東海道五十三次旅日記(17)

東海道五十三次旅日記(17) 

東海道17-1.jpg天竜川には新天竜川橋と古い天竜川橋の2つがある。ナビの通りに古い橋の道を行って手前で右に曲がるのだが、1つ手前を間違って曲がった為、歩道がある新天竜川橋に行くことが出来ない。歩道は見えるのだが、ショートカットできるような道はなかった。再度ナビを使い、30分程遠回りをして新天竜川橋の歩道に出ることが出来た。天竜川は川幅の大きな川で渡りきるのに11分かかった。その後、断続的に松並木の旧街道を歩き続けた。浜松市内に入り昼食を取ることにした。1150分に浜松駅前にあるうなぎ専門店の「うなぎ八百徳本店」に入った。この店は明治から創業で友人から教えてもらった。鰻重を注文し、美味しく頂いた。40分の休憩を取って、1230分に出発。店を出たところ目の前に「本田宗一郎創業の地」の石碑が立ってあった。想像もしないところに石碑を発見するのも一人旅の醍醐味である。目的地の舞阪宿のホテルまで13km約3時間だ。徳川家康の居城浜松城はすぐ近くにあるのだが、日程通り京都に到着するのを最優先にしているので、先を急いだ。出発後間もなく雨が降ってきた。小雨なので90分くらい傘をさして歩いた。春日神社を過ぎると、間もなく舞阪駅だ。舞阪宿は浜名湖の渡しを控えた宿場で貴重な脇本陣が残る。脇本陣は東海道に現存する唯一の遺構で、大名用の上段の間を備えた見事な建物であると云う。舞阪駅の近くから始まる松東海道17-2.jpg並木は、街道の両側におよそ700mも続く情緒あふれる場所である。次の駅の弁天島駅の前にある宿泊地「浜名湖弁天リゾートオーシャン」に着いた。しかしホテル名が予約したのと微妙に違うので、ホテル玄関口にいたホテルの人に、ホテル名の確認をしたところ、間違いはなかった。しかし駐車場の使用の有無を確認するためだと思うが、お車ですかと聞かれた時にはなぜか不愉快になった。リュックを背負い帽子をかぶって歩いてきたのに、またこの服装でお車ですかはないでしょうと思った。皮肉を言いたいところだが、疲れていたので、早くチェックインし足を冷やしたかった。いままではビジネスホテルに宿泊したが、大浴場のあるホテルは足を伸ばすことが出来るので、足の疲れを取るのに良い。食事はホテル側の方針で密を避けるためルームサービスとの事だった。今日を振り返ると到着は予定より40分おくれて午後340分だった。途中足裏が痛くなったので、確認したところ両足踵の外側に大きな水膨れがあり、右足の人さし指と中指の間にも水ぶくれができていた。治療を行い9時に就寝した。

東海道五十三次旅日記(16)

東海道五十三次旅日記

7日目(5/1)土曜日 掛川宿出発           

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午前3時に起床、軽くストレッチを行い、前日にコンビニで買ったお握りと菓子パン、そして野菜ジュースで朝食を済ませた。本日、宿泊の舞阪宿にある「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」まで42㎞、約9時間の道のりだ。到着地の天気予報は午後3時頃から小雨の予報なので、雨が降る前に到着するように、朝5時に出発した。到着時間は午後3時を予定。今日は掛川宿から袋井宿、見附宿、浜松宿、舞阪宿の道のりだ。最初の袋井宿は東海道五十三次のちょうどど真ん中の27番目の宿場である。掛川宿から断続的に続く松並木は久津部(くつべ)あたりで、終わりになるという。出発前にナビとガイド本の絵地図を確認、ホテルは掛川駅の南側なので、駅の北側に出て駅前通りの二つ目の十字路を左折すると旧街道に出る。いよいよ出発だ。朝5時の天気は晴れ、少し肌寒いので、半袖シャツに長袖のパーカーを羽織った。しかしここでもナビを頼りに旧街道に出ようとしたが、住宅街に入っていき、なんとなく住宅街の中を回っている感じがした。2030分の間ナビで正常なルートに戻ろうとしたが、方向感覚が狂ってしまった。犬の散歩していた地元の人に絵地図を見せて教えてもらった。10分ほどで旧街道に出た。

