今日から一緒に旅をすることになった田部井さんの 足取りも快調だ。昨年も中山道の旅で日本橋から浦和まで25kmを走破し、最長の距離を歩いた。自信がついたので、碓氷峠(1200m)も一緒に越えることになった。
順調に進み、藤井川を渡り、今津宿本陣跡(河本家)に着いたのは11時半だった。今津宿本陣跡は、豊臣秀吉の全国統一が実現し、文禄・慶長の役にあたり、京都大阪から肥前名護屋に至る街道が整備され、慶長七年(1602)には今津宿が設けられた。江戸幕府による宿駅・伝馬の制や大阪から長崎に至る西国街道が整備充実され、今津宿は神辺・尾道間の宿場町として戸数三百戸以上、商家軒を連ねて賑わったと伝えられている。宿の中核となった本陣は代々庄屋職を務めた河本家により世襲され、現在でも表門、堀、石垣などに当時の面影を残しているという。
昼食を取り、二人で話しながら歩き、大分経ってから田部井さんから道が違うのではないかと言われ、再度確認したところ真直ぐに進むところ、右に曲がってしまったようだ。やむなく来た道を引き返したので、往復で10km近く余計に歩いてしまった。
計画では備後赤坂駅から電車に乗って、井原駅まで行く予定だったが、既に歩行距離は30kmを越えているので、一つ手前の松永駅から井原駅まで行くことにした。私も計画を変更して一緒に行くことにした。松永駅から山陽本線(長船行)福山駅で乗換えた。ホームの目の前に福山城がそびえたっていた。福山城は元和8年(1622)に 築城され、伏見櫓、鉄筋御門は、京都伏見城から移された
もので重要文化財とのこと。五層の天守閣は戦災で焼失したが再建され、内部は郷土博物館として歴代藩主の遺品、草戸千軒町遺跡から出土品が展示されているという。福山藩祖の水野勝成は安土桃山・江戸初期の大名で、関ヶ原の戦い、大阪夏の陣で、数々の功を上げ、元和5年、福山に移封された。福山駅から福塩線(府中行)で神辺駅に行き、神辺駅から井原鉄道(早雲の里荏原行)に乗って井原駅15時52分に到着し、タクシーでビジネスホテル歴上荘に着いたのは16時過ぎだった。
行程は間違ったが、到着時間は予定通りだった。結果として田部井さんは35.7kmを走破し、新記録を達成した。
チェックイン後、いつも通り洗濯をするため、ランドリーに向った。途中食堂があったが、客が少ないので、食事は提供していない。新型コロナのため、客はいなかった。客層は近くの工場への出張者や長期の期間工が多いとのこと。風呂場は大きく、 足を延ばしてリラックスすることが出来た。食事は、田部井さんが周りを散策した時に、見つけた居酒屋に入り祝杯を挙げた。しかしここで事件が起きた。ビールを飲み、食事が終わって、ほろ酔い気分で帰ろうとしたとき、靴を履いたところ、感触が違う。足裏の感触と全体の作りが貧弱だ。何度確認しても私の靴はなかった。客は5~6人と少ないので、私の靴を間違えて履いて、帰ってしまったに違いない。HOKAの長距離を歩く靴だ。店に間違いのことを話してもここに帰ることはないので、残された靴を履いてホテルに帰った。9時過ぎに就寝。
八日目 4月22日 土曜日
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は6時。今日の計画は尾道市、防地峠、今津本陣跡、備後赤坂駅まで26kmは、田部井さんと一緒に行き、田部井さんは備後赤坂駅から電車で井原駅に行き、ビジネスホテル歴城荘で合流する。私は大渡橋、神辺駅まで36kmを歩き、ここから電車で井原駅に行きホテルで合流する。
福山市は広島県の中でも大きな都市である。しかし2ヶ月前にネットや電話で、ホテル、旅館、民宿のすべてにアクセスしたが、すべて満室だった。あまりに込んでいるので、旅館の人に聞くと、「ももいろクローバーZ」というアイドルのコンサートがあるので、福山市一帯の宿泊施設はどこも満室とのことだった。予約が取れたのは、岡山県井原市の井原駅から徒歩15分の所にあるビジネスホテル歴城荘だけだった。私は旧山陽道を歩いて井原まで50km、正味10時間だが、食事、休憩、見学などを加えると、11.5時間はかかる。行けないことはないが、まだ先があるので、無理のない計画にした。
