中山道六十九次旅日記(15)


12日目(4月20日)水曜日

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朝、4時に起床。天気予報は晴れ、降水確率は少ない。昨日寝ながら考えて、大垣から赤坂宿に向い、旧中山道に入ることにした。赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿、今須宿、柏原宿、醒井宿、番場宿、鳥居本宿の行程だ。鳥居本宿では宿泊施設が見つからないので、約2.5㎞離れた東海道新幹線「彦根駅」近くのコンフォート彦根に泊まることにした。約40㎞の道のりだ。この彦根で友人の松本さんと合流し、翌日、守山宿までの約40㎞を一緒に歩く計画だ。7時に出発し、大垣から赤坂宿まで5㎞、18号線を進んでいき、21号線を突っ切り417号線にでて、養老鉄道を越え、赤坂宿本陣跡に着いたのは、8時頃だった。

赤坂宿は、かつて中山道六十九次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の

254-2.jpg宿場町として繁盛していた。現在もその古い建造物や数多くの史跡が残っており、谷汲街道・養老街道が通って、その道標が分岐点である四ツ辻にある。赤坂本陣公園(本陣跡)は敷地約800坪、建坪239坪、岐阜県では中津川に次いで2番目に大きい本陣だという。皇女和宮も宿泊したが、現在は建物もなく、公園として整備されている。公園内には幕末の青年志士、所郁太郎の功績を顕彰した銅像や皇女和宮を偲ぶ顕彰碑がある254-3.jpg銅像の所郁太郎を見て昔読んだ本の中で、名前があったのを思い出した。この赤坂宿で生まれ、幕末、  医師でありながら長州藩の尊王思想の大義を唱え、高杉晋作らと供に遊撃隊の軍監を務めた。将来を嘱望されたが、若くして27歳で病没した人物だ。歩いて旅をしていると名所旧跡で昔の記憶がよみがえることが度々ある。街道風情が漂う町を通り過ぎると、大名等が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所である御使者場跡碑があった。その少し先に白髭神社を過ぎた直後に、思いもよらない標柱が目にはいった。254-4.jpg

それは「照手姫の水汲み井戸」だ.

なぜかというと私の住まいである筑西市(旧協和町)では毎年12月に小栗判官祭のパレードが行われ、小栗判官には芸能人が馬に乗り、照手姫はミス協和が、そして地元の有志が槍や刀を持っての武者行列だ。旧協和町に引っ越してきた48年前、小栗判官の物語を知らなかったので、興味を示さず一度も見に行ったことがなかった。突然、照手姫の名前が目にはいったので驚いた。その標柱には「昔、武蔵・相模の郡代横山将監に女の子が生まれ、照手姫(てるてひめ)と名付けられ成長し、目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になった。その話を聞いた常陸の国(茨城県) の国司小栗判官正清は、使者も立てず強引に婿入りしてしまった。


254-5.jpgのサムネール画像そのため、父親の将監が大変怒り、小栗判官に毒の入った酒を飲ませ殺してしまいました。照手姫は深く悲しみ、あてのない旅に出て、あちこちさまよい青墓の長者「よろづ屋」に買われることになった。長者は、その美貌で客を取らせようとしたが、照手姫は拒み通した。怒った長者は「一度に百頭の馬にかいばをやれ」、「籠で水を汲め」、「十六人分の炊事を毎日一人でやれ」などと、無理な仕事を言いつけた。照手姫は、毎日毎日、泣き泣き仕事を続け
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たが、日頃信仰していた千住観音菩薩の助けで、普通の人間には出来そうにないことを成し遂げることが出来た。一方、毒手に倒れた小栗判官正清は、熊野の湯につかって蘇り、二条大納言兼家の許しを得て都に戻り、朝廷から美濃国を治める役人に任命された。その後、照手姫が青墓にいることを知り、妻として迎え、二人は末永く幸せに暮らしたということです。」と記されてあった。この井戸は籠で水を汲んだと伝えられている。お墓は100m先の園願寺(お寺は消失)境内にあるとのこと。この小栗判官と照手姫の悲恋物語は歌舞伎の演目にもあるとのことだ。昔協和町に居を構えてから地元の歴史を知らなかったことを恥じるばかりだ。確かに旧協和町の小栗に、小栗城跡がある。この城主がモデルともいわれている。
254-7.jpg「小篠竹(こしのだけ)の塚」の標柱に「青墓(あおはか)に昔照手姫という遊女ありこの墓なりぞ 照手姫は東海道藤沢にも出せり その頃両人ありし候や詳ならず」(木曽路名所図絵より)、また和歌が詠まれてあった。「一夜見し 人の情けにたちかえる 心に残る 青墓の里」慈円(天台宗座主、愚管理抄の作者)お墓の前で手を合わせた。大分時間を取ってしまった。先を急ぐ。野一里塚跡の常夜灯をあとに、垂井宿に入った。
垂井宿は美濃路の追分を控えた交通の要衝として栄え、芭蕉の足跡が感じられる宿場町だ。垂井駅がすぐ近くだ。顧客の垂井工場がすぐ近くにある。いつも垂井の駅からタクシーで行くので、景色がまるで違う。宿場の中ほどには南宮大社大鳥居道路を跨でいる。鳥居を少し南に入ると、地名の起こり
254-8.jpgとされる垂井の泉が湧いているという。街道に戻り進むと右に本龍寺がある。当時の住職は芭蕉と親交が深く、裏手に芭蕉句碑が立つという。
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垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っており、旅人にとっては人夫や馬を借りるのに、里程を知り、駄賃を定める目安となっていたという。またこの地は関ヶ原の戦いで浅野幸長の陣地で、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略した。本戦ではこの辺りに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。さらに進み関ヶ原町に入った。
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関ヶ原宿は宿場町としてよりも関ケ原合戦の地としての知名度が勝っている。北国脇往還と伊勢街道の分岐点にあたり西に今須峠を控えていたため、多くの旅人で賑わったが、繁栄ぶりをしのぶ史跡はない。足を進めていくと、旧中山道松並木があった。

美濃路ではここしか残っていない貴重な松並木だという。次に目にはいったのは徳川家康最初の

254-11.jpg陣地だ。ここから西軍の陣地が一望できる。左側奥の山から西軍の宇喜田秀家、写真の中央辺りが                                               開戦地、その左が南天満山、右に北天満山、その手前に小西行長、右隣に島津義弘の陣があった。
ここから徳川家康最後の陣跡まで2.4㎞ある。最後の陣まで30分あれば、決戦の地に到着する。関ヶ原の戦いのイメージが具体性をおびて想像できた。 
最後の陣地まで行くと遠回りになるので、関ヶ原の町中を通り過ぎた。関ヶ原古戦場西首塚の跡碑に出会った。街道から少し離れるが、手前に東首塚がある。西首塚を過ぎてから旧中山道に入ると
254-12.jpgのサムネール画像のサムネール画像京極・藤堂高虎陣跡、福島正則陣跡、少し進むと不破関跡がある。この関は東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛発関と共に、古代律令制化の三関の一つとして、壬申の乱(672)後に設けられたとされている。不破関資料館に着いたのは、12時ちょうどだった。休憩所があったので、おにぎり2個、バナナ2本とお茶で昼食を取った。途中、所郁太郎、照手姫、関ヶ原の名所で大分時間がとられた。10分程で昼食を済ませ、出発してまもなく、川を渡った。この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れていることから、関の藤川(藤古川)と呼ばれ、壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んで開戦した。さら254-13.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍



事上要害の地とのこと。間の宿山中高札場跡を通り過ぎ、東海道新幹線の高架下をくぐると、その少し先に常磐御前の墓があった。常磐御前は源義経の生母だ。このような所に墓があるとは知らなかった。墓の標柱にある関ヶ原町の説明では「常磐御前は都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常磐御前。源義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常磐は今若、乙若、牛若の三児と分かれ、一時期は清盛の愛妾にもなります。伝説では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と跡を追って来た常磐は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられている。」ここで手を合わせ、故人を偲んだ。今須宿に向う。今須宿は今須峠を越えた美濃路最後の宿だ。今須峠の頂上は山中の常磐塚あたりの登り口より約1,000254-14.jpgのサムネール画像mの道のりで、一条兼良はこの峠で、「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川記)と認めたように、この付近きっての険要の地と言われている。今須には宿場時代の面影はあまりなく、本陣跡の先の問屋場跡や常夜灯が当時の史跡を伝える数少ない史跡だという。江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七件もあって全国的にも珍しいとのこと。
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美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみで、永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄ぶりがうかがえるとのこと。さらに進んで行くと、「奥の細道」芭蕉道の石碑があった。いくつかの碑に俳句が記されてあった。「夕月も 美濃と近江や 閏月」の 句碑があった。芭蕉は中山道を何回も訪れたようだ。今須宿を出るとまもなく美濃と近江の国境にでた。標柱に「左に美濃国、右に近江国」と記されてあり、写真左の堀には、県境の「左側岐阜県 右側滋賀県」となっている。県境を通って柏原宿に向う。
柏原宿は近江路に入って最初の宿場となる。1.4㎞にも及ぶ大きな宿場で、街道筋には古い家屋が表にそれぞれ元の商売を記してある。町の目の前にそびえる伊吹山は古くから薬草の産地として知られたもぐさは灸に使用され、「伊吹もぐさ」として街道名物だったという。
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楓並木が続く坂道照手姫笠掛地蔵岐阜県と滋賀県県境                    を下って行くと、「照手姫笠掛地蔵と蘇生寺」があった。地蔵堂正面向かって右側、背の低いいかにも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠掛地蔵」という。
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現在はここに祀られているが、元はこれより東、JR踏切を
越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊                                     

ということから「蘇生寺笠掛地蔵」とも言われているという。中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地とのことだ。東海道線の踏切を渡ると柏原の町並みが見えてくる。
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柏原駅を右手に進み、本陣跡、常夜灯、伊吹堂、柏原宿記念館を通り過ぎ、柏原一里塚、小川の関に着いた。長沢にある小川の関跡から昔の街道の面影を残す林道へと入っていく。梓には松並木が残されており、国道を横断して、しばらく国道21号線を歩いて行くと、中山道の大きな石標がある。その先で左の旧道に入ったところ、北畠俱行卿の墓が目にはいった。北畠俱行卿は鎌倉時代に後醍醐天皇に仕え、幕府打倒の謀議に加わったが、笠置城落城の後に幕府方に捕らえられ、この地で斬首されたという。突然、標柱に名前があると、歴史に思いを巡らす。先に進み、醒井宿に入っていく。                     
254-21.jpgのサムネール画像醒井宿は「水の町」である。西行水、十王水、居醒(いさめ) 254-20.jpgのサムネール画像のサムネール画像

の清水という「醒井三水」と言われる湧水を集めた地蔵川が旧中山道に沿って流れている。加茂神社の前にある居醒の清水は醒井の名の由来にもなった湧水で、伊吹山の大蛇(一説には白猪)退治で遭難しかけた      日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの清水で熱を冷まし、気分を回復させたという話が伝わっている。

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加茂川神社に上れば、町が一望に見渡せるという。地蔵川は、居醒の清水などから湧き出る清水によってできた川で、大変珍しい水中花「梅花藻(バイカモ)」が咲くことで有名だ。十王水は地蔵川の中にあり、平安時代に水源が開かれた名水で、醒井宿には江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人速や馬を提供した施設が今も残っており、完全な形で復元され、日本遺産に認定されているという。

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また春は桜並木、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々に絵になる景色だという。歩いていても綺麗で清々しい町だ。右手に東海道本線の醒井駅がある。季節になると観光客が大勢押し寄せる町だと思う。水路が流れる樋口の集落を通り、樋口の交差点で国道を渡り、北陸自動車道下をくぐった先に久礼一里塚があた。少し先に行くと番場宿の石碑があった。ちょうど16時の通過だ。

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番場宿は日本橋から六十二番目の宿場で、摺針を控えた細長い宿場だ。番場宿には「○○跡」とかれた真新しい標柱が随所に立っているが、宿場時代の面影を伝える建物はないという。また、番場は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公、番場忠太郎の故郷でも知られている。これから摺針峠(りはりとうげ)を越えれば、鳥居本宿だ。摺針峠は標170mで、彦根市の鳥居本宿と米原市の番場の境にある。

旧中山道の難所の一つで、北国街道の分岐点でもあり、中山道の重要な位置にあったという。江戸時代この峠に望湖堂という茶屋が設けられ、峠を行きかう人達は、眼前に広がる琵琶湖の絶景を楽しみながら休憩したと言われて

