山陽道・西国街道旅日記 八日目(P42~43/P89)

のだという。商店街を過ぎると左手の山には千光寺が見え、                                       
右手275-1.jpgの瀬戸内海には向島が見え、尾道駅裏手に尾道港がある。国道2号線にでて、郵便局前を左に曲がっていくと、標高300mの防地峠を登って行った。約30分で頂上に着き、下界を見下ろすと、尾道市街と瀬戸内海の向島と小さな岩子島を見る事が出来た。頂には「東の番所跡・領界石」があった。領界に当たる場所には「是より西 藝州領」、「従是東 福山領」と有り、我々は東の福山領に向った。

今日から一緒に旅をすることになった田部井さんの    足取りも快調だ。昨年も中山道の旅で日本橋から浦和まで25kmを走破し、最長の距離を歩いた。自信がついたので、(1200)も一緒に越えることになった。

275-2.jpgのサムネール画像

順調に進み、藤井川を渡り、今津宿本陣跡(河本家)に着いたのは11時半だった。今津宿本陣跡は、豊臣秀吉の全国統一が実現し、文禄・慶長の役にあたり、京都大阪から肥前名護屋に至る街道が整備され、慶長七年(1602)には今津宿が設けられた。江戸幕府による宿駅・伝馬の制や大阪から長崎に至る西国街道が整備充実され、今津宿は神辺・尾道間の宿場町として戸数三百戸以上、商家軒を連ねて賑わったと伝えられている。宿の中核となった本陣は代々庄屋職を務めた河本家により世襲され、現在でも表門、堀、石垣などに当時の面影を残しているという。

275-3.jpg

昼食を取り、二人で話しながら歩き、大分経ってから田部井さんから道が違うのではないかと言われ、再度確認したところ真直ぐに進むところ、右に曲がってしまったようだ。やむなく来た道を引き返したので、往復で10km近く余計に歩いてしまった。

計画では備後赤坂駅から電車に乗って、井原駅まで行く予定だったが、既に歩行距離は30kmを越えているので、一つ手前の松永駅から井原駅まで行くことにした。私も計画を変更して一緒に行くことにした。松永駅から山陽本線(長船行)福山駅で乗換えた。ホームの目の前に福山城がそびえたっていた。福山城は元和8(1622)に              築城され、伏見櫓、鉄筋御門は、京都伏見城から移された        

275-4.jpg

もので重要文化財とのこと。五層の天守閣は戦災で焼失したが再建され、内部は郷土博物館として歴代藩主の遺品、草戸千軒町遺跡から出土品が展示されているという。福山藩祖の水野勝成は安土桃山・江戸初期の大名で、関ヶ原の戦い、大阪夏の陣で、数々功を上げ、元和5年、福山に移封された。福山駅から福塩線(府中行)で神辺駅に行き、神辺駅から井原鉄道(早雲の里荏原行)に乗って井原駅1552分に到着し、タクシーでビジネスホテル歴上荘に着いたのは16時過ぎだった。

行程は間違ったが、到着時間は予定通りだった。結果として田部井さんは35.7kmを走破し、新記録を達成した。

275-5.jpg

チェックイン後、いつも通り洗濯をするため、ランドリーに向った。途中食堂があったが、客が少ないので、食事は提供していない。新型コロナのため、客はいなかった。客層は近くの工場への出張者や長期の期間工が多いとのこと。風呂場は大きく、  足を延ばしてリラックスすることが出来た。食事は、田部井さんが周りを散策した時に、見つけた居酒屋に入り祝杯を挙げた。しかしここで事件が起きた。ビールを飲み、食事が終わって、ほろ酔い気分で帰ろうとしたとき、靴を履いたところ、感触が違う。足裏の感触と全体の作りが貧弱だ。何度確認しても私の靴はなかった。客は5~6人と少ないので、私の靴を間違えて履いて、帰ってしまったに違いない。HOKAの長距離を歩く靴だ。店に間違いのことを話してもここに帰ることはないので、残された靴を履いてホテルに帰った。9時過ぎに就寝。

山陽道・西国街道旅日記 八日目(P40~41/P89)

八日目 4月22日 土曜日

 