事前に田部井さんに理由を話して、井原駅のビジネスホテル歴城荘に、宿泊することを連絡した。田部井さんも同ホテルの予約が取れたことを連絡してきたので、変則の行程に決まった。
最初の目的地は尾道だ。県道185号線を進み和久原川を渡って、山陽本線糸崎駅を通り、糸崎神社に着いたのは6時44分だった。糸崎神社は尾道と三原を結ぶ国道2号線沿いにあり、瀬戸内海に面し、長井の浦と呼ばれる風待ちの浦として「万葉集」にも読まれている歴史ある旧県社とのこと。境内にそびえる御神木の大楠(クスノキ)は、樹高30m、胸高さ幹囲13m、樹齢推定500年で、三原市の天然記念物に指定されている。
神社を後にして、5分程進むと「六本桜 一里塚跡」の石柱があった。瀬戸内海沿いを進んで、尾道駅に着いたのは8時50分だ。旧道を少しそれて、アーケードが掛かっている「尾道本通り商店街」に向った。朝早いので開いている店は少なかった。
商店街のアーケードには、大きな垂れ幕「古寺めぐり入り口千光寺公園登山口」が目に入る。千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、弘法大師が開いたと伝えられている。
「尾道町奉行所 平山角左衛門尚柱」と「奉行所跡」の石柱、「尾道商工会議所創立120周年記念碑」などがあり、この商工会議所の建物は鉄筋コンクリート造りとしては、現存する日本最古のも
標識のある地点から20分位すると、史蹟貞丸古墳と記された白木板が目に入った。貞丸古墳は沼田川支流の尾原川の左岸丘陵斜面に営造された古墳群で、1号、2号古墳がある。築造時期は古墳時代終末期の7世紀前半頃と推定されている。更に40分程で御年代(みとしろ)古墳の入り口の案内板があった。御年代古墳は、古墳時代終末期の7世紀中葉頃の築造と推定され、畿内型古墳で全国的にも数の少ない複室構造の1石室2石棺の古墳である点で注目され、沼田地方の首長墓として当時の政治情勢を考察する上で重要視される古墳であると云う。旧山陽道の絵地図に載ってあったので、旧道を歩く時の目印にしただけで、古墳自体の見学は行わなかった。次に向かうのは安芸高木山城跡だ。旧山陽道と並走して国道2号線が走っている。12時半頃に昼食を取り15分位休憩をとったのち、目的地に向かった。
絵地図とナビで歩いて行った場所は、小さな集落で10件程の家がある場所に着いた。しかし城跡らしき空間がなく、標識もなかった。3回ほど行ったり来たりしながら、探したが見当たらない。上の方を見ると小高い丘にそれらしい公園が見えるが、周りに人影もなく、聞くこともできない。グ―グルで検索したが、城跡の位置は民家を指している。別のサイトを見ると山の上に矢印で指している写真があって、これかなと思ったが、案内板もないので、登って行くことをあきらめた。進んで行くと、程なく甑(こしき)天満宮に着いた。説明文によると、甑天満宮は石段を登って行くと社殿があり、祭殿には天神様、学問の神様として信仰されて菅原道真公はじめ、その他諸神を祀ってある。
伝承によると「延喜(901)元年、菅原道真が左遷され九州大宰府へ下向の途中に立ち寄ると、土地の人々は水不足で大変苦労していた。道真は自ら井戸を掘りはじめると、こんこんときれいな水が湧き出し人々を救った。
里人は道真の干飯を甑で蒸して差し上げた。その後この甑で納めて祀ったのが甑天満宮である。」と言われている。足を先に進め、沼田川を渡り、20分程で山陽本線本郷駅に到着した。午後1時半だった。
宿泊地の三原ステーションホテルには、昨年、中山道の日本橋から浦和、横川から碓氷峠を越えて軽井沢まで、一緒に歩いた田部井さんが待っている。本郷から途中は沼田川沿いに国道2号線の歩道を歩いた。3時半に三原市郊外に到着し、5時半に三原ステーションホテルに到着した。歩行距離40km、歩数57,417歩だった。ホテルで田部井さんが出迎えてくれた。早速、チェックインし、シャワーで汗を流し、三原名物のタコ料理を食べようと、三原市1番人気の店を紹介してもらった。
