東海道五十三次旅日記(11)

東海道五十三次旅日記

岩淵一里塚を過ぎて、東名高速道路と新幹線のガード下をくぐり、東名高速道路下を通った。そして蒲原宿を通過し、由比宿の入り口に着いた。由比宿は江戸後期の人口が700人余りで、宿内の長さが600m余りの小さな宿場だったという。歌川広重の作品を中心にした東海道広重美術館があり、その向かいに正雪紺屋という藍染用のかめや染物用具、貴重品を運び出す用心籠などを扱っている店があり、この紺屋は江戸時代初期に幕府転覆を企てた由比正雪の生家と云われている。雲行きが怪しくなってきたので、これらの旧所名跡を通り過ぎ、予約してある割烹旅館西山を探す。住宅地の細い道を通り、到着した。到着予定時間3時であったが、道に迷ったこともあり、午後4時半、徒歩距離は40㎞であった。当初の計画では35kmだったが、5kmも余分に歩いた勘定だ。
                                
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しかし足の調子が良いせいか疲れはほとんどなかった。この由比宿近郊にはビジネスホテルはなく、探し当てたのは割烹旅館西山1件であった。非常事態宣言が出されている最中の旅なので、当然である。チェックインし、帳場と部屋は別の建物になっているので、中庭を渡って、部屋に案内される。部屋は和室7部屋で、宿泊客は私一人であった。早速、浴衣に着替えて風呂に入り、疲れた足を延ばせるのが心地よかった。6時の夕食には宿の女将さんと世間話をしながら、旬の桜えびを使った料理を中心に、これも旬の生シラス、太刀魚、刺身、牛肉と野菜の卵とじ、サザエのつぼ焼きを食べた。美味しかった。女将さんから由比宿を出て、薩埵(さつた)峠から見る富士山は最高だからぜひ見てくださいとすすめられた。食後部屋に戻り、頼んでおいたマッサージ師に足裏とふくらはぎを中心にお願いした。マッサージが始まると強すぎる弱すぎるちょうど良い状態にならない。話をしてみると本業はゴルフ場のグリーンキーパーとの事。それを聞いてマッサージの事はあきらめ、ゴルフの話で盛り上がったが、明日の揉み返しが心配だ。寝る前に翌日の天気予報をチェックし、計画の確認を行った。翌日の朝は曇り、その後雨が強くなり大雨・強風注意報の予報であった。心配だ。

東海道五十三次旅日記(10)

東海道五十三次旅日記                   

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4日目(4/28)水曜日 三島宿出発

5時起床、6時に朝食を取り、7時に出発。3日間はハードな日程を組んでいたので、4日目は余裕を持った日程を組んだ。予定は7時出発、由比宿の割烹旅館西山まで、35km。到着予定時間午後3時を頭に入れて、出発した。足の調子は痛みもなく快調であった。しかしナビを使ってホテルから国道1号線に出る予定が、30分程歩いても国道に出ない。そのうち住宅街に入ってしまい、迷子の状態になった。犬の散歩をしていた人がいたので、道を聞いた。ナビより分かりやすい。20分もするとようやく国道1号線に出た。自分の現在位置がはっきり分かったので、ナビと古地図を見ながら、沼津一里塚跡を目標に仕切り直しした。道が明確になり、足の進みが早く感じる。昨夜の善整骨院の治療の効果だろうか。更に沼津宿を通り過ぎ、左手に駿河湾、右手に富士山という位置取りであるが曇っているので富士山を見ることが出来なかった。原宿を通り過ぎ、東海道本線の吉原駅手前の踏切を渡り、河合橋を渡ると、東海道新幹線のガード下が見えた。吉原宿の目印である錦町北の交差点を左折し、高島交差点、富安橋を過ぎて、富士総合庁舎に向かった。その後道なりに富士川の富士川橋に向かい橋たもとの水神社に着いた。

