を支え、地域経済の活性化に対する貢献が顕著であると認められる県内の企業及び団体を顕彰することにより、受賞した企業・団体の更なる発展を支援すると共に、県内の企業・団体の活動意欲を高め、地域の核となる企業・団体として育成することを通じて、「産業大県づくり」を推進するとある。2回の予備審査を経て、いばらき産業大賞委員会(委員長:宮田武雄県立産業技術短期大学校学校長(前茨城大学学校長))の 審査により決定した。

 

当社の選定理由は「創業以来積み上げてきた精密技術を基に、建設機械などに使用される油圧機器及部品の一貫生産を行っている。原材料の切削、熱処理からミクロン単位の精度が要求される研削、組立、塗装、性能検査までを自社で実施している。また、国内工場で高精度の部品を生産するほか、上海で自社生産したユニット部品の一部を逆輸入することで、精度、コストの両面で競争力の高い製品を国内外に供給している。特にスプールのシェアーは、パワーショベル用機器の世界約4割に達している。県内においても大手建設機械メーカーへ部品納入している」とある。

 

私が大学三年のとき創業者の父に対して後を継ぐ条件として地方に工場を作れば、協立に入社すると言って、卒業後他社で2年間の修行をえて、東京から茨城工場に来たのが24歳のときだった。あれから37年自分の持てる力を100%出し続け、挑戦し続けた結果だと思う。これからも挑戦し続けたい。挑戦する意欲が無くなったときが引退の時期と定めて。

 

 

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 中央左が私、中央右が上月副知事、右端が㈱三友製作所の加藤木社長、左端がNPO法人くらし共同館仲良しの塚越代表。 

節電について考える(3)

すぐ東電に確認したが、罰金については自分たちの範疇ではないので経産省に問い合わせしてほしいとのこと、経産省関東局に問い合わせたところ故意でなければとの 繰り返しで、当社としても故意に節電に協力しないということは無いが、昨年7月をベンチマークにすると仕事量が大幅に増えている現況では実質30%以上の節電になり遵守出来ない可能性が大きい。結果として冷房を犠牲にすることになり従業員に暑さの中での仕事を強いてしまい大きな負担になるといったが、個別に対応出来ないとのこと。当社は精密部品を作っているのでミクロン単位の精度が要求されている現場ではエアコンで一定の温度に室温を保っているが、他の製造現場は外気温が30度になると工場内は40度近くになる作業環境になってしまい、設備の故障率も上昇し生産が低下する可能性がある。

 

私がこのように発言すると協立の社長は自分のことしか考えていないとんでもない人だ、「東北3県の被害が分からないのか」「自分たちも自粛しないと」「皆で我慢しないと」と言う人がいる。しかし私は云いたい。メディアの茨城県に対する取り上げる頻度が少ないからと言って知らないだけでしょう。私たち茨城県にある会社も被災しているのですよ。幸い人的被害は無く一部工場の損傷ですんだが、生活の糧である300台超の生産設備が地震の影響で横ズレしたため、元に戻さないと生産できない。全社員一丸となり又各方面から延べ人数240人の方々の応援を得て、約10日で復旧した。必死だった。

 

そして日本ブランドの基幹部品を作っている我々が一刻も早く部品を供給しなければ、お客様に迷惑をかけてしまう。台頭している新興国に仕事が移ってしまう可能性もある。結果として雇用も守れないし、競争力のある製造業の衰退につながってしまうという強い懸念を持っているからだ。このような考え方で懸命に復旧作業を行った中小・中堅企業は多いと思う。もちろん他の業種にしても自社のためと言うより日本の衰退を心配して懸命に復旧・復興に尽力されている企業・個人が大勢いると思う。

 

なぜ浜岡原発を唐突に停止要請したのか、いくら停止する理由を読んでも合理性は見出せない。日本の国難と云うからには復旧・復興を第一優先にする。そうであるならば電気の供給は復旧・復興には欠かせない要因である。日本ブランドの基幹部品の生産が復旧し、経済活動が回復してから停止要請をしても良いのではないか。せめて涼しくなる10月からの停止に出来なかったのか。懸命に復旧・復興に努力している企業にこれ以上の苦しみを強いないでほしい。

 

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