274-1.jpg

5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は6時。今日の計画は尾道市、防地峠、今津本陣跡、備後赤坂駅まで26kmは、田部井さんと一緒に行き、田部井さんは備後赤坂駅から電車で井原駅に行き、ビジネスホテル歴城荘で合流する。私は大渡橋、神辺駅まで36kmを歩き、ここから電車で井原駅に行きホテルで合流する。

最初の計画では、三原市から36km先の神辺駅近辺の宿泊だが、ホテルがない。そこで旧山陽道から大きく外れるが、神辺駅から電車で、福山市の福山駅に行って宿泊しようと思った。

274-2.jpg

福山市は広島県の中でも大きな都市である。しかし2ヶ月前にネットや電話で、ホテル、旅館、民宿のすべてにアクセスしたが、すべて満室だった。あまりに込んでいるので、旅館の人に聞くと、「ももいろクローバーZ」というアイドルのコンサートがあるので、福山市一帯の宿泊施設はどこも満室とのことだった。予約が取れたのは、岡山県井原市の井原駅から徒歩15分の所にあるビジネスホテル歴城荘だけだった。私は旧山陽道を歩いて井原まで50km、正味10時間だが、食事、休憩、見学などを加えると、11.5時間はかかる。行けないことはないが、まだ先があるので、無理のない計画にした。

274-3.jpg

事前に田部井さんに理由を話して、井原駅のビジネスホテル歴城荘に、宿泊することを連絡した。田部井さんも同ホテルの予約が取れたことを連絡してきたので、変則の行程に決まった。

 最初の目的地は尾道だ。県道185号線を進み和久原川を渡って、山陽本線糸崎駅を通り、糸崎神社に着いたのは644分だった。糸崎神社は尾道と三原を結ぶ国道2号線沿いにあり、瀬戸内海に面し、長井の浦と呼ばれる風待ちの浦として「万葉集」にも読まれている歴史ある旧県社とのこと。境内にそびえる御神木の大楠(クスノキ)は、樹高30m、胸高さ幹囲13m、樹齢推定500年で、三原市の天然記念物に指定されている。

274-4.jpg

                神社を後にして、5分程進むと「六本桜 一里塚跡」の石柱があった。瀬戸内海沿いを進んで、尾道駅に着いたのは8時50分だ。旧道を少しそれて、アーケードが掛かっている「尾道本通り商店街」に向った。朝早いので開いている店は少なかった。

274-5.jpg

商店街のアーケードには、大きな垂れ幕「古寺めぐり入り口千光寺公園登山口」が目に入る。千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、弘法大師が開いたと伝えられている。


274-8.jpg

「尾道町奉行所 平山角左衛門尚柱」と「奉行所跡」の石柱、「尾道商工会議所創立120周年記念碑」などがあり、この商工会議所の建物は鉄筋コンクリート造りとしては、現存する日本最古のも

山陽道・西国街道旅日記 七日目(P38~39/P89)

立ってあった。竹原の歴史は全く知らない。273-1.jpg
調べてみると、古くから瀬戸海の交通の要衝として発展した。室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。「安芸の小京都」と呼ばれ、県道330号線と国道2号線の分岐点から竹原市の中心部は約8km、瀬戸内海の港町にたどり着く。山沿いを歩いていると、瀬戸内海は全く見えなかった。1982年には、たけはら町並み保存地区が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたと云う。計画段階では、竹原市の事は知らなかった。30位進むと道路の標識があった。岡山107km、福山48km、三原市街16kmとある。このあたりの街道は平たんで歩きやすい。

273-2.jpg

標識のある地点から20分位すると、史蹟貞丸古墳と記された白木板が目に入った。貞丸古墳は沼田川支流の尾原川の左岸丘陵斜面に営造された古墳群で、1号、2号古墳がある。築造時期は古墳時代終末期の7世紀前半頃と推定されている。更に40分程で御年代(みとしろ)古墳の入り口の案内板があった。御年代古墳は、古墳時代終末期の7世紀中葉頃の築造と推定され、畿内型古墳で全国的にも数の少ない複室構造の1石室2石棺の古墳である点で注目され、沼田地方の首長墓として当時の政治情勢を考察する上で重要視される古墳であると云う。旧山陽道の絵地図に載ってあったので、旧道を歩く時の目印にしただけで、古墳自体の見学は行わなかった。次に向かうのは安芸高木山城跡だ。旧山陽道と並走して国道2号線が走っている。12時半頃に昼食を取り15分位休憩をとったのち、目的地に向かった。