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この辺りは一番下流の渡船場で、富士川は船運により甲信地方と東海道を結ぶ経済的大動脈でもあった。富士川橋を渡り、間の宿岩淵にある小休本陣常盤邸を取り過ぎた。間の宿とは宿泊が許可されていないので、大名などの休憩施設は小休本陣とか茶屋本陣と呼ばれていた。間の宿は幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていた。しかし宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場間に休憩用の「宿」が置かれ「間の宿」と呼ばれていた。                                                  

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東海道五十三次旅日記(9)

東海道五十三次旅日記 

東海道9-①.JPG歩く事40分、別荘が散在する所に入り込み、坂を下りていく途中に視界が広がり、芦ノ湖が見えた。この感激と達成感は言葉にならなかった。住宅地を下りて行き国道に出た。そのまま箱根の関所を見学したが、まだ朝早いせいか店は開いていないし、観光客も疎らだ。食事と休憩をとれるところを探し、1030分食堂に入った。リュックを下ろし、靴を脱いで、座敷に上がった時、箱根八里を無事越えたことの安堵感は第三者には理解しがたいものがある。食事を取りながら、小田原から箱根峠まで2.5km手前であるが、ほぼ予定時間通りに到着したことを振り返った。旧街道の石畳というよりは、大小様々な石を敷いてあるだけで、石に苔がびっしり、足元をしっかり見ていないと、足を捻挫する危険がある。旧街道では誰にも合わなかったが、箱根の国道に出る時、徒歩でのツアー客約30人が旗を持った添乗員に前後を挟まれて、私の前を通り過ぎて行った。高齢者全員がトレッキングの服装で、ストックもリュックに装着していた。私は歩道が狭いので、彼らが通りすぎるのを待った。もっと早く歩いてくれ。

東海道9-②.JPG自分も通り過ぎるあいだ立ち止まっていると、足 が痛くなってしまう。長時間歩くと太ももの前の筋肉の可動域が少ないので、筋肉が硬直する。ようやく通り過ぎ、歩き始めた。間もなく食堂があったので、早い昼食を取ることにした。中に入ると客は誰もいなかったが、座敷があった。座敷に上がって正座をし、大腿筋を伸ばす。他に客が誰もいないので、軽いストレッチをした。ミックスフライ定食(2,000)を注文、ワカサギ、エビ、ヒレカツと野菜の盛り付けを美味しく頂いた。1時間ほど休んで、11時半に定食屋を出発し、箱根峠まで約1kmを上りきると、後は緩い下り坂だが、何ヶ所かきつい下り坂があったので、ひざを痛めないように用心しながら、歩いた。坂を下った後、旧街道では市内に入るまで、すれ違う人はなく、一面の田園風景を見ながら、順調に歩くことが出来た。市内に入り、ビジネスホテルの「ドーミーイン三島」に予定通り1515分に到着した。チェックイン後、大浴場で足を冷やしてからお風呂に入り、足を十分に延ばして、疲れを取ることが出来た。三島駅近くのレストランに入り、海鮮料理を食べた。事前に午後6時に予約してあった整骨院に行き、足裏の治療をしてもらった。この善整骨院は、腰痛の治療で毎週通っている整骨院の先生の友達で、三島で開業しているというので、事前に予約をお願いした。この先生の治療後、足裏はもとより、足全体の痛みが引いていくようだった。鈴木先生に感謝。徒歩20分でホテルに着く。私は自信の無かった3日目をクリアしたので、京都まで到着できると確信した。翌朝の準備をして、午後9時に就寝。

東海道五十三次旅日記(8)

