中山道六十九次旅日記(8)

5日目(4月13日)水曜日

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計画では6時出発だが、あさぎり荘は7時からの朝食時間だという。30分早くしてもらって6時半に朝食、7時出に変更した。今日は和田宿まで約40㎞、到着予定時間1630分、宿泊は「民宿みや」だ。                            

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 朝の澄んだ空気が肺に入ってくるのが分る。少し肌寒いが、浅間山を見ながら和田宿を目指して歩く。まもなく道路拡張により昔のままでないが、両側に残る追分一里塚があった。追分一里塚は「慶長九年徳川家康の命により江戸を起点とし、主要街道に一里ごとに塚を築造させた。この中山道には一里ごとに街道の左右に塚が作られ、旅人往来の道標として重要な使命を果たしたのであった。」と道標に記してあった。

247-3.jpgのサムネール画像追分宿を過ぎて旧道に入るとここは西軽井沢だ。しゃれた建物が多くみられる。
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分去れの道標(わかされ)が目に入った。そこには【右、徒是北国街道 左、従是中仙道】中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わった在りし日の面影をとどめている。右は北国街道姥捨山「田毎の月(たごとのつき)」で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。街道を進むと右手に満開の桜が目に入った。日本橋を出発した時には桜は少し散っていた。気持ちが和む。足の調子も良い。

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小田井宿に向けて進んでいくと、正面に蓼科、右後方に浅間山、左後方に八ヶ岳が見える。景色は少しずつ変わっていくが、時間の流れが止まったような錯覚に陥る。歩く旅ならではの醍醐味である。出発して1時間半ほどで、小田井宿に入り、しなの鉄道の御代田駅を右に見て、横断地下道を通り、岩村田宿まで約5㎞弱だ。あさぎり荘を出発して約1時半、佐久市に入った。

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それから20分ほどして、中山道の道標が立ってあった。右に岩村田宿、左に小田井宿の道標だ。北陸新幹線の高架下を通り、佐久ICを右手に見て岩村田宿に入ると、千手観世音の石碑があり、少し進むと岩村田宿の北の入り口の住友神社に、その先の龍雲寺に着いた。ここ岩村田宿は内藤氏1万五千石の城下町だった。本陣や脇本陣はないが、この地方の経済の中心地として栄えていたと云う。

                                                                             

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  龍雲寺は屋根に武田菱がみられる。武田信玄が中興開山し、北信濃や西上州進出に龍雲寺を拠点にした。昭和6年に信玄の骨が境内で発見され、霊廟に安置されていると云う。 龍雲寺の鳥居の脇に、樹齢400年のケヤキがある。 幹は空洞で「住吉の祠」と云われ、境内には道祖神や石灯籠など多くの石碑や石祠があり、かつて旅人の信仰の対象になっていたという。                                                                                           

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龍雲寺から元の旧中山道に戻り、相生町の交差点を右折し、小海線の踏切を渡ると左手に若宮八幡神社の石碑があり、左に入っていくと神社がある。若宮八幡神社の由来は八幡社の本宮は大分県の宇佐八幡宮で主祭神は応神天皇、本来農耕神で、中世以降武士階級の人々が戦、武門の神様として厚く敬愛するようになり全国に広まったという。

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幕末皇女和宮が東下の折、野点をしたという「相生の松三代目」に到着した。石碑には「相生の松三代目」が彫られていた。野点(のだて) とは野外で茶を入れて楽しむことだ。この場所で休息してお茶を飲んだのだろう。141号線を横断し、中部横断自動車道の高架をくぐって根々井塚原の集落に入った。この集落は門構えの立派な家が目立って立ち並んでいるが、外に人影はない。腰の曲がった年配のおばあちゃんに私が挨拶すると、おばあちゃんから「今日は散歩にいい日よりだね。」と挨拶を返してくれたので、東京から歩いてきて今日で5日目だと答えたら、目を丸くして驚いていた。手を振って別れを告げた。

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わずかな会話だが、なんとなく気持ち良い。遥か遠くに八ヶ岳を仰ぎ見ることが出来る。下塚原地区から塩名田宿への崖に面して所在した駒形神社が右手にあった。本殿は重要文化財に指定されている。宇気母智命(うけもちのみこと)を祀り、文明十八年(1486年)佐久郡の耳取城城主・大井正継が再興したと云われている。