徒歩3分とのこと。店に入ったが、予約でいっぱいで断られた。やむなく次の店に入って、蛸をメインに料理を注文し、ビールと地酒を飲みながら、 昨年の中山道の思い出や下関からここまでの出来事を話し、盛り上がった。明日の打合せを行い、早めにホテルに帰り、9時に就寝。
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は7時。今日は仁賀(にか)ダムを通り、目印の賀茂川荘行き、国道2号線と合流して、安芸高木城跡、山陽本線本郷駅、三原城址、三原ステーションホテルまでの約37kmあり、仁賀ダム展望台までは約10kmの道のりだ。
街道の情報がない一般道を行くのはつらいものがある。ホテルを出て、安芸津下三永線を右方向に上三永ICまで進み、高架下を通って、県道330号線(上三永竹原線)を右折すると一本道だ。仁賀峠に向けて緩やかな長
出発して1時間を過ぎたころ集落が見えてきた。少し先に進んで行くと竹原市の標識があり、更に歩を進めていくと「仁賀町 上仁賀」の道標が、目に入る。その先に、浄土真宗本願寺派鳥越山延命寺があった。この辺は信仰心の篤い檀家が多いのだろうと思った。檀家がしっかりしていなければ、この立派なお寺を維持することが出来ないだろう。
この辺りから緩やかな下りになる。上仁賀の集落を通り過ぎ、しばらくすると仁賀ダムのダム湖(芙蓉湖)が見えてきた。仁賀ダムの展望台が最初の目印だ。目的地が見えてくると歩くのが早くなる。仁賀ダム展望台に着いたのは9時10分だった。歴史的な情報のない道を歩くと、精神的につらいと思ったが、自然豊かな道や集落を歩いていると、住む人の息づかいを感じることが出来、精神的なつらさはなかった。
到着は10時、予定通りだ。賀茂川荘は県道330号線から山陽道(国道2号線)に合流する分岐点にあったので、目印の場所とした。調べてみると、ここは湯坂温泉郷といい、およそ1350年前の大化の改新の頃、山陽道の宿駅として栄えたと伝えられている。そのまま真っ直ぐ進むと山陽道(国道2号線)に出た。
東広島駅に着いたのは、午後4時だった。ホテルは駅前の通りの、真向いにある「東横イン東広島前」だ。チェックインして、洗濯を終わらせ、シャワーを浴びて汗を流し、ホテルの夕食をとって、ホテルの隣にあるコンビニで朝食のおにぎりと飲み物を購入して、部屋に戻った。今日の歩行距離44km、63,416歩だった。明日の天気予報は晴れ気温12℃~21℃。ちょうど良い。9時就寝。
六日目 4/20木曜日
ところがナビの画面が固まってしまい、道順が表示されない。このホテルは広島サミット関係者も宿泊するので、1ヶ月後に控えたサミットのため、警備が厳重だ。玄関を出ると左右の交差点に警官が一人ずつ配置されている。私がスマホの画面を回復しようとしている姿は、警備している警官から見れば、挙動不審者に見えるかもしれない。職務質問でもされると面倒だと思い、サングラス・マスク・帽子を取って、警官の方に向かって行き、道を尋ねた。
「東広島市に行きたいが、この道でいいですか」、警官「車ですか」と聞かれたので、「いえ、歩いて行きます」といったら、怪訝な顔をしたので、これから京都まで、歩いて行きますと説明した。大筋の道を聞いたので、歩きながらスマホの電源を切り、再起動したら、回復した。20分程で京橋川の上柳橋を渡り、真直ぐに進み、駅前大橋南詰の信号を直進し、猿侯川復元記念モニュメントを左に見て、猿侯川の猿侯橋を渡った。ナビにこの道が西国街道(山陽道)だとある。山陽新幹線、芸備線、呉線そして山陽本線広島駅から出ている4線の陸橋を渡って、才蔵寺手前を右折し、温品川の府中大橋を渡った。スマホのナビ画面は、ある縮尺になると道路に西国街道と記してある。今頃気が付いた。道に迷わずに済む。しばらく進むと、安芸山陽道の道標があった。歩いて旅する者にとってはうれしいかぎりだ。