東海道五十三次旅日記

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3日目(4/27)火曜日 小田原宿出発

4時モーニングコールで目が覚めた。こんなに寝たのは久しぶりだ。疲労は回復した。いよいよ東海道五十三次の最大の難所箱根越えだ。計画段階で箱根を越えて、一気に三島に行くか、箱根で一泊するか悩んだ。これによって全体の日程が狂ってしまう。事前に46km走を6回実施し、自信はついてきたが、毎日ではないので、少し不安だが、体も足の調子も良い。小田原から箱根峠まで19㎞、相当に気合を入れて5時に出発した。三枚橋まで5.3㎞は緩やかな登り坂であるが順調に進んだ。三枚橋を右手に進むと箱根湯本駅があるが、左手に進む。県道沿いの箱根郷土資料館や早雲寺近辺の道はカーブが多く、歩道も狭いので、注意して歩いた。しばらくすると「旧街道入口案内板」があり、旧街道の観音坂は舗装もしてあるので、歩きやすかった。 

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道入口・割り石坂あたりになると、小さな木橋をいくつか渡り、往時の石畳みが良く残っている大澤坂を上って行った。この辺りは湿気が多く石に苔がついて、滑りやすい坂だ。足元を良く見て歩かないと捻挫する可能性がある。一人旅なので、怪我でもすると大変なことになると思い、手ごろな枯れた木を見つけ、枝を払って杖代わりにした。杖があるとバランス良く歩けるようになった。一歩一歩足を前に進め畑宿一里塚あたりを通ると、近くに箱根新道の舗装された道が見える。箱根新道と公差するヘアピンンカーブの下をくぐり、階段を上り箱根新道を横切り、旧街道に戻って進んだ。「箱根旧街道・元箱根まで40分」の立て看板があり、もう少しで芦ノ湖が見えると気持ちを鼓舞して坂を歩いた。「箱根旧街道」の説明が記してあったので、一部を記憶にとどめるために、記録する。      

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「江戸幕府は元和四年(1618)六夜記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道を廃し、湯本の三枚橋から須雲川沿いに畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った」とある。











東海道五十三次旅日記(7) 

東海道五十三次旅日記
                         
残り1kmになると「もう少しでゴールだ」、不思議  
不思議と足が前に動き出した。当初の予定到着時間
東海道7-①.JPGのサムネール画像のサムネール画像午後2時、昼食時に足の状態を考えて、到着時間340分と計画し直したが、実際に到着したのは4時ちょうどだった。約2時間遅れで宿泊先の「東横イン小田原」にチェックインした。シャワーで汗を流して、指圧・マッサージで検索したところ、幸いすぐ近くに指圧の治療院の看板を掲げた医院があり、この治療院の先生に旅の事情を話したところ、足底の筋肉と筋膜の機能の説明を受け、1時間の治療を行った、料金は4,000円。効果があるかないか分からない。しかし翌日、この治療のおかげ で足が軽く感じ、箱根越えに自信が出てきた。

茨城産業人クラブの事務局がメールで小田原駅近くのステーキ店を紹介してくれたが、この時は、歩くのが嫌でホテル近くで、夕食を取った。海鮮丼を注文し、ご飯は半分残して、お茶漬け風にして食した。コンビニで翌日の朝食を買い、部屋に戻り、翌日の箱根越えの道順を確認し、すぐ出発できるようにリュックの中を整理し、準備万端にしてから風呂に入った。近年これほどの疲れは経験したことがない。普段なかなか寝付けないが、このときはすぐに熟睡した。

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東海道五十三次旅日記(6)    

東海道五十三次旅日記                                           
                                                                     
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2日目(4/26)月曜日 戸塚宿出発

朝、3時に起床する。軽くストレッチしてから、前日にコンビニで購入したおにぎりと菓子パン、野菜ジュースで朝食を取り、5時にホテルを出発した。戸塚を出発すると藤沢、平塚、大磯、小田原までの4区間41kmで到着時間午後2時の予定。2日続けてリュックを背負って40㎞以上歩くのは初めて。多少の不安があったので、出発を5時にし、遅くなっても明るいうちにホテルに着きたかった。藤沢に取引先があったので、土地勘はあったが、車で走るのと徒歩で行くのとは大違いだった。昨日の足の疲れが残っていたので、藤沢までの道のりは坂が多いこともあって、足が重い。気晴らしに携帯ラジオで音楽聞きながら、歩こうとおもったが、NHKしか電波が受信できない。ニュースを聞いていたが、歩くリズムと合わないので、聞くのを止めた。