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いたが、1991年火災で焼失したという。摺針峠はさほどきつくはなかった。長い登坂は緩やかだが、両側に古い民家が並び峠越えの雰囲気があり、気分的に楽に歩くことが出来た。今度は急な山道を下るようになってきた。徐々に道幅が狭くなってきたが、目の前に鳥居本宿の町と彦根駅の高い建物が目にはいった。鳥居本宿は街道情緒が色濃く残る町だが、街中は車が多い。ここの名物は胃腸薬・赤玉神教丸という丸薬で、今も販売を続ける建物は200年の歴史を持つという。すぐに8号線沿いに行くと近江鉄道鳥居本駅に着いたのは1715分だった。この駅は明治時二十八年に彦根から貴生川の区間で開業した。その後、米原間も開業し、同時に鳥居本駅舎も建てられたという。平成八年にはこの駅で184時間に及ぶ世界最長コンサートが開催されギネスブックに登録されたという。

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しかしこの宿場では宿泊施設を見つけることが出来なかったので、約2.4㎞先の東海道本線彦根駅東口にある「コンフォートホテル彦根」にした。到着時間1745分に松本さんがホテルの前で、動画を取りながら出迎えてくれた。遠く離れた地で、再会するのは、うれしいものだ。到着予定時間は2時間半遅れた。街道沿いに旧所・名跡が多く、見学をしたからだ。今日の歩数は58,69141㎞の旅だった。部屋で洗濯をして、明日の準備をして、最後にシャワーを浴びてから、ロビーで松本さんと待ち合わせ、夕食を取る店に行った。松本さんはすでに店の下見をしていたので、迷うことなく店に入った。ビールで乾杯、田部井さん、大橋さんとの中山道の歩き旅の話を肴に食事した。松本さんは守山宿までの長距離40㎞は初めてのことで、不安はあるが、初挑戦の期待の方が大きかった。

中山道六十九次旅日記(14)

11日目(4月19日)火曜日

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朝、4時に起床。今日の天気は曇りのち晴れだ。朝食はおにぎり、菓子パン、牛乳、リュックにはバナナ3本と水2本を入れ、5時に出発した。鵜沼宿、加納宿、河渡宿、美江寺宿まで47㎞の道のりだ。計画段階で、美江寺宿近郊の宿泊施設が見つからない。

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そこで美江寺宿のある瑞穂市商工農政観光課に電話して、宿泊施設の有無を聞いたところ、この近辺には一軒もないとのこと。ホテルが多くあるのは大垣駅近辺だ。美江寺宿から約8㎞、今渡の渡し場跡 木曽川1時間45分の道のりで、出発地から53㎞の道のりになってしまう。これでは体力が持たないので街道沿いにある樽見鉄道美江寺駅から、電車に乗り、大垣駅に行くことにした。ホテルは駅近くの「コンフォート大垣」にした。ホテルから旧中山道へ出る時が道を間違えやすい。 

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ナビと古地図を念入りに確認した。ホテルを出て可児川の橋を渡り、名鉄広見線とJR太多線の踏切を渡り、248号に出た。これを右折し、更に進むと、もう一度名鉄広見線の踏切を渡り、旧中山道に出る。左折し道なりに行くと木曽川にかかる太田橋に出た。木曽川の「今渡の渡し場」に到着し、太田橋を渡った。橋を渡り終えると、すぐ左手に「太田の渡し跡」があるが、現在、化石林公園の中にある。

公園を出たところで、左折し旧中山道に入った。旧中山道は木曽川沿いに設けられてあり、すぐ右手に古井一里塚跡があった。

253-4.jpg木曽川緑地ライン公園を左手に見て進んでいくと、祐泉寺(旧旅籠小松)、歴史や文化資料を展示する太田宿中山道会館、旧太田脇本陣林家住宅があった。41号線を渡っていくと坪内逍遥ゆかりのムクノキの記念板が目にはいった。それによると「坪内逍遥(18591935)は尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれた。その後、明治二年父の引退に伴い、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けた。十八歳にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となった。演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築いた。大正八年には、夫婦そろって生まれた
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故郷を訪れ、このムクノキの根元で記念撮影をした。逍遥六十一歳でした」と記されていた。その少し先の堤防下に深田神社があり、横に庚申塚があった。木曽川を眺めながら歩く堤防沿いの旧道は、周りの景色も美しく、左側に流れている木曽川は上流の木曽川とは、同じ川とは思えない程、水量豊かで穏やかな流れだ。高山本線坂祝駅を右手に、勝山の信号を通り過ぎるとを通り過ぎると、岩屋観音堂だ。さらに進むと、各務原市にはいった。いったん川側に下りて、国道下のトンネルをくぐり、旧中山道にはいり、うとう峠一里塚を越えて、鵜沼宿に入った。

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鵜沼宿は明治二十四年の濃尾大地震により、江戸時代の建物は消失したが、その後徐々に整備され昔の宿場町の景観が再現されつつあるという。赤坂の地蔵堂を過ぎ、右に曲がる。この赤坂地蔵堂を直進すると犬山城まで2㎞だ。この辺りは名鉄犬山線江南駅で下車し、工作機械の購入時、立合いや宿泊もした場所で、また犬山城近くのホテルで顧客の会議を行った場所でもある。懐かしい。宿場の入り口にある大安寺大橋は木製の欄干や常夜燈があり、資料館になっている中山道鵜沼宿町屋館、その先に坂井家脇本陣がある。

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その横に芭蕉の句碑が3基並んでいる。芭蕉は鵜沼を訪れる度に坂井家に滞在し、いくつもの句を残したという。左手にはJR高山本線と名鉄各務原線が平行に走っている。右手に農村歌舞伎の舞台となる「皆楽座」がある津島神社を過ぎていくと、国道21号線に合流してから各務原駅を過ぎ、名鉄各務原線三柿野駅を左手に見て踏切を渡り、Y字路を右に入って旧中山道へ入っていく。ここから国道とは離れていく。神明神社、広大な各務原市民公園の横を通っていく。新加納立場跡、新加納一里塚、市街地に残る貴重な細畑一里塚、その先に延命地蔵に立つ追分道標があり、「左木曽路」の文字が見える。

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加納宿は現在の岐阜市街に属し、宿場町と城下町を兼ねていたことから美濃16宿のなかで最大の宿場町だった。当時をしのばせるものはほとんどないが、随所に道標や碑がある。中山道は大手門跡から西へ直進していくが、本陣・脇本陣の建物は残っていないという。

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東海道本線の高架下を進むと、名鉄名古屋本線の茶所駅を左手にみて、進んで行くと右手に岐阜駅が見える。二度目の東海道本線の高架下を進み、読み方が難しい多羅野(らり)八幡神社がある。この先には長良川に架かる河渡橋を渡ると、河渡宿に入る。次の美江寺宿まで約6㎞だ。美江寺宿は長良川の「河渡の渡し」や、揖斐川の「呂久の渡し」の間にあたることで栄えた宿場で、小さな宿場だ。今日の宿泊地大垣に行くために、樽見線の美江寺駅から電車で行くことにした。美江寺駅に着いたのは1645分。駅は無人駅で何もない。まわりは閑散とした住宅と畑で、宿場の面影はない。宿泊施設がないと言われたのも理解できた。次の赤坂宿まで約9㎞ある。このまま歩いて行くと18時を         過ぎてしまうので、電車で大垣まで行くことにしたのは、正解だった。

253-11.jpg美江寺駅発17時3分の電車に乗った。乗客はほとんど高校生だ。1717分に大垣駅に到着し、「ホテルコンフォート大垣」にチェクインしたのは、18時を過ぎていた。今日の歩数は64,417歩、約45㎞の道のりだったが、疲れは少ない。洗濯をし、シャワーを浴び、ホテル近くの大型のショッピングセンター内のレストランで食事をし、コンビニで明日の朝食を準備し、ホテルに帰った。明日は電車で美江寺駅に行って、赤坂宿に行くか、直接、大垣から赤坂宿に行くか考えながら、9時にベッドに入った。


中山道六十九次旅日記(13)

10日目(4月18日)月曜日

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朝、4時に起床。天気は一日中雨の予報だ。本来の計画は大井宿から、奥深い山中に漂う街道情緒の大湫(おおくて)宿、ひなびた宿場に一軒の旅籠がある細久手(ほそくて)宿、願興寺の門前町として栄えた御嶽宿、国道21号線が宿場町を貫き、当時の雰囲気は感じられないという伏見宿、そして木曽川の「太田の渡し」を控えた太田宿、約43kmの道のりだが、歩いての旅は変更して、歩きと電車で行くことにした。10時頃小雨になったのを、見計らっていくと10分もしないうちに「恵那駅前津島神社」があった。趣意書に「大正七年(1918)大井町中心部に疫病患者が大発生し、神にすがるのみであったという。当時、町内各戸より、多数の人が津島神社総本社に、お祓祈祷をなし、御分霊を仰ぎ駅前高台の地に祀り、御神符発行のお許しを賜り、八月十四、十五日の両日を例大祭と定め、夏祭り、宵祭りが盛大に行われる」とあった。旧街道を歩いていると、街道沿いに日本の歴史が神社を通して、由来が記されている。日本橋から旧中山道を歩いていると、街道沿いに様々な記録が記されている。古墳時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代の記録が神社の由来の碑に記されているのが印象的だ。後半の街道には江戸時代、幕末、明治の記録が残されていると思うと楽しみだ。津島神社を過ぎて、間もなく雨が強くなってきた。恵那駅から多治見駅で下車し、時間調整のため喫茶店に入った。多治見駅から可児駅には昼頃に到着した。さらに時間調整をして、15時に「ホテルルートイン可児」にチェックインした。恵那宿から約43㎞の道のりを考えると、太田宿は遠いので日本ライン今渡駅近辺が良いと思ったが、適当なところが見つからない。歩く距離を考えて、手前の可児駅近くの旅館にした。太田宿は「太田の渡」を控えた宿場で、この地方の行政・文化の中心として発展したという。飛騨街道と郡上街道の分岐点で、飛騨方面へ向かうJR高山本線、郡上方面へ向かう長良川鉄道が発着する交通の要衝である。入り口の祐泉寺には北原白秋や芭蕉、坪内逍遥の歌碑や、日本ラインを命名した地理学者・志賀重昴の墓碑が立ち並ぶという。洗濯してから食事をとり、天気を確認して、就寝。


中山道六十九次旅日記(12)

9日目(4月17日)日曜日

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5時起床。体調は良い。十二兼駅まで2時間で行けると思い、出発は610分にした。須原宿は街道の随所に水船が置かれており、木曽五木の一つ、サワラをくりぬいた水船には、裏山から引いた湧水が注がれていた。朝の空気はすがすがしい。左手に国指定重要文化財の定勝寺(じょうしょうじ)がある。定勝寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦如来、木曽町の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺の一つで、日本最古の「蕎麦切り」に関する文書が発見されているという。

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旧中山道は定勝寺から岩出観音、茶屋本陣跡、天長院、大桑駅まで、山側方向に遠回りになっているので、今回は待合せ時間に間に合わせるため、国道19号線で大桑駅前を通るルートを選んだ。大桑駅を過ぎると電車と山々の景色が見事だ。右手には木曽川が流れている。

木曾川沿いを歩いて行くと河原には、白い大きな石がたくさんあり、なぜこんなにも白いの251-3.jpgのサムネール画像か不思議に思いながら、野尻宿に入った。野尻宿は「七曲がり」と呼ばれ、外敵を防ぐための曲がりくねった町並みで知られている。野尻宿は特別なものはないが、懐かしい木曽の原風景ともいえる宿場町だ。国道と合流、町境の橋を渡り、左の坂道を上っていき、十二兼駅に着いた。この駅は街道より高い位置に線路を走らせているので、無人駅の改札口には、階段を上がって行った。到着は8時10分、時間通りだ。改札口の椅子に座って待っていると、8時20分に電車が入ってきた。251-4.jpg

大橋さんと合流し、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿まで、一緒に行き、大橋さんは馬籠宿からバスに乗り中津川から名古屋に出る。早速、三留野宿に向けて出発した。5.7㎞の道のりは木曽川沿いを歩く道のりだ。柿其橋から「南寝覚」と呼ばれるきれいな渓谷が見える。