比丘尼坂を上がって行き、舟越峠を越えていくと町中に、織田幹雄生家跡があった。織田幹雄は明治38年、安芸郡海田町で生まれ、昭和3年オランダアムステルダムで開催された第9回オリンピックの三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストになった人である。地図で見ると海田脇本陣はすぐ近くだが、標識がない。近くを行ったり来たりしたが分からない。
役所の広場の中に入っていくと、右わき奥に掲示板の隣に説明板があった。すぐ近くにある「千葉家住宅」は、数少ない江戸時代中・後期の建築様式を今にえ、玄関は入母屋(いりもや)造り、座敷は数寄屋風書院(すきやふうしょいん)造りで、寛政元年(1789)の建物略図も残っているという。
大野浦駅からの時刻表をスマホで調べると、11時14分発の電車があった。広島駅到着は11時48分だ。歩いて行くと5時間強かかるが、電車だとわずか34分だ。計画の廿日市と古江はパスしたが、止むを得ない。広島駅に着くと、駅内は活気にあふれていた。ここに来るまで旧街道を歩いていたから、過去から現代にタイムスリップした感じだ。
時間は十分にあるので、駅から広島城に歩いて行くことにした。およそ1.5km約20分の距離だ。京橋川の栄橋を渡り、広島城の正面に行くと池田勇人銅像が立っていた。
お堀を通って裏御門跡、南小天守跡、東小天守跡、天守閣、広島大本営跡、本丸御殿広間跡、広島護国神社、中国軍管区司令部防空作戦室原爆被災説明板とほぼ一周して広島城の見学を終わらせた。
途中、町並みを見学しながら、広島市役所に向った。広島サミットを1ヶ月後に控えて、町並みが綺麗に整えられている。追い込みの工事が何ヵ所か見られた。右足小指が痛くなってきたので、タクシーで市役所に行った。案内の人に聞くと不在者投票は市役所ではなく、北区役所で投票できると云われ、道路の真向いにある区役所に行った。
訪問の目的を告げると職員3人が対応してくれ、別室に通され投票した。投票用紙を筑西市返信用封筒に入れるのを確認して、初めての不在者投票が終わった。私は物好きだから普段やらないことを体験したが、スマホで投票できる人は、いつでもどこでも投票に行けるようにしてほしいものだ。
本場の広島焼が食べたかったので、普段、産業界で世話になっている日刊工業の茨城支局長が広島出身だと聞いていたので、メールでお薦めの店を教えてもらった。
それによると「みっちゃん総本店八丁堀店」が良いとのこと。午後5時45分店に入ると仕事帰りの人たちが男女を問わず、満席だった。運よくカウンター席が一つ空いていたので、そこに座り、生ビールと八丁堀セット3,000円を注文した。スペシャルお好み焼き(焼きそば入り)、牡蠣焼きがついている。
生ビールを一気に三分の一程度飲み、牡蠣焼き7個を食べた。次にお好み焼きだ。関東よりキャベツの量が圧倒的に多く入っている。写真は上から取ったので、ボリュウーム感に乏しいが、実際は厚みも十分で、美味しかった。ホテルには途中でコンビニにより、明日の朝食と靴下を買った。右足小指が痛いので、少し厚みのある靴下を探した。今日は電車に乗ったが、総距離30km、43,861歩だった。明日の天気は12℃から最高で21℃、丁度良い天気だ。9時に就寝。
関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。
6時50分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。
少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22歳の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。
2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。
4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。
松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に