国道1号線に入り、上方見附跡をり、大阪を上って原宿一里塚跡の手前を左折し、戸塚警察署原宿交番を通り、左折して国道一号線に入り、藤沢バイパス出口に行き、遊行寺坂を下り、藤沢本町駅近くの上方見附跡を通って、茅ケ崎に向かう。茅ヶ崎に入ると、加山雄三通りの案内板が目に入った。ここは一直線の商店街で、その先には富士山が見えた。
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途中コンビニでスポーツ飲料とお菓子を買い、トイレタイム。馬入川の馬入橋を渡り、平塚駅近くの江戸見附跡を過ぎて、大磯駅まで約7時間、まだ松並木が残っている国道沿いの「松濤庵」で、天ザル蕎麦を食した。2日続けての天ザル蕎麦だが、大きいエビ2本と厚いしいたけが特に美味しかった。店を出ると間もなく「大磯城山公園旧吉田茂邸地区」を通り、小田原まで16㎞、荷物の重さが足の重さになり、歩くペースは上がらない。到着は340分頃と見積もった。小田原まで西湘バイパスとほぼ平行の道だ。国府津駅近くを通り過ぎると残り6kmの道のり。しかしここから足が前に出ない。歩く速度も、4.64.8kmから4km以下になって、足を引きずるような歩き方で、  
最後の力を振り絞って、イチニイチニと
リズムを作って、小田原市内に入った。
                  
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東海道五十三次旅日記(5)

東海道五十三次日記


横浜市に入る手前の蕎麦屋で、天ざるそばを食した。 
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食後、話しながら歩いたせいか、足の運びは順調で土ヶ宿を通り、あと5km位で到着する所まできたが、雲行きが怪しくなってきた。雨が降る前に、戸塚駅に行こうと早足で歩くことにした。1時間弱で午後4時半に戸塚駅に到着。そこで娘は電車で帰り、私は駅近くにある「相鉄フレッサイン横浜戸塚」にチェックインした。足裏が痛く、コールドスプレーで足全体を冷す。到着時間、午後320分の処、1時間10分遅れで到着、12時間かかった。シャワーを浴び、夕食はとんかつ定食を食べた。

ホテルに戻り、娘に電話したところ、電車の繋がりも良く1時間足らずで 家に着いたという。初日、私一人ではもっと時間がかかっていたと思う。改めて同行してくれた娘に感謝し、社会人になってからもスキー選手として活動し、トレーニングを行っていた成果だ。 
                       
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改めて基礎体力と脚力に敬意を表したい。翌日の準備を行ってから、筋肉の疲労回復のため、下半身のストレッチを行った。初日と云うこともあるが、非常に疲れた。しかし戸塚宿に到着し42kmを完歩できた達成感が上回り、心地よい疲労感だ。明日は一人で7㎏のリュックを背負い、しかも2日連続で40㎞以上を歩く、初めての体験だ。昔を思い返すと、60歳の初マラソンは時間制限のない、ホノルルマラソンを選び、6時間切ることを目標に練習してきたが、本番の2ヶ月前右ひざを痛め、ヒアルロン酸を1週間に1回注射を打ち、計4回打った。出発直前に痛み止めのステロイドを2回打ってもらい、目標タイムには届かなかったが、6時間39分でゴールした。心配した右ひざの痛みはなく、30kmまで順調に来たが、予想外の左足太もも内側の筋肉を故障し、走ることが出来ず、足を引きずりながらゴールにたどり着いた。その時の達成感にも似ている。2回目の61歳の時は娘と一緒にホノルルマラソンに出場した。