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右手に木曽川、左手に中央本線が走る街道を進んだ時、左手に「与川」の文字が目にはいり驚いた。 昨年末に友人から、中山道を行くには参勤交代を描いた杉田次郎作「一路」が、参考になるとアドバイスされた。木曽街道についての知見に疎いので、  地名や物語にまつわる出来事を読みながら、歩いて旅をするイメージを膨らませた。

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   「一路」は美濃地方の旗本の参勤交代を描いた小説だ。その中で、どうしても想像できないのが、与川の氾濫で足止めになった時の描写だ。小説といっても杉田次郎氏の対談集を読むと、作者自身が現地を訪問し、時代考証もしっかりしていると感じた。参勤交代で妻籠宿を出発したが、嵐にあい上流が氾濫し木曽川支流の与川から、木曽川に激流となって行列を襲う描写があった。  この描写で家来の身を守るために、激流の与川に縄を張って、行列が持っている全ての荷物類を放棄し、身軽になり、縄に掴まって与川を渡った。

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翌朝早く福島宿の関所を通ろうとしたが、宿役人は前日の嵐で与川を渡れるはずがないと思い、荷物を放棄するのは参勤交代の法度に背いていると詰問した。参勤交代の御供頭が、荷物は全て放棄して、江戸到着の時刻に間に合うように来たので、福島宿の関所を通過させるよう要求し、何とか通過していった。

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宿役人が荷物を放棄した場所に行くと、御供頭の報告通り大小の荷物が河原に散らばってあった。宿役人はすべての荷物を拾い集め参勤交代の行列に追いつき、渡したというくだりだ。現地の与川を見たとき、与川の川幅(3m位)は狭いが、急斜面から水が落ちるので、激流になり、川幅の広い木曽川に流れ込んでいく。木曽川の河原は広く、白い大きな石があるので、荷物が石と石の間に挟まって、激流が止まれば、拾い上げることが出来ると納得がいった。幕末の参勤交代の大変さを感じながら、三留野宿に入った。

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三留野宿はかつて妻籠と並ぶくらいに栄えた宿場だったが、明治十四年(1881)の大火で町並みの大部分を消失したと云う。およそ20分進んだところに上久保一里塚の案内板があった。南木曽町の町内には、十二兼・金知屋(かなちや)・上久保・下り谷の四か所に一里塚があったが、現在原型をとどめているのはこの上久保一里塚だけで、江戸から数えて78番目の塚である。少し進むと妻籠宿への道標があった。案内通り右の街道を進んでいくことにした。この先を右に曲がり10分ほど寄り道をしていくと妻籠城址がある。典型的な山城で、これから行く妻籠の街並みが見渡せると云う。

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妻籠城は室町中期に築城され、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり木曽義昌の家臣山村良勝が籠って、徳川家康配下の菅沼・保科らの軍勢を退けた。また慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢が入ってここを固めたが、元和二年(1616)には廃城になったという。ここ妻籠峠の道は整備され、歩きやすい。所々に旧中山道の道標が立ててあり、旧道を歩く人への配慮がうれしい。

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大きな岩が目に留まった。鯉ヶ岩という。信濃道中記に鯉ヶ岩は、名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが、明治二十四年美濃の大地震で移動したため、形が変わったと云う。すぐ近くに妻籠宿の北側に位置する古い住宅があった。妻籠宿は日本の宿場を代表する存在で、木曽川の流れに沿って南下してきた中山道は、三留野宿を過ぎてはじめて川と分かれ、山中の道に入る。その始まりが妻籠宿であると云う。全長800m宿場には、出梁造り(だしばりつくり)の二階屋と竪繁格子(たてしげこうし)、卯建(うだつ)のある家などが立ち並んでいる。

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脇本陣、高札場、本陣、人馬会所、水車小屋、枡形、常夜燈などが忠実に保存・復元されている。保存より開発の方が優先と考えられていた昭和46年、「妻籠宿を守る住民憲章」には、建物などを「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則がうたわれ、忠実に守られてきた。脇本陣奥谷は歴史資料館となっているが、代々脇本陣・問屋(といや)を務めたのが林家(屋号が奥谷)の建物で、総檜造りになっている。またここは島崎藤村の初恋の人、「おふゆさん」の嫁ぎ先でもある。時間は10時半、少しお腹がすいたので、妻籠宿にある五平餅の看板が掲げてある店に入り、一皿食べた。

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木曽街道は峠が多いため、昔の人は体力を維持するために炭水化物を多くとっていたという。その代表的な食べ物が五平餅だ。食後少し休んでから出発した。この先に本陣跡、光徳寺、上嵯峨屋を通過し、馬籠宿へと向かった。水車小屋をはじめ、昔ながらの風情が残る大妻籠集落を通り、つづら折りの石畳の道を進んでいくと、林間のハイキングコースだ。
男滝・女滝を右手奥に見ながら、歩いて行くと国史跡の中山道男垂山国有林だ。神居木(かも
いぎ)といわれる樹齢およそ350年以上の立派な椹(さわら)で、垂直に伸びた枝に山の神が座るとある。
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その先には一石栃白木改番所跡、一石栃立場茶屋跡があった。すると峠を歩いて、初めて案内人を先頭に10人前後の集団とすれ違った。馬籠宿から妻籠宿に向うと言っていた。70歳前後の男女で女性が多いように見えた。さらに足を進めると馬籠峠の頂上に着いた。標高は790m、ここからは下りで、いよいよ木曽街道で一番有名な馬籠宿だ。馬籠宿は眼下に美濃の国を眺望できる絶好の場所に位置するが、曇りで今にも雨が降りそうな天気で見ることは出来なかった。

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馬籠宿は山の斜面にあるため風通しがよく、幾度か火災に見舞われたという。とくに明治28年(1895)の大火ではほとんどが消失してしまい、今ある家並みはその後復元されたものだという。両側には飲食店や土産物屋があり町並み保存に力を入れ、また月日を得たことで、馬籠は宿場町ならではの風情を醸し出している。

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馬籠宿の名が全国に広まったのは、島崎藤村の幕末から明治の激動の時代を描いた「夜明け前」だ。私はこの旧中山道六十九次の歩き旅を思い立ってから、古地図や歩いて旅する本を買って、計画を作ろうとしたが、木曽街道の地理に疎い。今回、木曽街道二人旅を提案した大橋さんが、島崎藤村の「夜明け前を」進めてくれた。この本の第一部が木曾街道十一宿を理解する上で役に立った。主人公の青山半蔵は島崎藤村の実の父で、この小説を書くきっかけになったのは、詳細を極めた叔父の日記を発見したからだ。時代考証を加えて、執筆したので、小説での登場人物はモデルがいる。

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今回の中山道六十九次の歩き旅で、一番行きたい場所の一つだった。馬籠宿で蕎麦と五平餅を食した。妻籠宿で食べた五平餅と味も形も違う。

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馬籠宿に藤村記念館に「夜明け前」の重要な資料になった代々の古文書など多数展示されているという。空模様が怪しい。雨が降ってきそうだ。見学したいが、残念だ。記念館で大橋さんと分かれ、落合宿、中津川宿、そして宿泊地の大井宿に向う。約20㎞の道のりだ。別れてからすぐに島崎本陣(藤村の生家)があった。「夜明け前の」の主人公青山半蔵の記念碑もあった。馬籠城跡の説明の木板があった。

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 そこには戦国時代の馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌が納めた。天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上ることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島村重通(島崎藤村の祖)が警備をした。

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 天正十二年九月、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じ、三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠の北に陣地を構えた。その後、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消したという。

 雨が降りそうな空模様なので、歩く速さを上げ、次の落合宿に向う。正岡子規の句碑が立つ子規公園があった。

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病弱であった正岡子規が中山道で句を詠んで、この地で後世に残したことに敬意を表したい。さらに急いでいくと美濃と信濃の国境の石碑を見つけた。長年の風雨に耐えて、石は傷んでいるが、文字ははっきりと判別することが出来る。木曽十一宿の終点だ。雨が降ってきた。さらに強く降ってきた。

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雨宿りが出来るところを探して進んでいくと、大きな公園があり、休憩所があった。びしょ濡れになった下着、シャツを着替え、靴下も取り換えた。3040分しても雨の強さは変わらない。現在午後3時を過ぎ。さらに30分様子を見たが、雨の強さは増すばかりだ。ここから大井宿(ホテルルートイン恵那)まで3時間30分はかかる。歩いて大井宿に行くのを断念して、一番近い中津川駅までタクシーと電車で行くと決めた。周りの様子を確認すると案内所の看板が見えた。ここは落合石畳マレットゴルフ場で駐車場も大きく案内所もしっかりしていた。早速案内所に行き、タクシーを依頼したが、何時になるか分からないという。何時でもいいから予約してくれと強く言った。担当者は要領の得ない回答だった。このやり取りを聞いていた7~8人のマレットゴルフ仲間の一人が事情を聴いてきた。歩いて旅をして、京都まで行く途中だと話したら、その人が立ち上がって「よし、ひとはだ脱ぐか」と言って、自分の車に乗せてくれた。中津川駅まで約10分の所要時間だ。中津川駅に連れて行ってくれた。車中で話をしたところ、生まれも育ちも地元で、リタイヤして地域の活性化のため、マレットゴルフを通じてチームを作り、県大会に出場して活躍しているとのこと、リタイヤして地元の仕事を少し手伝っていたが、現在、仕事はしていないと言われた。別れ際に自己紹介をし、彼は山田さんと云って元気な白髪の77歳の方だった。旅先で困ったときに受ける親切はありがたい、いつまでも忘れない。

330年ほど前、江戸から北へ向かった松尾芭蕉も「奥の細道」の中で困った時の親切は忘れないと記している。中津川駅のホームに入ったところ、後ろから声をかけられた。大橋さんだ。藤村記念館で別れた後、バスを待っていたが、タクシーが来たので、乗車し、運転手に旧中山道を歩いて落合宿に行く友人を追いかけてくれと頼んだが、私の姿を見つけられなかった。ちょうど落合石畳マレットゴルフ場の待合室にいたころだ。再開を喜ぶとともに再度の別れをした。

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中津川駅から電車に乗り、恵那駅に16時頃に到着。駅からタクシーで「ホテルルートイン恵那」に行った。チェックインして部屋に入り、濡れた下着、シャツ、靴下を洗濯し、乾燥させてから18時頃、近くのレストランで食事をとった。歩数は46,125歩を数えた。本来なら、格式の高い本陣が見ものだと云われている落合宿を通り、木曽路と美濃路の接点と云われる中津川宿に行く予定だ。中津川宿には、中山道歴史資料館に、桂小五郎の中津川会談をはじめ幕末騒乱に関する文書や、和宮降嫁の行列や水戸天狗党の往来の様子など、多くの資料を展示しているという。幕末から明治時代の歴史が好きな私にとって一番行きたい場所であった。大井宿までは多少舗装されているが、古い街並みや野仏などはほぼ昔の面影をとどめているという。大井宿は恵那市街の一部で、昔の面影を残す建物も多くあるという。中山道広重美術館には歌川広重の「木曽街道六十九次之内」「東海道五十三次之内」「京都名所之内」など、主に広重と中山道をテーマとして展示しているという。


中山道六十九次旅日記(11)

8日目(4月16日)土曜日

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5時に起床。2日間雨で歩いていないので、足の調子は良い。6時30分に朝食を済ませ、大橋さんと共に7時にここ奈良井宿を出発した。今日は鳥居峠を越えて、藪原宿を通り木曽川沿いに宮ノ越宿、そして福島宿まで20㎞を一緒に行き、ここで別れて私は上松宿、須原宿まで約20㎞の道のりを行く。

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宿場時代の家並みを色濃く残した1㎞にわたる奈良井宿を通り抜けた。20分で鳥居峠旧道に入った。島崎藤村の小説「夜明け前」の冒頭に「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・」とある。鳥居峠から山々が迫る木曾谷を望み、ここから九十九折の道や旧坂を下って藪原宿を目指すと記してある。出発しておよそ50分の所に一里塚の石碑が目に留まった。

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一里塚は江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、鳥居峠一里塚はその面影をとどめていない。場所も古老の話や古地図、文献などによって「ほぼ、この辺り」としたものであると云われている。