273-3.jpg

絵地図とナビで歩いて行った場所は、小さな集落で10件程の家がある場所に着いた。しかし城跡らしき空間がなく、標識もなかった。3回ほど行ったり来たりしながら、探したが見当たらない。上の方を見ると小高い丘にそれらしい公園が見えるが、周りに人影もなく、聞くこともできない。グ―グルで検索したが、城跡の位置は民家を指している。別のサイトを見ると山の上に矢印で指している写真があって、これかなと思ったが、案内板もないので、登って行くことをあきらめた。進んで行くと、程なく甑(こしき)天満宮に着いた。説明文によると、甑天満宮は石段を登って行くと社殿があり、祭殿には天神様、学問の神様として信仰されて菅原道真公はじめ、その他諸神を祀ってある。

273-4.jpg

伝承によると「延喜(901)元年、菅原道真が左遷され九州大宰府へ下向の途中に立ち寄ると、土地の人々は水不足で大変苦労していた。道真は自ら井戸を掘りはじめると、こんこんときれいな水が湧き出し人々を救った。


273-5.jpg

里人は道真の干飯を甑で蒸して差し上げた。その後この甑で納めて祀ったのが甑天満宮である。」と言われている。足を先に進め、沼田川を渡り、20分程で山陽本線本郷駅に到着した。午後1時半だった。

273-6.jpg

宿泊地の三原ステーションホテルには、昨年、中山道の日本橋から浦和、横川から碓氷峠を越えて軽井沢まで、一緒に歩いた田部井さんが待っている。本郷から途中は沼田川沿いに国道2号線の歩道を歩いた。3時半に三原市郊外に到着し、5時半に三原ステーションホテルに到着した。歩行距離40km、歩数57,417歩だった。ホテルで田部井さんが出迎えてくれた。早速、チェックインし、シャワーで汗を流し、三原名物のタコ料理を食べようと、三原市1番人気の店を紹介してもらった。

273-7.jpg

徒歩3分とのこと。店に入ったが、予約でいっぱいで断られた。やむなく次の店に入って、蛸をメインに料理を注文し、ビールと地酒を飲みながら、     昨年の中山道の思い出や下関からここまでの出来事を話し、盛り上がった。明日の打合せを行い、早めにホテルに帰り、9時に就寝。

 



山陽道・西国街道旅日記 七日目(P36~37/P89)

七日目 421日 金曜日

272-1.jpg

5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は7時。今日は仁賀(にか)ダムを通り、目印の賀茂川荘行き、国道2号線と合流して、安芸高木城跡、山陽本線本郷駅、三原城址、三原ステーションホテルまでの約37kmあり、仁賀ダム展望台までは約10kmの道のりだ。

272-2.jpg

街道の情報がない一般道を行くのはつらいものがある。ホテルを出て、安芸津下三永線を右方向に上三永ICまで進み、高架下を通って、県道330号線(上三永竹原線)を右折すると一本道だ。仁賀峠に向けて緩やかない登り坂が続く。


272-3.jpg

出発して1時間を過ぎたころ集落が見えてきた。少し先に進んで行くと竹原市の標識があり、更に歩を進めていくと「仁賀町 上仁賀」の道標が、目に入る。その先に、浄土真宗本願寺派鳥越山延命寺があった。この辺は信仰心の篤い檀家が多いのだろうと思った。檀家がしっかりしていなければ、この立派なお寺を維持することが出来ないだろう

272-4.jpg

この辺りから緩やかな下りになる。上仁賀の集落を通り過ぎ、しばらくすると仁賀ダムのダム湖(芙蓉湖)が見えてきた。仁賀ダムの展望台が最初の目印だ。目的地が見えてくると歩くのが早くなる。仁賀ダム展望台に着いたのは910分だった。歴史的な情報のない道を歩くと、精神的につらいと思ったが、自然豊かな道や集落を歩いていると、住む人の息づかいを感じることが出来、精神的なつらさはなかった。