私は2回目のタイムは6時間15分、またしても6時間をきれなかった。娘は初マラソンを4時間30分でゴールした。その時の驚きと同じだ。ベッドの中で、様々なことを思い返しながら、9時に就寝した。

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東海道五十三次旅日記(4)

東海道五十三次日記

1日目(4/25)日曜日 日本橋出発

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朝早く目が覚めてしまい、
5時出発の予定を30分繰り上げて430分にホテルをでた。まだうす暗い中を日本橋に向かい、日本橋の名が掘られた橋の石塔前で自撮。初日は品川宿から川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿そして戸塚宿まで42kmである。日本橋から京橋、銀座、新橋と国道15号線(中央通り)を進んだ。寝不足のせいか足が重い。リュックが肩に圧し掛かってくる。銀座8丁目まで、街は暗く非常事態宣言の中、すれ違う人はいなかった。新橋駅を過ぎると第一京浜に入り、オフィスビルの中、大門交差点を通ると右手に朱漆塗りの三解脱門(サンゲタツモン)が見える。この辺りは仕事で何度も来たところである。金杉橋を過ぎ、田町を通り、品川駅に向かった。この辺りも何度も車で行き来していたので、昔の事を思い出しながら、明るくなった道を歩いた。八ツ山橋から旧東海道に行けば、最初の品川宿は旅人や出迎えの人で賑わった宿場だ。江戸時代末期の品川宿は、北は八ツ山口から目黒川までの徒歩新宿と北品川宿、南は目黒川から青物横丁と鮫洲の境までの南品川宿からなっている。全長は約2.4kmに及んでいる。

幕末の旧所名跡が多く、高杉晋作や久坂玄瑞らが密儀をこらした大妓楼相模屋の跡があるが、遠回りにもなるので、第一京浜を歩く。東京十社のひとつで大黒天を祭る品川神社に6時半前に着いた。品川神社は文治3(1187)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通の安全と、祈願成就の守護神として、神様を分霊し、品川大明神と称したのに始まると云う。神社前で写真を取り、京急蒲田駅に向かった。1週間前に大田区に住んでいる娘から、一緒に歩こうと連絡が来たので、京急蒲田駅で待ち合わせることにした。日本橋から京急蒲田駅まで15km3時間半かかり、8時頃に到着した。駅のカフェで一休み。40分くらい休んだのち出発。娘はリュックを持ってくれるというので、重いから無理だと言ったが、普段からジョギングをしているので、問題ないと言ってくれた。小さい体で重いリュックを背負い元気に歩く姿を見ると、自分が71歳だと再認識したと同時に、肩に食い込んだリュックがないと体が軽くなった。助かった。やはり7㎏のリュックがないと足が軽い。京急蒲田駅から戸塚駅近くのホテルまで27kmある。                           

東海道4-②.jpg一緒に歩き始め少したってから再度確認したら、毎日ジョギングしているので、重リュックも問題ないという。頼もしい。多摩川の六郷橋を渡ると川崎である。渡り終わってから、どこまで付き合ってくれるか聞いたところ戸塚宿まで行くと言うので、二人で行くことにした。






東海道五十三次旅日記(3)