鳥居峠は標高1197m、木曽川と奈良井川の分水嶺である。江戸時代の五街道の一つ、
250-4.jpgのサムネール画像のサムネール画像中山道の宿場町である奈良井宿と藪原宿の境をなし、旅人には難所として知られていた。戦国時代に、木曽義仲が松本の小笠原氏と戦った時に、この峠の頂上から御岳を遥拝(ようはい)し、戦勝を祈願した。その功あって勝利を得ることが出来たので、峠に鳥居を立てた。以来、この峠は「鳥居峠」と呼ばれるようになったと云う。北から木曽路へ入り、初めて御岳山を望むことのできる場所として御嶽神社がある。神社の境内には御嶽を信仰する講社の人々が建立した石碑、石仏、石塔がある。御嶽神社を過ぎるとつづら折りの道を下っていくと藪原宿がもうすぐだ。藪原宿は、尾張藩の御鷹匠役所があり、役所跡の下が飛騨街道の分岐点がある。またミネバリという木で作ったお六櫛(おろくぐし)で全国に名を広め、櫛は大流行したという。

藪原宿を過ぎると右手に木曽川の渓谷を眼下に望みながら進み、山吹山を目指していく。
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出発して3時間ほど進んだ場所に巴ヶ淵があった。この巴ヶ淵は、木曽の僧が滋賀県の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと「木曽義仲が討ち死にした場所で、弔って欲しい」という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現れ、「自分は巴という女武者、義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかった」と語る。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいた。巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が浮かんでくるようだと木柱に
記されてあった。巴ヶ淵から15分ほどで「義仲館」があり、
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その入り口に木曽義仲と巴御前の銅像があった。

この「義仲館」は1992年に開館し、2021年にリニューアルしたとある。「木曽義仲は今から850年以上前、平安時代と鎌倉時代のはざま「源平合戦」で活躍した源氏の武将で、埼玉県で生まれ、長野県で育ち、北陸新幹線のルートと重なる足取りで北陸道を戦い抜き、京都へ入った。巴御前は長野県木曽町で生まれ義仲と共に育ち、その最後まで見届けたと伝えられている」と云う。

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記念館を出て宮ノ越宿の本陣に向った。宮ノ越宿は慶長六年(1601)徳川幕府の中山道整備の時、藪原宿と福島宿の間が遠いので、江戸から三十六番目の宿として新設され、明治三年(1870)宿駅制度廃止まで続いたと云う。

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宮ノ越宿は何度も大火に遭っており、明治十六年(1883)の大火では主屋は消失するが客殿は残ったと云う。                      木曽十一宿中で唯一現存し、明治天皇が休まれた部屋が残る貴重な建物であると云われている。

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旧中山道を道なりに進んでいくと、中央本線の踏切を渡り、右手に原野駅をみて歩いて行くと、「中山道中間点の碑」が建っていた。碑文には「ここは、中山道の中間点、京都双方から六十七里二十八町(266)に位置している。

中山道は東海道と共に江戸と京都を結ぶ二大街道として幕府の重要路線でした。

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木曽路という深山幽谷と思われがちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場と指定された慶長六年(1601)頃からは整備も行き届き、和宮などの姫君の通行や、茶壷道中などの通行に利用されていた」とある。中間地点からは左手に木曽駒ケ岳をはじめ中央アルプスが綺麗に見える。木曽川支流の正沢川を渡る。ここにかかる橋は下がすけて見える橋だ。先に進むと木曾義仲の勉学のため京都の北野天満宮を迎えた手習天神(てあらいてんじん)があった。源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し、養育したことが記されているが、山下は上田の古名で、付近には中原兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っていると云う。              

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さらに進んでいき、上田口の交差点を右折し19号線に合流する。右手に出尻一里塚跡碑を見ながら、緩やかな下り坂を進んでいくと、右手に蕎麦屋の看板が目にはいった。

大橋さんが前に木曽福島を訪れた時、「くるまや本店」の蕎麦が美味しかったが、ここは支店の「くるまや国道店」だ。昼を過ぎていたので、ここで昼食をと

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ことにした。天ざるそばを注文し、奈良井宿からの道のりを思い返し、疲れているにも関わらず、奈良井宿から峠を越えての約20㎞、会話が弾んだ。休息を取り木曽町に向って進むと10分程で福島宿の象徴ともいえる巨大な関所門を通った。福島宿は中山道の要衝、福島関所は木曽川の断崖上の狭い場所に設けられた。

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木曽十一宿で最大の宿場で、福島関所の創設は中山道の重要な守りとして碓氷、箱根,新居とともに当時天下の四大関所と称され、木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治二年六月まで機能していた。ここには山村代官屋敷跡、福島関所跡、高瀬資料館がある。高瀬家は島崎藤村の姉の嫁ぎ先で「家」のモデルとなり、藤村の書簡などが収められている。さらに進んでいくと「くるまや本店」の看板が目にはいり、5~6人が並んでいる。先を急ぐ身としては支店で食事したのは正解だった。大橋さんはここで宿泊、私は次の上松宿、須原宿へと約20㎞先を歩いて行く。休息を十分に取ったおかげで、足の調子が良い。旧中央線のトンネルを抜け、元橋を左折し中央線を横断すると右手に沓掛の一里塚跡、沓掛観音があった。少し進むと木曽川沿いの道に出た。     

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 旧中山道は上松宿までほぼ木曽川と並んで作られている。河原の石が異様に白く大きい。このような河原の風景はあまり記憶がない。木曽の桟(かけはし)の場所に着いた。木曽の桟は長野県木曽郡上松町の上松町道長坂沓掛線(旧国道19号線の下にある橋跡で、長野県の史跡となっている。午後3時半、上松宿に着いた。

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上松宿は「木の国」を象徴する宿場町で、昔から木曽檜の集散として知られ、玉林院、本陣跡、一里塚跡の碑、島崎藤村文学碑、材木役所の跡などで知れれている。ここ上松には有名な「寝覚の床」と云われる景勝地がある。

木曽川の水流によって花崗岩が浸食されてできた自地形で水の色はエメラルドグリーンとのこと。

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すでに午後4時前になっていたので、暗くならないうちに宿に着くため道を急いだ。旧道沿いに小さな滝があった。この滝は「小野の滝」と云い、広重・英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵であるが、残念ながら、明治四十二年鉄道の鉄橋が真上に架けられ、往年の面影はない。萩原の一里塚、立町立場跡、木の吊り橋を過ぎ、右手の木曽川の渓谷を望みながら、国道を歩いて行く。

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この国道19号線は旧道と同一で須原宿まで続いている。午後四時、携帯電話に宿泊する「民宿すはら」から到着時間を教えてほしい旨の電話があった。5時半頃到着すると答えた。この民宿は予約時に食事はなく、素泊まりと聞いていた。5時半に須原駅に着いたが、この近くのはずが見当たらない。そのまま通り過ぎて探したが、民宿は見当たらない。電話では須原駅の斜め前だと言っていたので、戻ることにした。途中地元の人がいたので、道を聞いたところ、駅方面の道沿いに行くようにと教えてくれた。「民宿すはら」に電話したところ、民宿の前に立っていると云われた。歩いて行くとすぐに分かった。やはり通り過ぎたのだ。古民家で入り口が狭く低く看板も小さいので、見落とした。

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民宿のご主人が「民宿すはら」の仕組みを説明し、鍵を渡してくれた。食事は5分ほどの所に日本料理、中華があり、隣にコンビニがあるとのこと。翌日のチェックアウト時は鍵を所定の場所に置くようにとのことだった。早速、中に入ると想像以上に広い。引き戸を開けると土間が広がっており、正面に16畳位の広さで、中央に囲炉裏があり、椅子、テレビ、小さなテーブルの上に雑記帳が置いてあった。

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ページをめくるとほとんどが英語で書かれており、日本の伝統的な古民家に宿泊でき、感激したようなことが書かれてあった。 

私は古民家の感想と日本橋から京都までの日程表を記した。六畳一間、六畳の書斎、八畳二間の寝室、木造りのお風呂、トイレは2か所、洗濯機と乾燥機と洗面所があった。

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外国人が5~6人宿泊して、囲炉裏を囲んで食事、談笑する様子が目に浮かぶようだ。民宿の裏手から中華食堂に入り、ラーメン定食を食した。帰る途中でコンビニに行き、翌日の食事とお茶2本を買った。民宿に帰り、風呂に入ってストレッチを十分に行い、翌日の日程を確認した。

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大橋さんは木曽福島駅を736分発の電車に乗り、十二兼駅820分着だ。須原から十二兼駅まで約10㎞2時間の距離だ。朝、6時に出発すれば8時に到着する。10時に就寝した。


       



                

 


中山道六十九次旅日記(10)

7日目(4月15日)金曜日

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朝、4時に起床し、窓から外を見ると、昨夜からの雨が降り続いていた。天気予報を確認したところ、本日は一日中雨の予報だ。やむを得ず、奈良井宿までの歩きは断念した。計画では下諏訪駅前交差点の先で国道と分かれ、左へ進み、相楽総三率いる赤報隊の供養塔、魁塚(さきがけづか)を通り、塩尻峠を越え、塩尻宿に入る。  

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中山道と善光寺街道の追分がある洗馬宿、そば切り発祥の宿場町の本山宿は本山宿は現在のような細切りの蕎麦が生まれたところだ。木曽十一宿の最初の宿である贄川宿、そして間の宿平沢を通って奈良井宿まで、約40㎞の予定だった。朝食は730分。930分に鉄鉱泉本館を出た。皮肉なことに雨は止んでいた。10時現在の気温13℃だが、体感温度は11℃との予報だ。やはり肌寒いので、長袖のシャツにジャンパーを着て出発した。

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下諏訪駅まで歩いて凡そ15分、下諏訪駅1030(中央本線東日本松本行)発の電車に乗り、塩尻駅経由1054(中央本線東海中津川行)発、目的地の奈良井着1126分で行くことにした。塩尻駅を過ぎたころから、雨が止んで天気が良くなってきた。そこですぐに調べたところ、奈良井駅の一つ手前の木曽平沢駅から奈良井駅まで約2.2㎞なので、急遽下車して歩いて行くことにした。ワンマン電車なので下車する人は先頭車両に来るようにアナウンスがあった。

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先頭車両に移動し真ん中のドアの前に立った。駅に到着しドアの脇に開閉のボタンがあったので、開ボタンを押したが、開かない。何度か押しているうちに、運転手が来て、先頭車両の運転手に近い先頭ドアの開ボタンを押さないと開かないと言われた。運転手に運賃を聞いて「スイカ」で清算しようとしたら、現金しか扱わないと云われ、680円支払った。下諏訪駅では「スイカ」で入場したので、清算は「スイカ」を取り扱っている駅でと言われた。木曽平沢駅を降りて、歩きだしたら雨が降ってきた。奈良井川の川沿いを歩いたが、だんだん雨が強くなってきた。山間部の天気は変わりやすい。約30分で奈良井駅に到着し、濡れたシャツを駅の待合室で着替えた。       

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小雨になった頃を見計らい、昼食をとるため、近くの蕎麦屋「楽楽亭」に入り、天ざるそばを注文した。蕎麦の味が口の中に広がる。美味しい。雨が小降りになったら奈良井宿を散策しようとしたが、止む様子がない。店に長くいると悪いので、熱燗とお新香とおつまみを頼みチビチビやっていたが、まだ雨が降っている。熱燗をもう一本頼み、3時間近く居座ったが、お客は私一人。「民宿しまだ」は蕎麦屋から56分の所だ。3時過ぎに雨に濡れながら、宿に向った。

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江戸時代さながらの景観を持つ奈良井宿は、木曽路最大の難所といわれた鳥居峠を控えている。宿場時代を色濃く残した約1㎞にわたる家並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。緩くカーブする街道沿いに折り重なるように軒が連なり、建物の60%は江戸末期から明治初期のものと云われている。有名な越後屋旅館は200年前から旅籠を営み現役である。越後屋の看板は裏表の文字が違う。京都から行くと見える看板は漢字の「越後屋」、江戸から行くと見える看板は平仮名の「ゑちごや」となっている。京の人は江戸の人より学があるから漢字、江戸の人はかな文字とのこと。

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「民宿しまだ」に入り、濡れた下着、靴下の洗濯を行い、乾燥させたのちに、宿で傘を借り奈良井宿の街並みを一時間ほど散策した。夕方、碓氷峠を一緒に越えた大橋さんが奈良井駅に17時45分に到着する予定だ。到着15分程前に奈良井駅に大橋さんを出迎えた。予定通り大橋さんが電車から笑顔で降りてきた。ところが話をしてみると宿泊する民宿が違っていた。大橋さんは「いかりや町田」だ。私が大橋さんに最初に送った日程表に、民宿「しまだ」と併記して「いかりや町田」の民宿名を載せていた。最終的に「いかりや町田」を削除して「しまだ」に決めたが、改訂版を送るのを忘れてしまった。    