この近くには十九首塚と云う平将門と家臣19人の首実検が行われた場所がある。平将門は小生の自宅から30分ほどした常総市が出生地といわれ、ここを拠点に関東を治め、「平将門の乱」と云われる天皇に反旗を翻した豪族で、藤原秀郷の連合軍に坂東市東海道16-2.jpgのサムネール画像のサムネール画像あたりの合戦で命を落したと云う。平将門の本を読み思い出していたが、今回の旅では観光はしないと決めていたので、通り過ぎて先を急いだ。2時間位して体が暖まってきたので、半袖シャツになり快調に歩く。ホテルから旧街道に出るのに戸惑ったので、予定より時間がかかった。ガイド本の地図を見ながら、自分の位置を確認、東名高速道路を交差した少し先に原野谷川をわたる同心橋がガイド本にあり、道が間違っていないことが確認できて一安心。断続的に続く松並木を後に七ツ森神社を右手にみて、袋井市の「東海道どまん中茶屋」を通過し、ひたすら歩き見附宿に向かう。見附宿天竜川の渡船業務を担う宿場であり、姫街道との追分でもあったので、多くの旅人で賑わったと云う。見附宿の姫街道の道標を左に曲がって、東海道の磐田駅に向かい駅手前で右に曲がって、天竜川に向かった。

東海道五十三次旅日記(15)

東海道五十三次旅日記

「日本橋から歩いて、今日で6日目です。京都の三条大橋まで歩いていきます。」と答えると二人ともに驚いた表情を浮かべた。「頑張ってください」と云われ、ここまで歩いて6日目。初めて行き交う人との短い会話だったが、妙に元気が出てきた。声を掛けてくれてありがとうと心の中で思った。非常事態宣言下では街中は別として行き交う人は本当にすくなかった。昼食はコンビニでおにぎり1個とスポーツ飲料2本を購入して、短い昼食をとった。この後は箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道三大難所と云われた小夜の中山峠を越えて、急坂の二の曲りを下っていくと日坂宿に到着する。人の気配が全くない山道を日坂宿目指して歩いた。日坂宿は江戸期の町割りと旅籠が残る小さいながらも貴重な宿場町で、宿内は約700m、人口750人、旅籠は33軒あり、当時の面影を残している。日坂宿を通り、宿泊地の掛川宿に向かった。掛川宿は内助の功で有名な山内一豊が整備した城下町、そして宿場町である。足の運びは快調だ。目印の掛川駅近くの馬喰橋を通過すと、本日宿泊するホテル「スマイルホテル掛川」に向かい、17時に着いた。到着予定時間を1時間以上オーバーした。道の間違いを2回もして45km余計に歩いたのが影響した。チェックインしてバスタブに水を張り、足を冷やした。汗を流して、掛川駅近くの「ウナ専」という店で特上のうなぎを注文、ビールも頼んだ。東海道五十三次の旅で初めてビールを飲んだ。9時就寝。

東海道五十三次旅日記(14)

東海道五十三次旅日記
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6日目(4/30)金曜日 岡部宿出発

4時起床。6時半に食堂に行き、朝食を食べる。今日の日程は旅館を7時半に出発し、藤枝宿、島田宿、金谷宿、日坂宿を通って、掛川宿の東海道本線掛川駅近くの「スマイルホテル掛川」まで、409時間の予定だ。5日間の経験から1時間5kmで計算し、昼食と休憩で1時間をプラスするので、40㎞の場合出発時間に1時間を加えて、9時間見れば十分だ。15分ほど歩いて仮宿交差点を通り過ぎ、しばらくして旧街道に入るため、左折した。するとだんだん住宅街に入っていき、同じ所をぐるぐる回っている。ナビを見ても方向がつかめない。1時間ほど回り道をして国道1号線に出ることが出来た。藤枝宿の町に入り、ナビとガイド本の絵地図を見ながら、目印の藤枝市外れの勝草橋を渡り、道順に間違いがないか出来るだけ忠実に旧街道を歩いた。国道1号線の青木交差点を通っていくと、藤枝駅が近い。雨が降ってきたので、傘をさして線路沿いを1時間以上歩き、島田市に入った。島田市の御仮屋町の道標があり、国道1号線日本橋から208kmと記されていた。