東海道五十三次日記


8日目(5/2) は出発時間6時。舞阪宿から御油宿まで42km。宿泊は「コンホートホテル豊川」到着予定時間15:30

9日目(5/3) は出発時間7時。御油宿から知立宿まで37km。宿泊は「ホテルルートイン知立」到着予定時間15:00

10日目(5/4) は出発時間7時。知立宿から桑名宿まで43km。宿泊は「桑名グリーンホテル」到着予定時間16:00

11日目(5/5) は出発時間7時。桑名宿から亀山宿まで36km。宿泊は「アパホテル三重亀山」到着予定時間15:00

12日目(5/6) は出発時間5時。亀山宿から石部宿まで43km。宿泊は「甲西アートホテル」到着予定時間16:00

13日目(5/7) は出発時間5時。石部宿から京都三条大橋まで34km。到着予定時間12:30

出発時間を早くし、午後明るいうちに到着し、途中疲れて休憩時間が長くなっても午後5時にはホテルに到着する計画にした。リュックに入れた荷物の7㎏は重いが、途中できつくなったら、少しずつ減らしていく予定だ。宿泊の予約は1週間前に、全行程12ケ所のビジネスホテル・旅館の予約を取った。最後まで悩んだのが、今回の旅で最も大変な箱根の旧東海道を越え、三島宿まで行くか箱根で宿泊するかだ。計画通り歩くことが出来ないとき、事前に第2案を作成し、変更の場合はホテルのキャンセル・新規の予約などは、娘に頼んだ。一人で行動するので、ドコモの位置情報を契約し、万が一の時、家族にフォローしてもらう体制も作った。考えられる準備は全て整えた。

ガイド本(歩いて旅する東海道)より掲載

東海道は昔から多くの人が行き交った道、現在でも日本の大動脈として最も親しまれている道です。慶長6(1601)から7年間かけて、徳川幕府が江戸の日本橋を起点に五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)を整備し街道には宿場が設けられました。

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東海道五十三次旅日記(2)

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東海道五十三次日記

前日 424日土曜日 

前日、午後新治駅を出発。旅立ちは伸縮性のあるズボンにかすみがうらマラソンの10マイルを完走した時の記念のTシャツ、ホノルルマラソンで買った帽子、東京マラソンの時に買った水色のフード付きパーカー、黒のウォーキングシューズ、黒のリュックサック総重重は7㎏、ポシェットには携帯・バッテリー・少量の食べ物等1㎏を腰につけた。午後316分に東京駅に到着、日本橋近くのビジネスホテルにチェックインしてから、出発場所である日本橋を確認した。あたりを散策してから夕食を取り、出発予定は午前5時、翌朝の食事のおにぎりとパンとスポーツ飲料と水を買い、すぐに出発できるように、荷物の確認をしてから寝酒を飲んで10時に就寝。しかしこれが失敗だった。普段寝酒を飲む習慣がなかったので、午前1時頃に目が覚めてしまい、その後眠れなかった。江戸時代の俗謡で東海道五十三次の替え歌「お江戸日本橋」の歌詞で、冒頭の「お江戸日本橋七つ立ち・・・」の七つ立ちは午前4時だそうだ。4時は早すぎるので、5時出発とした。

日程表の作成に当たって、歩く道は極力旧東海道、地図は携帯のナビとガイド本の2本立て。ナビは次の場所までの最短距離を出すので、これを基本にガイド本の旧東海道の絵図を見ながら歩くこととした。

歩いて旅する東海道日程計画

1日目(4/25)は出発時間5時。日本橋から戸塚宿まで、42km。宿泊は「相鉄フレッサイン横浜戸塚」到着予定時間15:20

2日目(4/26)は出発時間5時。戸塚宿から小田原宿まで41km。宿泊は「東横イン小田原駅東口」到着予定時間14:00

3日目(4/27)は出発時間5時。小田原宿から三島宿まで36km。小田原宿から旧東海道で箱根を越えて、箱根峠まで19km。箱根峠から三島宿まで17km。宿泊は「ドーミーイン三島」到着予定時間15:00

4日目(4/28) は出発時間7時。三島宿から由比宿まで35km。宿泊は「割烹旅館西山」到着予定時間15:00

5日目(4/29) は出発時間7時。由比宿から岡部宿まで36km。宿泊は「旅館きくや」到着予定時間15:00

6日目(4/30) は出発時間7時。岡部宿から掛川宿まで35km。宿泊は「スマイルホテル掛川」到着予定時間14:30

7日目(5/1) は出発時間6時。掛川宿から舞阪宿まで46km。宿泊は「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」到着予定時間16:30


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