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それぞれの民宿で食事を済ませ、私が「いかりや町田」に出向き、ビールを飲みながら、碓氷峠の難所の話に花を咲かせた。明日は鳥居峠を越えて、藪原宿を通り木曽川沿いに宮ノ越宿、そして福島宿まで20㎞を一緒に行き、大橋さんは福島宿で宿泊ので、ここで別れて、私は約20㎞先の須原宿まで行くことを確認して、早々に民宿に戻った。翌日の天気予報は曇り。降雨率は限りなく低い。安心して寝床に着いた。       


中山道六十九次旅日記(9)

6日目(4月14日)木曜日

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昨夜は翌日の天気予報を確認してから、9時に就寝した。朝から小雨が降っている。朝食は6時30分、出発前に天気予報を確認したが、やはり雨だ。女将さんに万が一大雨で前に進めなくなったら、どのようにしたらよいか尋ねた。女将さんから「その時は自分に連絡をしてくれれば、車で迎えに行く」と言って、携帯の番号を教えてくれた。                      

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雨足が強いのに、無理をして和田峠の旧道を登って行くと、途中で迎えに来てと、云われても旧道に車は入れないので、遭難してしまうと言われた。これで安心、準備完了。雨具を着て715分に民宿を出た。民宿の裏手にある大門川沿いに歩き旧道に同流する。旧道は大和橋手前から左に曲がって、大門川を渡り、続けて依田川の橋を渡り、142号線に合流した。

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れから雨が強くなることを考えて、旧中山道を通らずに、歩きやすい142号線で行くことにした。1時間半ほどして信定寺の木柱が目に入った。そこには幕末に非業の死を遂げた人物「佐久間象山先生の師」が刻まれていた。信定寺は戦国時代の武田信玄が信濃を攻め、城主大井信定は討ち死に、その菩提を弔うため天文22年に建立された。その後江戸時代14代住職活紋禅師は幕末の士、佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕うもの千余人、佐久間承山と一体一で世界情勢を語っていたという。佐久間承山は「東洋の道徳と西洋の科学技術、この両者について究めつくしこれによって民衆の生活に益し、ひいては国恩に報いる」と説いたが、元治元年(1864)7月にその言動は西洋かぶれに見られ、攘夷派に暗殺された。

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その志は勝海舟や、河合継之助、坂本龍馬ら多くの門弟たちに引き継がれた。ちなみに正室は勝海舟の妹である。歩いての旅でないとこのような木柱を発見することは出来ない。車では通り過ぎてしまう。小雨の中、先を急ぐのでお寺を見ることはしなかった。

女将さんがハイキングコースと云っていた248-5.jpgが、緩やかな長い登り坂は雨具を着けた身としては、結構きつい。旧中山道は集落があるところだ。142号線から見ると集落がよくわかる。周りは山に囲まれ、小さな田んぼもあったが、142号線が出来て旧宿場町がさびれているのだ。     142号線から見ると集落がよくわかる。周りは山に囲まれ、小さな田んぼもあったが、142号線が出来て旧宿場町がさびれているのだ。道路は山と山の間を延々と上が    って行く。和田宿は出桁(だしげた)造り、出格子の家が連なっている。和田宿は交通の便が悪いところにあるため、貴重な歴史的遺産が多く残っているという。248-7.jpgのサムネール画像

和田宿ステーションの標識が目に入る。標高は820mとある。和田峠は1600mこの先の男女倉口から和田峠の旧道に入っていく。ようやく鍛冶足(かじあし)を通過。このころから雨足が強くなってきた。目印の唐沢一里塚跡の石碑があった。まだ雨は何とかなると思い、先に進んだ。雨雲がだんだん濃くなってきて、雨足が更に強くなってきた。左側に屋根が高く大きな廃屋があったので、雨宿りと休息をとることにした。廃屋は牛舎みたいだ。屋根から雨漏りがするので、適当な場所を探し腰かけて休んだ。約40分位休んだろうか、和田峠男女倉登り口まで10分もあれば、行くことが出来る。雨足が弱くなってきた。

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登り口を目指して、いけるところまで行き、ダメであればこのまま142号線で下諏訪に行こうと考えた。歩き始めると間もなく雨足がどんどん強くなる。行きかうトラック、乗用車は途切れることなく走っていたので、ヒッチハイカーのように手を挙げて試してみたがダメだった。                  

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ずぶぬれになっている姿を見れば、車が汚れるので、乗せたいと思う人はいない。仕方ない。決断して民宿みやの女将さんに電話をし、状況を説明したところ、迎えに来てくれるという。場所を教えたが、雨宿りをするところがない。142号線男女倉入口で姿がすぐ見えるように立ったままの状態で待った。

4月とはいえ、気温が下がっている。少し寒くなって きた。打たれながらおよそ20分、車が来てくれた。         

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女将さんはまだ仕事が残っているので、民宿に帰るとのこと。その間和田宿本陣の記念館で観光をして、待ってほしいと言われた。11時過ぎに和田宿本陣前でおろしてもらった。

門をくぐって、中に入ると受付があり共通観覧券を300円で購入した。この本陣は皇女和宮が休息したと云われている。

昔のかまどや土間があり懐かしい。お客は一人もいなかったので、受付の人に断って、びしょ濡れになった下着、靴下、Tシャツを脱ぎ、取り換えた。寒さが和らいだ。荷物を整えてから本陣内を見学した。幕末の和田宿の様子を写した写真が何枚も有る。写真を撮ったが額のガラスに反射してうまく取れなかった。


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ほかにも国の史跡として、歴史資料館かわちや、羽田野、大黒屋などがある。男女倉口の少し先になるが、永代人馬施工所(和田峠接待)も記されていた。脇本陣の所で待っていたら、およそ1時間半後に女将さんが迎えに来てくれた。次の下諏訪宿に向う車中で、短い時間だが、会話を楽しんだ。興味があったのは民宿の経営についてだ。話によると「母が高齢になって、母から民宿を閉めると連絡があった」のがきっかけだと云う。

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東京でご主人と暮らしていたが、二人で「民宿みや」の経営を引き継ぐことになったと言っていた。ご夫婦は冬の間、スキー場でスキーのインストラクターとして、活動しているとのこと、どおりで所作に無駄がないと思った。和田峠を越えて、街道沿いに水戸浪士の墓があることをこの計画中に発見した。水戸浪士というのは、幕末に活躍した尊王攘夷派の武田耕雲斎が率いた水戸天狗党のことだ。車の中からのお墓が目に入った。            なぜここに墓の石碑があるのかは、下諏訪宿の旅館で詳しく知ることが出来た。
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まもなく下諏訪駅に到着した。どのくらいのお礼をすればよいのか、率直に尋ねた。困ったときの親切はお金で表すことは出来ないが、私は言われた金額の倍のお礼をお渡しした。女将さんに何度もお礼を言って、記念写真を撮って別れた。困っているときの親切は忘れられない。望月宿の親切を思い出さずにはいられない。

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この時、既に午後1時になっていた。駅前の喫茶店で食事をとり、雨が止むのを待っていた。下諏訪宿は中山道と甲州街道の合流地だ。東は和田峠、西は塩尻峠に挟まれた。 

   

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交通の要衝で軍事上の要衝地でもあった。諏訪神社下社の門前町、さらに当時は中山道で唯一温泉が湧く宿場であったという。

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和田峠から下って行くと諏訪大社下社春宮への分岐点に出るので、街道筋の老舗の旅館「鉄鉱泉本館」に宿泊することにした。2時半頃、雨も小降りになり、旅館の入館時間にまだ時間があるので諏訪大社に行った。

鳥居を過ぎると、樹齢600年ともいわれる大きな杉の木があり、左右に青銅製の狛犬の彫像があった。神様に雅楽や舞を奉納し、祈願を行う神楽殿がある。

248-20.jpg正面に飾られる大きな注連縄は長さ13m、出雲大社型では日本一の長さと云われている。その奥に参拝者が参拝したり、神職が祭祀を行ったりする幣拝殿があり、さらにその奥に御祭神である建御名方神と妃神・八坂刀売神の御霊代を祭ってある宝殿がある。その宝殿の四隅に一の御柱(おんばしら)、二の御柱、三の御柱そして四の御柱が宝殿を守っている。御柱は寅年と申年の7年に一度行われる御柱祭で社殿の四隅に建てられる樅の巨木のことである。大きなもので長さ17m、重さ10tを越え、山中から人力のみで神社まで運ばれ、建て替えられるという。さらに奥に行くと、「さざれ石」を見つけた。実際に「さざれ石」を見るのは初めてだ。「さざれ石」の木柱には「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の歌が詠まれおり、意味は君が代は日本国民の永久の幸せを祈る歌であり、国歌である。

 

平安時代前期に発見されたさざれ石は石灰が雨水に溶解され粘着力の強い乳状液となり何千年何万年もの間に小粒な意思を凝結して次第に大きな巌となり苔むしてくる石であると記されてあった。

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話には聞いていたが、見るのは初めてだ。予定にない見学で、新しい発見が幾つもできた。また雨が降り出してきたので、老舗の旅館「鉄鉱泉本館」にチェックインした。女将さんから近くにコインランドリーがあると言われたので、傘を借りて濡れた下着、靴下、雨具などを持って行った。コインランドリーに着いた時、老眼鏡を忘れたことに気が付いた。中の照明は暗く裸眼では見えない。困っていたら、後から娘さんが入ってきたので、恥も外聞もなく使い方を聞いた。すると娘さんは「ここにお金を入れてこのボタンを押せばよい」と云った。

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 あまりにも簡単なので、お礼を言った後、苦笑いしてしまった。私はコインランドリーに入るのは初めてなのだ。椅子が置いてあったので、洗濯と乾燥が終わるのを待っていた。その間に翌日の天気予報を確認し、計画通りに歩いていくか考えていた。旅館に戻り、温泉に入った。日本橋から25℃を超える日が三日続いたので、背中にリュックサックが密着しているせいで、あせもが出来たみたいだ。

温泉に入ると背中のかゆみが取れていくのを感じた。すっかり気に行って夜2回、翌朝早く2回入った。夕食は7時半からと云われていたので、食堂に行った。席数は1516席あるが、宿泊客は私一人だという。女将さんは私と同じくらいの年齢か少し上かもしれない。客は私ひとりだったので、食事中、女将が給仕と話し相手になってくれた。私は女将と雑談しているうちに、ふと幕末の相楽惣三の名前が浮かんだ。        

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私が下諏訪と云うと「幕末に京から相楽惣三率いる赤報隊が幕府を攻撃するために、通過したところですよね」と話をしたら、女将は相楽の名を知っていたのに、びっくりして下諏訪宿の活性化のために下諏訪ゆかりの人物を発掘して、下諏訪新聞に記事を載せているとのこと。しかしその歴史の中では、新政府軍の悪いところを一身に受けた人物の記憶だった。女将は下諏訪に伝わる話や下諏訪新聞を見せ、ゆかりの人物の話をした。下諏訪新聞には、「下ノ諏訪宿三大大騒動」の見出し記事があり、その一は皇女和宮の降嫁、その二は相楽惣三率いる赤報隊、その三に水戸天狗党の話があった。下諏訪新聞の記事を要約すると、その一は、皇女和宮降嫁にあたり1861年旧1020日京都から、和宮の行列は江戸に向った。幕府は衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数2万人を送った。行列の長さは50㎞にも及び34万人の大行列だと云われ、道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万人にもなったと云われている。この盛大な御輿入れの行列の総費用は今の金額にして約150億円かかったとのこと。和宮は下ノ諏訪宿を通り、お泊りにさいして、見苦しい事やあやまちや無作法があってはならないので、通行筋や宿場中は無論、周辺の村々の住民に対して、藩や宿場役人等から、厳しい申しつけや触状が出されましたと云う。その二、相楽惣三らに率いられた赤報隊は、幕府攻撃の先遣隊として東山道(ほぼ中山道と同じ)を江戸へと向かう。相楽達赤報隊は、新政府から年貢半減の通達があったことから、宿場ごとにこれを触れ回り、幕府に反抗している民衆の支持を得ようとして、江戸に向った。思いのほか幕府が無血開城して、新政府軍が勝利を収めた。しかし新政府軍は財政の余裕がなく、相楽達赤報隊が勝手に、うその情報を流したとの罪で、捕縛し幹部8名と共に処刑された。隊長の相楽は高島藩士で勤王の先駆けとして活躍していた石城東山と同志であり、相楽は再三諏訪に訪れ同志を糾合していた。汚名をきせられた相楽は子孫によって昭和3年、正五位の称号を授けられて、名誉を回復した。