272-5.jpg
仁賀ダムは、賀茂川水系賀茂川の治水ダムとして建設され、賀茂川治水計画の一環をなすもので、洪水調整、既得取水の安定化、河川環境の保全を目的としていると云う。仁賀ダムを後にし、第二の目印、賀茂川荘に向う。行程は賀茂川沿いに県道330号線を行く。ほぼ平坦な道で足も楽だ。ダムの下に仁賀ダム下広場というのがある。多目的広場で人工芝になっており、グランドゴルフや野球等、様々なスポーツが楽しめるという。
272-6.jpg

また下流にはゲンジボタルが生息していることから「ホタルの里」として整備ていると云う。10分もしないうちに仁賀小学校が見えた。このような山深いところに小学校があることが、にわかに信じられない。規模も大きそうだ。さらに進む。
272-7.jpg


   賀茂川沿いを歩いて行くと、仁賀地域交流センターやコミュニティセンターの梅王館を通り過ぎ、賀茂川荘が見えてきた。



272-8.jpg

10時、予定通りだ。賀茂川荘は県道330号線から山陽道(国道2号線)に合流する分岐点にあったので、目印の場所とした。調べてみると、ここは湯坂温泉郷といい、およそ1350年前の大化の改新の頃、山陽道の宿駅として栄えたと伝えられている。そのまま真っ直ぐ進むと山陽道(国道2号線)に出た。

 山陽道(国道2号線)を右に曲がり、しばらく緩やかな登り坂を行く。1時間位すると「歴史と文化の町 竹原にまたどうぞ」と記された案内板が  

山陽道・西国街道旅日記 六日目(P34~35/P89)

271-1.jpgように続いている。中大山交差点を通り過ぎ、桜河内交差点に出た。この右手には瀬野川公園やデイキャンプ場の案内板があった。更に進むと「涼木の一里塚跡」の道標が立っていた。そのすぐ先には「吉田松陰詩詠の地」の道標があった。

271-2.jpg
旧山陽道には吉田松陰の痕跡が数多く残る。若くしてその意思を貫き通し、処刑されたが、松陰の影響を受けた多くの長州人によって、維新を成し遂げたことに改めて尊崇の念を抱いた。ここから20分程で大山峠の頂上に着いた。大山峠は、標高は低いのだが、長い登り坂が二か所あり、結構きつかったが、靴下を変えたせいか足の調子は良い。瀬野川沿いを下って行くと、30分程で東広島市八本松町に入り、30分程歩いて行くとハンバーガーの看板があったので、昼食をとることにした。

271-3.jpg
店の名前はグレイビージャックという。中に入って、メニューを見ると巨大なハンバーガーだ。高さが15㎝位あり、どのようにして食べるか考えた。両手で持ってもうまく食べられないので、下の方から少しずつ食べることにした。肉がしっかりしていて美味しかった。近くに工業団地があるせいか、お客は若い人が多い。アベックは1個頼んで、シェアして食べている。食べるに大分時間を要した。家に帰ったら、もう一度食べたいと思ったので、店員さんにこの店は他の地域でも展開しているか尋ねたが、ここでしか営業していないとのこと。残念。

271-4.jpg
店を出ると気温は25℃に上がっていた。10分ほど行くと「長尾一里塚跡」の石碑があった。八本松駅手前を右に曲がり進んで行くと、右手に八本松南運動公園が見える。この辺りは工場、商店、住宅が多く、山陽道の面影はなかった。のまま進んで行くと、広い道に出た。山陽ふるさと街道という。街道から西条駅までの道はナビで行くことにした。この辺りは旧山陽道の道標がないため、道がよくわからない。計画では西条駅近辺のホテルに泊まろうと思ったが、ナビ表示では広島市から西条駅まで34kmと短い、いつも40kmの所で宿を探しているので、中途半端な距離だ。絵地図では、この先にある松子山大池付近までが4.4kmで、ちょうど38.4kmになるので、この近辺で宿を探したが、見つからない。宿は皆無だった。やむなく、旧山陽道から大きくそれてしまうが、西条駅を南下して約6kmの山陽新幹線駅前にあるビジネスホテル「東横イン東広島前」まで行くことにした。
271-5.jpg