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 付近は道本城に拠った根井氏の領する所で、中世には広大な大地を利用して牧場が営まれ、古くは馬の産地であり、「駒形神人」との関係が示唆されているという。駒形坂を下っていくと塩名田宿だ。

塩名田宿は千曲川河畔の情緒ある宿場で、現在、家並みは新旧入り混じっているが、茶屋、煙草屋、乾物など昔を彷彿とさせる屋号看板が下がっている。

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本陣跡を通り、塩名田宿で最も古式の町や様式を伝えている佐藤家の町屋があった。目標地点の千曲川の中津川橋に11時過ぎに着いた。千曲川を渡るには徒歩渡し、舟渡し、橋渡しがあったが、明治時代には船をつないで板をかけた舟橋で渡ったという。その時に舟をつないでいた舟つなぎ石が河原に一つ残っている。            

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急な登坂を上がっていき、千曲川からおよそ3㎞で八幡宿に着いた。そして八幡宿の北の布施川に囲まれた御牧ヶ原台地は、平安時代、望月牧という官営の牧場で朝廷に馬を献納していたという。右手に八幡神社があった。この神社は国の重要文化財に指定されているという。さらに足を進めていくと「旧中山道元禄の道標」が見えてきた。

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そこには望月宿の名が石灯籠に鮮やかに彫られていた。八幡宿から望月宿まではおよそ3.5㎞、1時間弱の距離だった。望月宿は御牧ヶ原台地の官営の望月牧に由来するという。街道沿いには白壁土蔵土桁(だしげた)造りや格子の家並みが残っている。旧街道を宿場町の中心部に向って歩いた。 

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247-21.jpg事前に調べておいた蕎麦屋に着いた。暖簾をくぐって、中に入るとご主人が出てきた。今日は予約があり対応できないと云われた。奥に10人程度の客がいるようだ。一人くらい何とかならないかと交渉したが、いつもは奥さんと一緒なのだが、今日は留守にして自分一人では何ともならないと云われた。
食事をするところを訪ねると少し先にスパゲティ屋があるというので、行ってみると閉店の看板が掛かっていた。
247-22.jpg困った。急にお腹がすいてきた。仕方なく先に進むと、80歳位のおばあちゃんが軽トラから降りてきた。すかさず駆け寄って食事ができる店を訪ねたところ、道案内がもどかしいのか、途中で話すのを止めて、軽トラに乗せてくれた。約5分、バイパス142号線に出て、「天舟」というドライブイン形式の蕎麦屋に送ってくれた時は感謝感謝。お礼を言って見送った。店に入るとすぐに冷たい蕎麦茶が出てきた。一気にのみほした。247-23.jpgのサムネール画像い女性の店員さんに事情を話したところ、冷たい蕎麦茶のお代わりができる大きなピッチで持ってきてくれた。同時に塩分が必要だからとキュウリとナスの漬物を持ってきてくれた。気遣いの細やかな娘さんだ。そして天ざるそばが出てきた。天ぷらはもちろんのこと、そばも大変美味しかった。十割蕎麦とある。蕎麦好きの私にとって、美味しい蕎麦と天ぷら、何よりも塩味の効いたキュウリが美味しかった。旅先で困ったとき、ちょっとした心遣いを受けた経験は、いつまでも心に残るものである。おばあちゃん、娘さんありがとう。月宿の旧街道の家並みは昔賑わった痕跡が随所にみられるが、近くにバイパスができ、交通の流れが変わると、正午過ぎにも関わらず、旧街道には行きかう人はいなかった。休息を十分に取り、142号線をしばらく歩いてから、旧街道に入った。茂田井は望月宿と芦田宿の間に位置し、旅人の休憩用の町場「間(あい)の宿」とよばれた。芦田宿は客殿、問屋場(といやば)、酒造蔵など247-24.jpgのサムネール画像多くの建物で構成されている旧本陣土屋家が保存されているという。芦田宿を通り過ぎ、笠取峠の松並木の通りだ。道は整備され歩きやすい。その先には笠取峠の一里塚跡の石碑があった。その石碑には「中山道は,中仙道とも書くが享保元年(1718)に東山道の中枢の道であることから、中山道と呼ぶとあり、また木曽を通るので、木曽路ともいわれ、五街道の内では東海道に次いで江戸京都を結ぶ主要路線であった。この一里塚は一里毎につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつける習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目印として松の木が植えられた。」と記されていた。標に記されている長久保宿に向う。
247-25.jpg笠取峠の「峠の茶屋」を下って行くと、松尾神社前に「是より長久保宿」の木柱が立っている。長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、中山道二十六宿の中では塩尻宿に次ぐ数を誇っていたという。 