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その三は下諏訪を震え上がらせた天狗党で、元治元年(1864)に水戸藩の尊攘派は藩主徳川斉昭らの藩政改革に登場した軽輩武士を中核とする急進派で、この中心となったのは武田耕雲斎、藤田小四郎らで天狗党と呼ばれ攘夷延期を不満として、筑波山で挙兵した。天狗党は京都に上り、斉昭公の子一橋慶喜に嘆願し朝廷に訴え、攘夷を実行してもらう目的で大挙西上した。その一行は千余人、京を目指して佐久の内山峠から信州に入り、中山道を和田峠に向ってきた。これに対して高島・松本両藩は幕命を受け、これを樋橋で迎え撃ったのが1120日だった。高島藩・松本藩の連合軍は千余人が動員された。主要武器は初歩の大砲十門ずつと猟銃が少し、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日の戦で浪士軍10余、高島・松本両藩6人の戦死者があったという。浪士たちは戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を作って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た6柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であったと記されている。天狗党は馬籠宿を越えて、美濃の国に入った頃、尾張藩主の説得もあり、また冬の行軍で脱落者が相次ぎ、疲弊していたことから、越前の福井藩に身柄を預けられ、2か月後に全員処刑されたという。なぜ水戸天狗党が、1120日で戦いを行ったか条件が悪すぎる。中山道に行くまで、水戸から旧50号線を筑西、小山、足利を通って高崎に入り、碓氷峠、和田峠を越えてからの戦では、1日当たり25㎞行軍するとして、10日で行くことが出来るが、途中軍資金不足により栃木で強奪する事件を起こしたので、更に23日は要する。1120日の天候は夜になると氷点下近くになる。このような悪条件で出発すれば、峠の多い中山道では兵は疲弊し、難航を極めただろう。この後も調査したいと思う。

中山道六十九次旅日記(8)

5日目(4月13日)水曜日

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計画では6時出発だが、あさぎり荘は7時からの朝食時間だという。30分早くしてもらって6時半に朝食、7時出に変更した。今日は和田宿まで約40㎞、到着予定時間1630分、宿泊は「民宿みや」だ。                            

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 朝の澄んだ空気が肺に入ってくるのが分る。少し肌寒いが、浅間山を見ながら和田宿を目指して歩く。まもなく道路拡張により昔のままでないが、両側に残る追分一里塚があった。追分一里塚は「慶長九年徳川家康の命により江戸を起点とし、主要街道に一里ごとに塚を築造させた。この中山道には一里ごとに街道の左右に塚が作られ、旅人往来の道標として重要な使命を果たしたのであった。」と道標に記してあった。

247-3.jpgのサムネール画像追分宿を過ぎて旧道に入るとここは西軽井沢だ。しゃれた建物が多くみられる。
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分去れの道標(わかされ)が目に入った。そこには【右、徒是北国街道 左、従是中仙道】中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わった在りし日の面影をとどめている。右は北国街道姥捨山「田毎の月(たごとのつき)」で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。街道を進むと右手に満開の桜が目に入った。日本橋を出発した時には桜は少し散っていた。気持ちが和む。足の調子も良い。

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小田井宿に向けて進んでいくと、正面に蓼科、右後方に浅間山、左後方に八ヶ岳が見える。景色は少しずつ変わっていくが、時間の流れが止まったような錯覚に陥る。歩く旅ならではの醍醐味である。出発して1時間半ほどで、小田井宿に入り、しなの鉄道の御代田駅を右に見て、横断地下道を通り、岩村田宿まで約5㎞弱だ。あさぎり荘を出発して約1時半、佐久市に入った。

247-7.jpg247-6.jpgのサムネール画像
それから20分ほどして、中山道の道標が立ってあった。右に岩村田宿、左に小田井宿の道標だ。北陸新幹線の高架下を通り、佐久ICを右手に見て岩村田宿に入ると、千手観世音の石碑があり、少し進むと岩村田宿の北の入り口の住友神社に、その先の龍雲寺に着いた。ここ岩村田宿は内藤氏1万五千石の城下町だった。本陣や脇本陣はないが、この地方の経済の中心地として栄えていたと云う。

                                                                             

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  龍雲寺は屋根に武田菱がみられる。武田信玄が中興開山し、北信濃や西上州進出に龍雲寺を拠点にした。昭和6年に信玄の骨が境内で発見され、霊廟に安置されていると云う。 龍雲寺の鳥居の脇に、樹齢400年のケヤキがある。 幹は空洞で「住吉の祠」と云われ、境内には道祖神や石灯籠など多くの石碑や石祠があり、かつて旅人の信仰の対象になっていたという。                                                                                           

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龍雲寺から元の旧中山道に戻り、相生町の交差点を右折し、小海線の踏切を渡ると左手に若宮八幡神社の石碑があり、左に入っていくと神社がある。若宮八幡神社の由来は八幡社の本宮は大分県の宇佐八幡宮で主祭神は応神天皇、本来農耕神で、中世以降武士階級の人々が戦、武門の神様として厚く敬愛するようになり全国に広まったという。

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幕末皇女和宮が東下の折、野点をしたという「相生の松三代目」に到着した。石碑には「相生の松三代目」が彫られていた。野点(のだて) とは野外で茶を入れて楽しむことだ。この場所で休息してお茶を飲んだのだろう。141号線を横断し、中部横断自動車道の高架をくぐって根々井塚原の集落に入った。この集落は門構えの立派な家が目立って立ち並んでいるが、外に人影はない。腰の曲がった年配のおばあちゃんに私が挨拶すると、おばあちゃんから「今日は散歩にいい日よりだね。」と挨拶を返してくれたので、東京から歩いてきて今日で5日目だと答えたら、目を丸くして驚いていた。手を振って別れを告げた。

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わずかな会話だが、なんとなく気持ち良い。遥か遠くに八ヶ岳を仰ぎ見ることが出来る。下塚原地区から塩名田宿への崖に面して所在した駒形神社が右手にあった。本殿は重要文化財に指定されている。宇気母智命(うけもちのみこと)を祀り、文明十八年(1486年)佐久郡の耳取城城主・大井正継が再興したと云われている。

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 付近は道本城に拠った根井氏の領する所で、中世には広大な大地を利用して牧場が営まれ、古くは馬の産地であり、「駒形神人」との関係が示唆されているという。駒形坂を下っていくと塩名田宿だ。

塩名田宿は千曲川河畔の情緒ある宿場で、現在、家並みは新旧入り混じっているが、茶屋、煙草屋、乾物など昔を彷彿とさせる屋号看板が下がっている。

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本陣跡を通り、塩名田宿で最も古式の町や様式を伝えている佐藤家の町屋があった。目標地点の千曲川の中津川橋に11時過ぎに着いた。千曲川を渡るには徒歩渡し、舟渡し、橋渡しがあったが、明治時代には船をつないで板をかけた舟橋で渡ったという。その時に舟をつないでいた舟つなぎ石が河原に一つ残っている。            

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急な登坂を上がっていき、千曲川からおよそ3㎞で八幡宿に着いた。そして八幡宿の北の布施川に囲まれた御牧ヶ原台地は、平安時代、望月牧という官営の牧場で朝廷に馬を献納していたという。右手に八幡神社があった。この神社は国の重要文化財に指定されているという。さらに足を進めていくと「旧中山道元禄の道標」が見えてきた。

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そこには望月宿の名が石灯籠に鮮やかに彫られていた。八幡宿から望月宿まではおよそ3.5㎞、1時間弱の距離だった。望月宿は御牧ヶ原台地の官営の望月牧に由来するという。街道沿いには白壁土蔵土桁(だしげた)造りや格子の家並みが残っている。旧街道を宿場町の中心部に向って歩いた。 

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247-21.jpg事前に調べておいた蕎麦屋に着いた。暖簾をくぐって、中に入るとご主人が出てきた。今日は予約があり対応できないと云われた。奥に10人程度の客がいるようだ。一人くらい何とかならないかと交渉したが、いつもは奥さんと一緒なのだが、今日は留守にして自分一人では何ともならないと云われた。
食事をするところを訪ねると少し先にスパゲティ屋があるというので、行ってみると閉店の看板が掛かっていた。
247-22.jpg困った。急にお腹がすいてきた。仕方なく先に進むと、80歳位のおばあちゃんが軽トラから降りてきた。すかさず駆け寄って食事ができる店を訪ねたところ、道案内がもどかしいのか、途中で話すのを止めて、軽トラに乗せてくれた。約5分、バイパス142号線に出て、「天舟」というドライブイン形式の蕎麦屋に送ってくれた時は感謝感謝。お礼を言って見送った。店に入るとすぐに冷たい蕎麦茶が出てきた。一気にのみほした。247-23.jpgのサムネール画像い女性の店員さんに事情を話したところ、冷たい蕎麦茶のお代わりができる大きなピッチで持ってきてくれた。同時に塩分が必要だからとキュウリとナスの漬物を持ってきてくれた。気遣いの細やかな娘さんだ。そして天ざるそばが出てきた。天ぷらはもちろんのこと、そばも大変美味しかった。十割蕎麦とある。蕎麦好きの私にとって、美味しい蕎麦と天ぷら、何よりも塩味の効いたキュウリが美味しかった。旅先で困ったとき、ちょっとした心遣いを受けた経験は、いつまでも心に残るものである。おばあちゃん、娘さんありがとう。月宿の旧街道の家並みは昔賑わった痕跡が随所にみられるが、近くにバイパスができ、交通の流れが変わると、正午過ぎにも関わらず、旧街道には行きかう人はいなかった。休息を十分に取り、142号線をしばらく歩いてから、旧街道に入った。茂田井は望月宿と芦田宿の間に位置し、旅人の休憩用の町場「間(あい)の宿」とよばれた。芦田宿は客殿、問屋場(といやば)、酒造蔵など247-24.jpgのサムネール画像多くの建物で構成されている旧本陣土屋家が保存されているという。芦田宿を通り過ぎ、笠取峠の松並木の通りだ。道は整備され歩きやすい。その先には笠取峠の一里塚跡の石碑があった。その石碑には「中山道は,中仙道とも書くが享保元年(1718)に東山道の中枢の道であることから、中山道と呼ぶとあり、また木曽を通るので、木曽路ともいわれ、五街道の内では東海道に次いで江戸京都を結ぶ主要路線であった。この一里塚は一里毎につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつける習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目印として松の木が植えられた。」と記されていた。標に記されている長久保宿に向う。
247-25.jpg笠取峠の「峠の茶屋」を下って行くと、松尾神社前に「是より長久保宿」の木柱が立っている。長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、中山道二十六宿の中では塩尻宿に次ぐ数を誇っていたという。 

 

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宿場の前後に笠取峠、和田峠を控えていたことや、善光寺へと続く北国街道、諏訪地方へ結ぶ大門道が分岐する交通の要衝だったこと、また温泉場でもある下諏訪宿に泊まる場合、前日に江戸方の旅人は堅町、翌日に京方の旅人は横町に泊まるのが好都合だったことが、大きな宿場町になった要因だと云われている。

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明治初期に旅籠として建てられた「濱屋」は山間部の旅籠建築に多く見られる出桁造りになっているが、開業には至らず、現在は長久保宿歴史資料館一福処濱屋となって、休み処と宿場の成り立ちや街並みの紹介をしているという。4時を過ぎていたので、先を急いだ。四泊一里塚跡を通り過ぎると間もなく、旧道へY字路を右に行き、すぐに142号線と合流した。依田川にかかる大和橋を渡り、真直ぐ進むと和田宿に至る。今夜の「民宿みや」は大和橋手前を斜め左の152号線を進むことになる。和田宿に行くのには遠まわりになるが、この辺りには民宿はここだけだった。152号線に入り、左側に家が立ち並んでいた。

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その先に遠くに「民宿みや」の看板が見えてきた。夕暮れが迫ってきたので、少しホットした気持ちだ。長久保宿から山間の旧道を歩いていると、行きかう人はいなかった。初めて訪れる土地で空も薄暗く、肌寒くなってきたからだ。到着地の民宿がだんだん近づいてくる。歩く速さも自然と早くなる。    