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いよいよ大井川を渡るぞと意気込んだが、道を間違えて、住宅街に入ってしまった。方向感覚もくるってしまい、1時間は無駄な距離を歩いてしまった。ようやく大井川の橋の入口に着いた。大井川の川幅は大変広く、橋を渡りきるのに16分かかった。水量は少なかったが、大雨が降ると何日も足止めになり、逗留したという。江戸時代、大雨が降ったら「箱根8里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川------」という俗謡がある。この大きな川が氾濫したら、何がどうあっても川を渡ることはできないと云う意味が良くわかった。便利に新幹線に乗っている時は、この大井川を渡る事の大変さも分からず、数秒で通り過ぎるので、川幅には気が付かなかった。大井川を渡って金谷宿に向かった。金谷宿は大井川の川越しと金谷の急坂に挟まれた宿で、広重は五十三次の浮世絵で金谷宿の大井川の徒歩渡しを描いている。大井川鉄道金谷駅の下にある一里塚を過ぎてガードをくぐって坂道を上り、金谷の石畳を目指した。「金谷宿の石畳」は江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人達が歩き易いように山石を敷き並べたものであると云われている。近年、僅か30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されたと云う。石畳の登り430mの勾配は箱根越えに優るとも劣らなかった。ゆっくりと足元を確認しながら登った。登り切った時の爽快感と安堵感は言葉に表すことが出来ない。その時、子供を連れて散歩していた若い夫婦が、私のリュックを背負った格好を見てだと思うが、「どちらから来たのですか」と話しかけてきた。

東海道五十三次旅日記(13)

東海道五十三次旅日記

今朝電話で旅館に確認した時、バスで行くことを告げたら、旅館の女将さんらしき人が「藤枝市役所岡部支所で下車したら、郵便局が見える。その先のピンク色のペットショップの隣です」と教えてくれた。しかし郵便局が見えない。様子が違うと感じたので、ナビで「藤枝市役所岡部支所」のバス停を検索したら、15分くらいなので、傘をさして歩いていくことにした。しばらくすると郵便局が見えた。ピンク色のペットショップも見えた。隣が目的の旅館なので、安心した。しかし旅館の名前が違う。「きくや旅館」の看板が掛けてあった。ネットで調べても岡部宿近辺にホテル・旅館がないので、ガイド本にある岡部観光案内所に電話して、聞いたのが「つくや旅館」。目の前にあるのは「きくや旅館」でした。一般の家の玄関みたいなので、ブザーを鳴らした。女将さんがでて来た。電話に出た人の声だ。予約した名前を言って確認できた時はほっとした。案内所の方に聞いたとき「きくや旅館」を「つくや旅館」と聞き間違していた。出発の時から疑問に思っていたことがようやくとけた。ネットで探しても「つくや旅館」はヒットしなかった。チェックインをして案内されたのが7.5畳二間の畳部屋でした。旅装を解いて早速風呂に入った。家庭風呂の2倍くらいの大きさがあり、足を十分に延ばすことが出来た。翌日の道順の確認を行い準備が終わった。6時が夕食の時間だ。食事は部屋に順次運んでくれた。バランスのとれた料理で、大変美味しかった。ビジネスホテルだとフロントの人との会話がない。ここでは宿泊客は私一人、食事の給仕をしている短い時間ではあるが、話が弾んだ。女将さんは私と同い年、昔は30件近くの旅館が有ったが、今では自分のところだけになってしまったと屈託のない笑顔で話されたのが印象的だった。もう年なので辞めようかと思っているが、時々東海道旧道のツアーの予約が入るので、続けていると云っていた。ご主人は公務員でだいぶ前に定年退職され、週23日は会社の手伝いをしているとのこと、子供たちは成人して家庭を持ち、家を出て他所で独立しているとのことでした。東海道五十三次をスタートして毎日40㎞歩くと、太もも、ふくらはぎ、足裏が悲鳴をあげている。寝る前にいつものストレッチを行うが、畳部屋でやり易い。右足踵の右側面にマメができた。大きいバンドエイドで痛みを和らげる処置を施し、9時に就寝。