 

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宿場の前後に笠取峠、和田峠を控えていたことや、善光寺へと続く北国街道、諏訪地方へ結ぶ大門道が分岐する交通の要衝だったこと、また温泉場でもある下諏訪宿に泊まる場合、前日に江戸方の旅人は堅町、翌日に京方の旅人は横町に泊まるのが好都合だったことが、大きな宿場町になった要因だと云われている。

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明治初期に旅籠として建てられた「濱屋」は山間部の旅籠建築に多く見られる出桁造りになっているが、開業には至らず、現在は長久保宿歴史資料館一福処濱屋となって、休み処と宿場の成り立ちや街並みの紹介をしているという。4時を過ぎていたので、先を急いだ。四泊一里塚跡を通り過ぎると間もなく、旧道へY字路を右に行き、すぐに142号線と合流した。依田川にかかる大和橋を渡り、真直ぐ進むと和田宿に至る。今夜の「民宿みや」は大和橋手前を斜め左の152号線を進むことになる。和田宿に行くのには遠まわりになるが、この辺りには民宿はここだけだった。152号線に入り、左側に家が立ち並んでいた。

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その先に遠くに「民宿みや」の看板が見えてきた。夕暮れが迫ってきたので、少しホットした気持ちだ。長久保宿から山間の旧道を歩いていると、行きかう人はいなかった。初めて訪れる土地で空も薄暗く、肌寒くなってきたからだ。到着地の民宿がだんだん近づいてくる。歩く速さも自然と早くなる。    

247-29.jpg到着時刻1656分、予定より1時間20分の遅れだった。歩数計を確認すると、40.658,062歩だった。玄関を開け、チェックインすると若い女将さんが対応してくれた。ハキハキとした感じの良い人だ。この民宿の予約は娘に取ってもらった。ネットが繋がりにくかったので、電話で予約した。娘は私が出発する前にも電話で和田峠の旧道の状態を確認してくれた。日本橋出発の1週間前は和田峠の頂上には雪が残っているという。この時に対応してくれたのが、今、目の前にいる若い女将さんだ。娘から、声の印象からすごく親切な人だと聞いていたが、全くその通りだ。部屋は八畳くらいの和室だ。247-31.jpg

すぐ洗濯をし、部屋に干し終わると風呂に入って、6時に夕食だ。食堂は厨房と壁で隔ててあり、配膳口が整理されている。テーブルが4つの小さな食堂だ。お客は50代の夫婦と男性1人、そして私の4人だった。最初はコロナ禍でもあり、黙食だったが、食事が終わってお茶を飲むころには、誰とはなしに話が始まった。男性は50代後半くらいで、九州在住で23日ずつ歩き、九州の旧街道はほとんど制覇し、東海道、山陽道なども制覇したという。

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明日は望月宿方面に行くという。私とはタイプの違う歩きマニアと感じるとともに感心して聞いていた。ご夫婦は沖縄から来ているとのこと、夫婦で23日歩き、いったん帰宅し、翌月に23日の歩き旅に出るとのこと。明日は車で下諏訪に行き、下諏訪側から和田峠を越えて、戻ってくると云っていた。二人そろって歩きなれた様子だ。私は昨年東海道五十三次を13日間で京都まで行き、今年は日本橋から中山道六十九次を歩いて、5日目であること。14日間で京都の三条大橋に行く予定だと話したら、感嘆の声が上がった。そばで聞いていた若い女将さんが、下諏訪からの和田峠の登りはきついが、髙橋さんみたいに沓掛宿からこの「民宿みや」まで1日で来られる人であれば、こちらから登る和田峠は勾配が緩やかだから、ハイキングコースみたいだ。下りは急なので、気を付ければ、大丈夫だと云われた。そのうち民宿のご主人も出てきて大いに話に花が咲いた。



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