247-29.jpg到着時刻1656分、予定より1時間20分の遅れだった。歩数計を確認すると、40.658,062歩だった。玄関を開け、チェックインすると若い女将さんが対応してくれた。ハキハキとした感じの良い人だ。この民宿の予約は娘に取ってもらった。ネットが繋がりにくかったので、電話で予約した。娘は私が出発する前にも電話で和田峠の旧道の状態を確認してくれた。日本橋出発の1週間前は和田峠の頂上には雪が残っているという。この時に対応してくれたのが、今、目の前にいる若い女将さんだ。娘から、声の印象からすごく親切な人だと聞いていたが、全くその通りだ。部屋は八畳くらいの和室だ。247-31.jpg

すぐ洗濯をし、部屋に干し終わると風呂に入って、6時に夕食だ。食堂は厨房と壁で隔ててあり、配膳口が整理されている。テーブルが4つの小さな食堂だ。お客は50代の夫婦と男性1人、そして私の4人だった。最初はコロナ禍でもあり、黙食だったが、食事が終わってお茶を飲むころには、誰とはなしに話が始まった。男性は50代後半くらいで、九州在住で23日ずつ歩き、九州の旧街道はほとんど制覇し、東海道、山陽道なども制覇したという。

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明日は望月宿方面に行くという。私とはタイプの違う歩きマニアと感じるとともに感心して聞いていた。ご夫婦は沖縄から来ているとのこと、夫婦で23日歩き、いったん帰宅し、翌月に23日の歩き旅に出るとのこと。明日は車で下諏訪に行き、下諏訪側から和田峠を越えて、戻ってくると云っていた。二人そろって歩きなれた様子だ。私は昨年東海道五十三次を13日間で京都まで行き、今年は日本橋から中山道六十九次を歩いて、5日目であること。14日間で京都の三条大橋に行く予定だと話したら、感嘆の声が上がった。そばで聞いていた若い女将さんが、下諏訪からの和田峠の登りはきついが、髙橋さんみたいに沓掛宿からこの「民宿みや」まで1日で来られる人であれば、こちらから登る和田峠は勾配が緩やかだから、ハイキングコースみたいだ。下りは急なので、気を付ければ、大丈夫だと云われた。そのうち民宿のご主人も出てきて大いに話に花が咲いた。



中山道六十九次旅日記(7)

4日目(4月12日)火曜日

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6時に起床し、変更した今日の計画を確認した。 6時30分に朝食、7時30分にタクシーを予約、横川駅に7時50分到着、電車の到着時間は803分の予定だ。早速、朝食をとるため、食堂に行くと既に10人位の人達が作業服姿で食事をとっていた。

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安中工業団地で仕事に来ている人達だ。準備を終えて、ロビーで待っていると、時間通りにタクシーが来た。タクシーの中で、大橋さんから予定通り横川駅着の電車に乗ったとメールが来た。大橋さんの提案で、中山道69次を歩いて旅をするのだから、今後、メールの文言はタクシーは早駕籠、電車は早馬との呼び名を変え て、洒落こむことにした。

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今日の予定は、松井田宿を早駕籠で通過し、横川駅で待ち合わせし、坂本宿、碓氷峠の旧道を登り、熊野神社から軽井沢宿に下り、沓掛宿と追分宿の中間にある宿泊地「あさぎり荘」までだ。                          確認して間もなく7時45分に到着した。やはり早駕籠は早い。ここ横川駅は街道の面影が残り、峠の釜飯で有名な荻野屋がある。定刻通り横川駅に電車が入ってきて、大橋さん、田部井さんが下りてきた。田部井さんは初めて25㎞を浦和宿まで歩いたとは思えない程、元気な様子だ。サァー出発だ。旧道に入ると、ここは坂本宿だ。               

                         

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坂本宿は寛永2年(1625年)に計画的に作られた宿場なの家並みが整然としている。家の表札に俳句人の屋号が記されていた。前後に碓氷関所と峠を控え賑わったという。今ではすっかり静かになってしまったが、碓氷峠の難所、刎石(はねいしやまに向って真直ぐのびる街道風景は今も昔も変わらない。
246-5.jpg芭蕉句碑の案内板の説明には、「寛政年間(1790年頃)、賈華本宿の俳人グループ竹睡庵連が、春秋庵加舎白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。高さ1.67m、基幅1.37m、厚さ0.2m、刎石茶屋の下手にあったものを明治年間に中山道が廃道となったため現在地に移転した。」と記されてあった。旧道の入り口に近づいたとき、地元の人が手前の左手の方が旧道だと教えてくれた。私は絵地図と違うので、少し躊躇したが、2人は先に進んでいる。246-4.jpg

私も続こうとしたとき、地元の人が、熊が出るから、鈴をつけたほうが良いとアドバイスがあった。私は持っていなかったが、大橋さんが持っているようだ。2人を追いかけるようにいくと、安中遠足入口の立看板があったので、この道に間違いないとホットした。いきなり急な上り坂が続き、難儀した。道は狭く整備されていないので、歩きにくい。慎重に歩かないと捻挫する恐れがある。珍しい景観の岩石あった。柱状節理といい、火成岩の冷却、固結するとき、亀裂が生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものであると記されてあった。

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先頭は大橋さん、2番目に田部井さん、そして私が 3番目、横川駅からおよそ1時間半、刎石の覗きと云われる場所に着いた。しばし休憩を取り大橋さんと記念写真、背景に坂本宿が一望のもとに見える。しばらく整備されたハイキングコースが続くとガイド本にあるが、前半の急な坂道を登ったため、体力を消耗した。息切れもする。前を行く2人は早い。私は疲れてくると後ろから大きな声で「小休止」と何度か叫んだ。休憩後、すぐに「四軒茶屋跡」の看板が目に入った。このような峠の奥深い所に、かつて茶屋があったとは驚きだ。刎石山の頂上で昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも屋敷跡が残っている(力餅、わらび餅などが名物であった) と記されてあった。現在では誰一人としてすれ違う人はいないが、四軒も茶屋があり、石垣跡の大きさから往時が偲ばれる。        

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さらに進むと「座頭ころがし」と呼ばれる石のごろごろした急な上りがある。道が整備されていないので歩きにくい。何度か休みながら、上っていくと山中茶屋跡があった。山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年中(1648~)に峠町の人が川水をみ上げるところに茶屋を開いた。

寛文2年(1662)には十三軒の立場茶屋ができ、 寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あったという。

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明治の頃、小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。山中学校跡は「明治十一年、明治天皇ご巡幸の時、児童が二十五人いたので、二十五円の奨学金の下附があり、供奉官から十円の寄付」があったという。このような厳しい街道を、明治天皇のご巡幸があったことも驚きだが、 小学校まであり、運営していたことに、再度驚いた。

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旧校舎を過ぎて間もなく先頭の大橋さんが立ち止まっている。静かにするようにと後ろを向いて、止まるように両手を挙げていた。近づいてみると大きなニホンカモシカがうずくまっている。体長1.5m以上はある。30秒ほど立ち止まって様子を見ていたが、こちらを見ているだけで、動く気配がなかった。我々3人は静かに通り過ぎた。熊でなくてよかった。横川駅を出発して3時間を過ぎ、 11時40分頃だった。最後の熊野神社まで、2㎞の標識があった。あともう少しだ。最後の山中坂の長い登り坂の頂上に行けば、ゴールともいえる熊野神社に到着する。熊野神社は群馬県と長野県の県境に建てられてあり、神社の真ん中に境界があり、神社の宮司さんは群馬県側と長野県側にそれぞれ二人滞在している。12時半に到着。

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名物の力餅を楽しみにしていたが、無情にも休業の旗が風になびいていた。田部井さんの提案で旧軽井沢に美味しい蕎麦屋があるとのこと。旧軽井沢に向って下り坂を下って行った。この辺りは熊野神社に参拝者のために道は舗装されていた。間もなく旧軽井沢の繁華街にはいろうとしたとき、右手に「日本聖公会 軽井沢ショー記念礼拝堂」の案内板と奥に礼拝堂が見えた。

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そこには「カナダ生まれの英国国教会(聖公会)宣教師A・Cショー師が家族を伴い軽井沢で避暑生活を始めたのは1886年(明治19年)、師は毎夏のこの地を訪れ、静思・静養・休養・信仰の場とするとともに、礼拝堂を設けて霊的よりどころとした。現在の礼拝堂は1895年(明治26年)に由緒あるこの地に建てられ、今もなお天地創造の神を賛美し、祈祷、静思、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている」と記されてあった。軽井沢を現在の避暑地に切り開いたのは、明治時代にこの地を訪れた西洋人だとは知っていたが、宣教師のA・C・ショー(アレクサンダー・クロフト・ショー)師その人である。

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初めて知った。学生の頃、テニスの合宿を軽井沢で行い、この地には何度か足を運んだが、メインストリートの奥に行かなかったので、気付かなかった。昼食の蕎麦屋に着いたのは午後1時を過ぎていた。天ざるそばを注文し、冷たい水を立て続けに飲みほした。田部井さんお勧めのそばは美味しかった。午後2時頃出発。大橋さんとは三日後の奈良井宿の民宿で、再度合流することを約し、二人は軽井沢駅に向かい、新幹線で帰宅した。私は旧中山道を約8㎞かけて、今日の宿泊地沓掛宿と追分宿の中間にある「あさぎり荘」向けて、歩き始めた。碓氷峠の登りはきつく、足が前に進まなかったが、平地になると足の疲れもさほど問題なかった。旧中山道は歩道も整備され、両側には洒落た建物が程よい間隔で建ってあった。

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コンビニで水を買い、歩き始めると国道18号線との合流地に中山道沓掛宿の宿場碑があった。ここから国道に入っていく。右手には旧近衛文麿別荘(市村記念館)がみえ、軽井沢中学校を左に曲がり直ぐに右に曲がると旧中山道だ。湯川の灰を渡って、再度国道18号線に合流し、中軽井沢駅前通りを直進する。このあたりも国道と旧道が入り組んでいるので間違えやすい。この中軽井沢駅前の交差点が沓掛宿の中心地である。なごりは旧脇本陣の元・旅館枡谷本店と八十二銀行駐車場の脇本陣蔦屋跡碑、本陣土屋の表札がある民家ぐらいであると云う。「魔の石」と云われる大きな石があった。玉垣明神魔の石の案内によると「昔、神社の前の道端に大きな石があって馬の乗り降りに便利でしたが、利用した人に足を患う人が多くあって、魔の石と呼ばれていた。皇女和宮が徳川へ輿入れの時に患いがあってはと、取り除こうとしたが、大きく重くて動かなかった。後の明治天皇のご巡幸の時にはこの石が簡単に掘り出せた。村人はあまりの不思議さに驚いてこの石を境内に安置して玉垣を巡らせ「玉垣明神としてまつった」」と記されてあった。

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その境内とは遠近宮(おちこちのみや)のことである。遠近宮は、「御祭神は磐長姫命。創建は不詳だが、借宿地方開発の当所守護神として奉祀された。「信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人のみやはとがめん」 (伊勢物語)という在原業平作の有名な歌にちなんで名づけられたと思われる。磐長姫命は浅間山の守り神であり、富士山の木花咲耶姫命の姉君であり、特に安産の守護神として御神徳が高い。」といわれている。都育ちで京都のなだらかな山並みを見慣れた業平にとっては、山頂から噴煙をたなびかせる荒々しい浅間山の様子にさぞや驚愕し、畏怖の念を覚えたとのことでした。

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ここから10分もしないうちに「あさぎり荘」に着いた。外観は2階建ての少し大きな民家である。チェックインし、部屋に落ち着いたのは15時40分予定より、10分の遅れだった。今日の歩いた距離は歩数計によると31㎞、35,686歩だった。碓氷峠の山道を歩いたので、シューズがひどく汚れていた。玄関の洗い場で汚れを落とし、玄関で乾燥させてもらった。風呂に入り、リラックス。