東海道五十三次旅日記(12)

東海道五十三次旅日記                                                                                                       

5日目(4/29)木曜日 由比宿出発
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4時に目が覚める。まだ薄暗い外を見ると雨が降っていた。次の岡部宿までの天気をチェックするが、昼に向けてだんだん雨と風が強くなる予報だ。今日の予定は7時に出発し、薩埵(さつた)峠を越えて、清水駅を通り岡部宿まで36km8時間の道のりだ。6時半に食堂に向かい朝食を頂いた。朝食にしては品数も多く、美味しく頂いた。本来天気が良ければ、薩埵(さつた)峠からの富士山が一番美しい。しかし外は雨模様で見ることはできない。予報通りだ。清水駅まで3時間もあれば到着するので、雨がもっと強くなったら清水駅から電車で行くことも考え、旅館のご主人に相談した。ご主人の話では雨だけでなく、強風大雨注意報が出ているから、やめた方が良いとのことだ。私はあきらめきれず、食堂に9時頃までとどまり、様子を見ていた。だんだん雨と風が強くなる。部屋に戻り、旅行行程を確認し、徒歩で行く計画を中止し、電車とバスで岡部宿の旅館に行くことにした。1時間当たりの降水量が34mm以下ならば問題ないが、それ以上になると雨具を着けても、雨が体に入ってきて来ると疲れが倍増する。その上強風ならばなおさら、きつくなる。まだ旅は5日目だ。風邪を引くリスクは避けねばならないので、令和版の東海道五十三次と洒落込んで、電車で行くことにした。岡部宿まで電車とバスを乗り継いでいく旨をご主人につたえた処、近くの東海道本線の由比駅まで車で乗せていってくれると申し出があった。駅で丁重にお礼を述べて、藤枝駅に向かった。藤枝駅で昼食を済ませ、バス停の場所を確認してから、喫茶店に入り時間調整を行った。藤枝駅発144分、降りるバス停は藤枝市役所岡部支所だ。所要時間約40分。しかし路線バスに乗るのは40年来なく、心配だ。バス停の案内板を見るとスマホの乗換え案内で確認した出発時間と違う。案内所に行って、確認したら、なぜか案内板ではなく電光掲示板の方が間違いないと教わった。よく見たら違うバス会社の人に聞いていた。本来のバス会社の案内所には休憩中のカードがぶら下がっていて、誰もいなかった。隣のバス会社の案内所の人に聞いていた。自分のドジさ加減に一人苦笑した。親切に教えていただいた方には感謝。バスに乗り、下車するバス停を、目を凝らしてみていた。40分位したところ、バスの前方の下車案内に岡部の文字が目に入ったので、迷いなく下車したが、下りてみると何となく雰囲気が違う。バス停の名前を再確認したら、岡部営業所となっていた。

東海道五十三次旅日記(11)

東海道五十三次旅日記

岩淵一里塚を過ぎて、東名高速道路と新幹線のガード下をくぐり、東名高速道路下を通った。そして蒲原宿を通過し、由比宿の入り口に着いた。由比宿は江戸後期の人口が700人余りで、宿内の長さが600m余りの小さな宿場だったという。歌川広重の作品を中心にした東海道広重美術館があり、その向かいに正雪紺屋という藍染用のかめや染物用具、貴重品を運び出す用心籠などを扱っている店があり、この紺屋は江戸時代初期に幕府転覆を企てた由比正雪の生家と云われている。雲行きが怪しくなってきたので、これらの旧所名跡を通り過ぎ、予約してある割烹旅館西山を探す。住宅地の細い道を通り、到着した。到着予定時間3時であったが、道に迷ったこともあり、午後4時半、徒歩距離は40㎞であった。当初の計画では35kmだったが、5kmも余分に歩いた勘定だ。
                                