その後台風により橋は流失し、昭和28年1月に再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて橋を架け替えられた。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mとなっている。錦帯橋といえば、周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術である」と記されあった。
宿泊の末岡旅館は5分程で着いた。昭和の初めに建てられ、ろくに修理もしていないと、フロントのご主人が自嘲的に話した。部屋に案内されると8畳二間で広いが、トイレ・風呂は共同である。コロナの非常事態で観光客の姿も少なく、宿泊客は私一人だった。お好み焼きが食べたくなり、10分程で店に到着したが、閉店だった。他にも当たったが同じだった。仕方なくコンビニで食事とおつまみ・ビールを買い、部屋に戻って食事をとった窓から見る錦川と河原、錦帯橋と奥の山の頂上には岩国城が見える。
薄曇り少し寒い、風は微風。国道2号線を久保市に向けて歩き始めた。しばらくすると左手に山陽新幹線と岩徳線の二線が平行して、こちらに向ってくる。しばらく並行していくと、旧道に出た。汐入峠を越えて、7時40分頃久保市に着いた。ここから山陽本線の勝間駅まで、約5kmの距離で、国道2号線とほぼ同じ道のりを行く。
標高の低い峠を越えて、山陽本線の踏切を渡り、少し歩くとまた山陽本線の踏切を渡り、勝間駅に8時40分に着いた。ここも無人駅だった。国道2号線を進み、ガソリンスタンド手前の信号を右折し、旧道に入っていく。岩徳線の踏切を渡ると、左に西善寺というお寺が見える。
この辺りが呼坂(よびさか)宿だ。少し先に「吉田松陰 寺島忠三郎決別の地」の顕彰碑と辞世の碑があった。安政六年五月吉田松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿(囚人用の籠)は萩を発し、小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂に於いて師と無言の別れを告げた。
寺島忠三郎は天保14年(1843)近習寺島大治郎の二男として生まれ、16才で松下村塾に入り、吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞と共に自刃した。寺島忠三郎生誕の地はこの少し 先にある。
中村川の呼坂橋を渡ると呼坂本陣跡があった。呼坂本陣跡は防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂(えびさか)」と記されているという。
江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を 勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしたと云う。左手に高水駅をみて、先に進み、岩徳線の踏切を渡り、今市宿に入った。
高水村塾之址の石碑と浄土宗正覚寺を、右に曲がり道なりに進むと、芭蕉塚があり石碑に俳句が彫られているが、文字が薄れ判読が出来なかった。更に道なりに進み踏切を渡り、進むと「郡境の碑(山陽道中山峠)」と石碑に彫られた道標があった。「従是東玖珂郡 従是西熊毛郡」と記してあり、東玖珂方面に足を進めた。中山峠の山中を歩く。行きかう人はいない、静かな山の中を歩くと水の流れる音が絶え間なく、聞こえてくる。山の斜面から、小さな水の流れ、少し大きな水の流れを、あちこちから見ることが出来る。このような空間で水の流れる音だけが聞こえる体験は初めてだ。
少し行くと石仏4体ありと絵地図に記されてある。調べたが、由来が分からない。ここはもう岩国市だ。島田川支流の橋を渡り、島田川沿いに進むと左手に、米川駅が見える。のどかな日和の中、島田川沿いをのんびりと歩いた。島田川支流を渡って、真直ぐに行くと旧山陽道だが、少し寄り道をして高森天満宮に着いたのは11時40分だった。