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2階の部屋から見える浅間山を見ながら、大きく手を上に上げて背筋を伸ばし、前半の難所を歩きとおした満足感が沸き上がってきた。6時に夕食の時間。日常では起きない空腹感を感じた。客は私一人。食事は野菜盛り合わせとハンバーグ、春巻き、肉じゃが、漬物、ご飯をお代わりして美味しくいただいた。民宿の女将さんと話をしながらの食事は、非日常的なことだ。この民宿にはどのような人が泊まりに来るのですかと質問したら、中山道を歩くツアーの人が多いと云っていた。日本橋から北本宿、深谷宿、安中宿、そして今日碓氷峠を越えてきたと話したら、驚いていた。中山道のツアーは2泊3日で歩いて、月を変えて各宿場を歩いていくのがほとんどで、私みたいに一人で、連続で来る人は珍しいと云われた。それで驚いたのだ。明日は追分宿、小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿、芦田宿、長久保宿、そして和田宿入り口の「民宿みや」の約40㎞の道のりだ。チェックポイントは小田井宿の御代田一里塚、岩村田宿の住吉神社、塩名田宿の相生の松、駒形神社、望月宿の大友神社、芦田宿の金丸土屋旅館、長久保宿の松尾神社、そして「民宿みや」だ。明日のルートの確認とストレッチを行い、9に就寝。今日の一日は終わった。

中山道六十九次旅日記(6) 

3日目(4月11日)月曜日

5時起床し、6時にホテルを出発した。今日の予定は安中宿を過ぎ、松井田宿寄りに位置する「ビジネスホテル宝泉」だ。約39kmの行程、到着時間は午後3時の予定だ。日程表を作るとき、出来るだけ碓氷峠手前まで行こうと計画した。昼過ぎには碓氷峠のゴールともいえる熊野神社に到着したいからだ。そのために初日50km2日目は49kmと無理な距離の計画を立てた。3日目は松井田宿まで41kmを計画したが、松井田宿近郊に宿泊する旅館がない。松井田駅から5km10kmの距離に温泉旅館があるが、それでは45km50kmを歩くことになる。3日続けて50kmを歩くのは、自分の現在の体力では無謀だ。最初の難所の碓氷峠を無事に超えることができない。昨年の東海道五十三次を歩いた時も箱根の旧道を越えて、芦ノ湖で宿泊し、体力の温存を図るか、そのまま三島宿まで行くか悩んだ。そのため出発前に46kmの歩行を6回行い、自信をつけた。そして三島宿までいくことにした。箱根は標高約850m、碓氷峠は標高1200mだ。体力温存のため、松井田宿手前に見つけたのがビジネスホテル宝泉だ。周辺の状況を確認することなく、予約を入れた。これがのちに行程を変更するほどのアクシデントになるとは思いもよらなかった。

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今日の予定は本庄宿を出発し、新町宿、倉賀野宿、板鼻宿、安中宿を通って、早い時間にホテルに入り足の疲れを取る予定だ。天気予報では気温が12~26℃と高くなるのが心配だ。出発して順調に旧中山道に入り、金鑚神社を右手に見て、462号線を陸橋で渡り、しばらく歩くと左手に浅間山古(せんげんやまこふん)の案内板があり、赤い鳥居があった。

245-3.jpgこの古墳は前方後円墳で、国の史跡に指定されている。関東地方で太田天神山古墳、舟塚山古墳に次ぐ第3位の規模で、4世紀末から5世紀初頭の築造と云われている。次に神流川の神流橋を目指した。を渡ると神流川古戦場の碑があった。神流川の戦いは、天10616158275日)から6月19日にかけて、織田信長が本能寺の変によって敗死したのち、織田方の滝川一益と北条氏北条氏邦が武蔵国賀美郡周辺で争った戦いで、戦国時代を通じ関東地方で最も大きな野戦と云われている。
245-4.jpg北条軍5万、滝川方の上州軍1万6千で戦ったと云う。かつて歴史小説を読み漁っていたが、この戦いは初めて知った。滝川一益は近江国甲賀郡の生まれで、織田氏の宿老の一人で、織田信長に従い天下統一の事業に貢献した人物だ。この時の時刻は7時半を回っていた。

次の宿場町の新町宿は中山道が開かれた後に落合
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町と笛木新町が合併してできた宿場町で、明治天皇が北陸・東海巡幸の際、宿泊所として新築した屋敷が保存されているという。見学せず、次の倉賀野宿に向った。関越自動車道の高架をくぐって鳥川堤のサイクリングロードへ上がり、鳥川にかかる柳瀬橋を渡り、間もなく岩鼻町の交差点を左折し、高崎線を横断した。倉賀野宿の東の入口に入ると、文化11(1814年)に建立された常夜灯と道標、閻魔堂があり、ここ倉賀野追分は中山道と日光幣使街道の分岐点になる。町並みは脇本陣須賀家の連子格子の古い家など古い建物が所々に残っていた。右手には高崎線の倉賀野駅が見える。その先の右手には群馬県指定史跡の安楽寺と異形板碑があった。
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倉賀野は中山道の十二番目の宿場で大変栄えていたが、鉄道が敷設されると衰退てしまった。安楽寺の御本尊は七仏薬師如来であるが、古墳の中にある仏様で大変珍しいお寺、 古墳は七世紀末頃に建てられたと云われている。高崎宿まではほぼ一本道で、途中に若木20ほどで道路の南側だけだが、倉賀野松並木が復元されていた。

次に向った高崎宿は商業が盛んな城下町で、本陣・脇本陣は既になかった。高崎は今や大都会だが、乾櫓やお堀を残す高崎城址、鍛冶町、鞘町など城下町ならではの町名に昔日をしのぶことが出来る。市内に入って上越新幹線の高架をくぐり、上信電鉄の踏切を渡り、左手に南高崎駅を見て、高崎市内中心に入っていった。通行人は閑散としていたが、歩道は綺麗に整備されていた。高崎駅前通りの交差点にファミレスがあったので、12時前だが、昼食をとることにした。気温が高かったので、少し疲れた。ランチを頼みアイスコーヒーをお代わりして、大腿筋前部を伸ばすため、靴を脱ぎ正座して45分ほど休憩した。足の疲れが和らいだが、腰に違和感がある。次に進む旧中山道のチェックポイントは君が代橋、板鼻宿の鷹之巣橋、松井田宿手前のホテルだ。

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ファミレスを後にして本町3丁目を左折し、しばらくすると鳥川にかかる「君が代橋」が見えた。橋の手前端に鳥川の「君が代橋」親柱の記念碑があった。明治11年に明治天皇が北陸東海行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されたと云う。この「君が代橋」の親柱は昭和6年に木橋から鋼橋にかけ替えられた時のもので、昭和52年よ10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され、「君が代橋」も新たに架け替えられたため、ここに移設されたと記してあった。この「君が代橋」からは赤城、榛名の山々が一望できるはずの日は春霞ではっきり見ることが出来なかった。

245-9.jpgのサムネール画像このまま真直ぐに行くと信州街道を行くが、左に折れると旧中山道に進む。案内板に少林だるま寺直進2㎞、直進小諸、安中とあった。今から200年前天明3年に浅間の大噴火など天変地異が多く起こり大飢饉となった。この惨状を見かね、少林寺達磨寺の東獄和尚は農民の困窮を見かねて、寺に伝わっていただるまの絵より木型を起こし、農民の副業として張り子の達磨の作り方をおしえた。現在も高崎の達磨として全国に名が知られ、板鼻の町にも達磨工房が多くみられると云う。

この上豊岡はダルマ工房が多いせいか、街道沿いに達磨のニュメントが多数あった。周りの山々を見ながら、

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碓氷川沿いの道路(国道18号線)を歩き、板鼻下町を真直ぐ進み、板鼻宿に入った。本陣跡の碑と共に皇女和宮資料館が目に入った。この建物は、板鼻宿本陣に付属した書院で、建設年代は2説ある。

。公武合体運動により皇女和宮親子内親王(1846年~1877年、孝明天皇の妹)が第十四代将軍徳川家茂(1846年~1866年)に降嫁するため、中山道を京都から江戸への下向途次、文久元年(1861年)十一月十日に一夜を     
この書院で過されたと云う。幕末の小説には必ずと言って良いほど公武合体のため、皇女和の降嫁の話
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出てくる。小説のお陰でる程度の知識はあったので、京都に向かう各宿場町の本陣に皇女和宮の足跡をたどれると思うと楽しみだ。同時に改めて幕末の中山道に思いを馳せて歩くことの感慨がわいてくる。チェックポイントの碓氷川の鷹之巣橋に着いた。安中駅までもう少しだ。南側に碓氷川、北側に九十九川(つくもかわ)が流れる安中の町は高台に位置する。街道の沓掛から先の地名と木曽街道の地名はあまり知識がないので、友人に勧められた浅田次郎」と島崎藤村の「夜明け前」を読んで地理と地名を覚えるようにした。その物語の中で、「一路」の主人公が窮地に陥った時、安中藩・藩主板倉勝明の助けを借りて、参勤交代の江戸到着遅参の書状を事前に幕府役人に渡さないとお家の取り潰しに合う。江戸まで期限に間に合うように、藩士3名に命じて約100kmを一夜で走っていく。それも3人縦列で先頭がが風よけになり、一定の間隔で先頭者は3番目に後退し、2番目が先頭にあがり、3番目が2番目へと上がる。幕末の中山道に思いを馳せて歩くことの感慨がわいてくる。チェックポイントの碓氷川の鷹之巣橋に着いた。安中駅までもう少しだ。南側に碓氷川、北側に九十九川(つくもかわ)が流れる安中の町は高台に位置する。街道の沓掛から先の地名と木曽街道の地名はあまり知識がないので、友人に勧められた浅田次郎の「一路」と島崎藤村の「夜明け前」を読んで地理と地名を覚えるようにした。
その物語の中で、「一路」の主人公が窮地に陥った時、安中藩・藩主板倉勝明の助けを借りて、参勤交代の江戸到着遅参の書状を事前に幕府役人に渡さないと、お家の取り潰しに合う。江戸まで期限に間に合うように、藩士3名に命じて約100kmを一夜で走っていく。それも3人縦列で先頭が風よけになり、一定の間隔で先頭者は3番目に後退し、2番目が先頭に上がり、3番目が2番目へと上がる。順繰りに隊列を入れ替えて、早く走り無事に遅参の書状を届ける描写だ。

その素地にあるのは藩主板倉勝明が安政2年(1855年)に藩士の心身鍛錬のために「安政の遠足(とおあし)」を行った。遠足とはマラソンのことで、碓氷峠の熊野権現まで走らせ、着順を競わせたと云う。今では毎年5月第2日曜の「安政遠足 侍マラソン」に大勢のランナーが参加している。大名小路と名付けられた安中藩士の家が並んでいる道 には、旧安中藩郡奉行役宅、旧安中藩
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武家長屋が保存されていた。その少し先に新島襄旧宅案内板があったが、旧宅の史跡は見ずに、通り過ぎた。新島襄は同志社の創立者で天保14年(1843年)、安中藩の江戸詰め下級藩士の長男として生まれ、国家の改革者、日本の近代化の先導者になったという。
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あと6㎞と少しだ。群馬県立安中総合学園高を左に見て、国道18号線を渡り、安中原市の杉並木を進み、高札場跡の碑と明治天皇小休所の碑を左手にみて進んだ。あと30~40分の所まで来たのだが、歩いている旧中山道沿いは自然がいっぱいでホテルがあるとは思えない。遠く先を見ても同じだ。ナビでホテルすぐ近くに来たが、安中工業団地の大きな看板があるだけで、工場も相当先にあるようで目視できなかった。ホテルに電話して道を聞くと道路から少し下がった所にそれらしいところがあった。周りにコンビニも商店も何もない。困った。とりあえずチェックインした。到着時間は午後3時の処、45分オーバーの3時45分だった。風呂に入り着替えてから、1日の行動を確認した。歩数計での数字は約40㎞58,535歩を要した。6時に夕食を取るため、食堂に行った。中年夫婦が二人で経営しているビジネスホテルだ。野菜と肉料理で種類も多く美味しかった。部屋に戻り、翌日の日程の確認を行った。初日に日本橋から浦和宿まで一緒に歩いた田部井さんからメールが来て、4日目の碓氷峠を同行したい旨のメールだった。もちろん快諾した。また、友人である大橋さんとは日本橋を出発する前から、横川駅で合流し、碓氷峠を越えて軽井沢までいこうと計画した。しかし困ったことが起きた。朝食時間は6時30分からだ。私は6時に出発しないと横川駅待ち合わせ時間8時03分に間に合わない。朝食はコンビニで購入しようと考えたが、宿の人がホテルの周辺にコンビニはないと言う。おにぎりは用意出来るが、飲み物の自動販売機がない。近くに商店もないという。横川駅まで約9.1㎞約2時間だ。水がないと途中でへばってしまう。やむを得ず計画を変更して、7時30分にタクシーを予約して横川駅に行くことにした。計画段階の失敗だ。





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