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しかし足の調子が良いせいか疲れはほとんどなかった。この由比宿近郊にはビジネスホテルはなく、探し当てたのは割烹旅館西山1件であった。非常事態宣言が出されている最中の旅なので、当然である。チェックインし、帳場と部屋は別の建物になっているので、中庭を渡って、部屋に案内される。部屋は和室7部屋で、宿泊客は私一人であった。早速、浴衣に着替えて風呂に入り、疲れた足を延ばせるのが心地よかった。6時の夕食には宿の女将さんと世間話をしながら、旬の桜えびを使った料理を中心に、これも旬の生シラス、太刀魚、刺身、牛肉と野菜の卵とじ、サザエのつぼ焼きを食べた。美味しかった。女将さんから由比宿を出て、薩埵(さつた)峠から見る富士山は最高だからぜひ見てくださいとすすめられた。食後部屋に戻り、頼んでおいたマッサージ師に足裏とふくらはぎを中心にお願いした。マッサージが始まると強すぎる弱すぎるちょうど良い状態にならない。話をしてみると本業はゴルフ場のグリーンキーパーとの事。それを聞いてマッサージの事はあきらめ、ゴルフの話で盛り上がったが、明日の揉み返しが心配だ。寝る前に翌日の天気予報をチェックし、計画の確認を行った。翌日の朝は曇り、その後雨が強くなり大雨・強風注意報の予報であった。心配だ。

東海道五十三次旅日記(10)

東海道五十三次旅日記                   

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4日目(4/28)水曜日 三島宿出発

5時起床、6時に朝食を取り、7時に出発。3日間はハードな日程を組んでいたので、4日目は余裕を持った日程を組んだ。予定は7時出発、由比宿の割烹旅館西山まで、35km。到着予定時間午後3時を頭に入れて、出発した。足の調子は痛みもなく快調であった。しかしナビを使ってホテルから国道1号線に出る予定が、30分程歩いても国道に出ない。そのうち住宅街に入ってしまい、迷子の状態になった。犬の散歩をしていた人がいたので、道を聞いた。ナビより分かりやすい。20分もするとようやく国道1号線に出た。自分の現在位置がはっきり分かったので、ナビと古地図を見ながら、沼津一里塚跡を目標に仕切り直しした。道が明確になり、足の進みが早く感じる。昨夜の善整骨院の治療の効果だろうか。更に沼津宿を通り過ぎ、左手に駿河湾、右手に富士山という位置取りであるが曇っているので富士山を見ることが出来なかった。原宿を通り過ぎ、東海道本線の吉原駅手前の踏切を渡り、河合橋を渡ると、東海道新幹線のガード下が見えた。吉原宿の目印である錦町北の交差点を左折し、高島交差点、富安橋を過ぎて、富士総合庁舎に向かった。その後道なりに富士川の富士川橋に向かい橋たもとの水神社に着いた。

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この辺りは一番下流の渡船場で、富士川は船運により甲信地方と東海道を結ぶ経済的大動脈でもあった。富士川橋を渡り、間の宿岩淵にある小休本陣常盤邸を取り過ぎた。間の宿とは宿泊が許可されていないので、大名などの休憩施設は小休本陣とか茶屋本陣と呼ばれていた。間の宿は幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていた。しかし宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場間に休憩用の「宿」が置かれ「間の宿」と呼ばれていた。                                                  

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東海道五十三次旅日記(9)

東海道五十三次旅日記 

東海道9-①.JPG歩く事40分、別荘が散在する所に入り込み、坂を下りていく途中に視界が広がり、芦ノ湖が見えた。この感激と達成感は言葉にならなかった。住宅地を下りて行き国道に出た。そのまま箱根の関所を見学したが、まだ朝早いせいか店は開いていないし、観光客も疎らだ。食事と休憩をとれるところを探し、1030分食堂に入った。リュックを下ろし、靴を脱いで、座敷に上がった時、箱根八里を無事越えたことの安堵感は第三者には理解しがたいものがある。食事を取りながら、小田原から箱根峠まで2.5km手前であるが、ほぼ予定時間通りに到着したことを振り返った。旧街道の石畳というよりは、大小様々な石を敷いてあるだけで、石に苔がびっしり、足元をしっかり見ていないと、足を捻挫する危険がある。旧街道では誰にも合わなかったが、箱根の国道に出る時、徒歩でのツアー客約30人が旗を持った添乗員に前後を挟まれて、私の前を通り過ぎて行った。高齢者全員がトレッキングの服装で、ストックもリュックに装着していた。私は歩道が狭いので、彼らが通りすぎるのを待った。もっと早く歩いてくれ。

東海道9-②.JPG自分も通り過ぎるあいだ立ち止まっていると、足 が痛くなってしまう。長時間歩くと太ももの前の筋肉の可動域が少ないので、筋肉が硬直する。ようやく通り過ぎ、歩き始めた。間もなく食堂があったので、早い昼食を取ることにした。中に入ると客は誰もいなかったが、座敷があった。座敷に上がって正座をし、大腿筋を伸ばす。他に客が誰もいないので、軽いストレッチをした。ミックスフライ定食(2,000)を注文、ワカサギ、エビ、ヒレカツと野菜の盛り付けを美味しく頂いた。1時間ほど休んで、11時半に定食屋を出発し、箱根峠まで約1kmを上りきると、後は緩い下り坂だが、何ヶ所かきつい下り坂があったので、ひざを痛めないように用心しながら、歩いた。坂を下った後、旧街道では市内に入るまで、すれ違う人はなく、一面の田園風景を見ながら、順調に歩くことが出来た。市内に入り、ビジネスホテルの「ドーミーイン三島」に予定通り1515分に到着した。チェックイン後、大浴場で足を冷やしてからお風呂に入り、足を十分に延ばして、疲れを取ることが出来た。三島駅近くのレストランに入り、海鮮料理を食べた。事前に午後6時に予約してあった整骨院に行き、足裏の治療をしてもらった。この善整骨院は、腰痛の治療で毎週通っている整骨院の先生の友達で、三島で開業しているというので、事前に予約をお願いした。この先生の治療後、足裏はもとより、足全体の痛みが引いていくようだった。鈴木先生に感謝。徒歩20分でホテルに着く。私は自信の無かった3日目をクリアしたので、京都まで到着できると確信した。翌朝の準備をして、午後9時に就寝。

東海道五十三次旅日記(8)

東海道五十三次旅日記

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3日目(4/27)火曜日 小田原宿出発

4時モーニングコールで目が覚めた。こんなに寝たのは久しぶりだ。疲労は回復した。いよいよ東海道五十三次の最大の難所箱根越えだ。計画段階で箱根を越えて、一気に三島に行くか、箱根で一泊するか悩んだ。これによって全体の日程が狂ってしまう。事前に46km走を6回実施し、自信はついてきたが、毎日ではないので、少し不安だが、体も足の調子も良い。小田原から箱根峠まで19㎞、相当に気合を入れて5時に出発した。三枚橋まで5.3㎞は緩やかな登り坂であるが順調に進んだ。三枚橋を右手に進むと箱根湯本駅があるが、左手に進む。県道沿いの箱根郷土資料館や早雲寺近辺の道はカーブが多く、歩道も狭いので、注意して歩いた。しばらくすると「旧街道入口案内板」があり、旧街道の観音坂は舗装もしてあるので、歩きやすかった。 

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道入口・割り石坂あたりになると、小さな木橋をいくつか渡り、往時の石畳みが良く残っている大澤坂を上って行った。この辺りは湿気が多く石に苔がついて、滑りやすい坂だ。足元を良く見て歩かないと捻挫する可能性がある。一人旅なので、怪我でもすると大変なことになると思い、手ごろな枯れた木を見つけ、枝を払って杖代わりにした。杖があるとバランス良く歩けるようになった。一歩一歩足を前に進め畑宿一里塚あたりを通ると、近くに箱根新道の舗装された道が見える。箱根新道と公差するヘアピンンカーブの下をくぐり、階段を上り箱根新道を横切り、旧街道に戻って進んだ。「箱根旧街道・元箱根まで40分」の立て看板があり、もう少しで芦ノ湖が見えると気持ちを鼓舞して坂を歩いた。「箱根旧街道」の説明が記してあったので、一部を記憶にとどめるために、記録する。      

東海道8-3.JPGのサムネール画像のサムネール画像

「江戸幕府は元和四年(1618)六夜記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道を廃し、湯本の三枚橋から須雲川沿いに畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った」とある。











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