計画段階でこのルートが一番悩んだ。ポケットサイズの絵地図だと全体の位置関係や方向が分らないので、グーグルマップで広島市から東広島駅までのチェックポイントと、翌々日の三原市までのチェックポイントを経由地の地名に入れていき、地図を作った。いろいろ検討した結果、東広島駅の行程は2.5kmの遠まわりになるが、宿泊施設が決め手で東広島駅ルートにした。     

 

271-6.jpg

東広島駅に着いたのは、午後4時だった。ホテルは駅前の通りの、真向いにある「東横イン東広島前」だ。チェックインして、洗濯を終わらせ、シャワーを浴びて汗を流し、ホテルの夕食をとって、ホテルの隣にあるコンビニで朝食のおにぎりと飲み物を購入して、部屋に戻った。今日の歩行距離44km63,416歩だった。明日の天気予報は晴れ気温1221℃。ちょうど良い。9時就寝。


山陽道・西国街道旅日記 六日目(P32~33/P89)

六日目 4/20木曜日

270-1.jpg
5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、出発は615分。右足小指の治療を行い、昨日買った靴下をはいてみた。痛みがいく分和らいだ。今日は海田脇本陣、山陽本線の安芸中野駅、瀬野駅、八本末駅、西条駅を通って、東広島駅前にある「東横イン東広島駅前」までの約41kmだ。チェックアウトし、ロビーに出ると何人かの人がいたが、私の服装は際立っていた。帽子、サングラス、マスク、黄色の半袖ティーシャツそしてリュックを背負い、靴はトレッキング用の靴、何とも違和感のある服装だ。ロビーから玄関に出て、スマホのナビで旧山陽道に行く道を確認した。


270-2.jpg

ところがナビの画面が固まってしまい、道順が表示されない。このホテルは広島サミット関係者も宿泊するので、1ヶ月後に控えたサミットのため、警備が厳重だ。玄関を出ると左右の交差点に警官が一人ずつ配置されている。私がスマホの画面を回復しようとしている姿は、警備している警官から見れば、挙動不審者に見えるかもしれない。職務質問でもされると面倒だと思い、サングラス・マスク・帽子を取って、警官の方に向かって行き、道を尋ねた。


270-3.jpg

「東広島市に行きたいが、この道でいいですか」、警官「車ですか」と聞かれたので、「いえ、歩いて行きます」といったら、怪訝な顔をしたので、これから京都まで、歩いて行きますと説明した。大筋の道を聞いたので、歩きながらスマホの電源を切り、再起動したら、回復した。20分程で京橋川の上柳橋を渡り、真直ぐに進み、駅前大橋南詰の信号を直進し、猿侯川復元記念モニュメントを左に見て、猿侯川の猿侯橋を渡った。ナビにこの道が西国街道(山陽道)だとある。山陽新幹線、芸備線、呉線そして山陽本線広島駅から出ている4線の陸橋を渡って、才蔵寺手前を右折し、温品川の府中大橋を渡った。スマホのナビ画面は、ある縮尺になると道路に西国街道と記してある。今頃気が付いた。道に迷わずに済む。しばらく進むと、安芸山陽道の道標があった。歩いて旅する者にとってはうれしいかぎりだ。

270-4.jpg

比丘尼坂を上がって行き、舟越峠を越えていくと町中に、織田幹雄生家跡があった。織田幹雄は明治38年、安芸郡海田町で生まれ、昭和3年オランダアムステルダムで開催された第9回オリンピックの三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストになった人である。地図で見ると海田脇本陣はすぐ近くだが、標識がない。近くを行ったり来たりしたが分からない。   

270-5.jpg

役所の広場の中に入っていくと、右わき奥に掲示板の隣に説明板があった。すぐ近くにある「千葉家住宅」は、数少ない江戸時代中・後期の建築様式を今にえ、玄関は入母屋(いりもや)造り、座敷は数寄屋風書院(すきやふうしょいん)造りで、寛政元年(1789)の建物略図も残っているという。

270-6.jpg成本、石原を通っていくと安芸中野駅手前に「中野砂走の出迎えの松」がある。案内板によると、旧国道沿いに立ち並ぶ松並木は、西国街道にかつて植えられていた海道松の名残で、樹齢150250年と推定され、「出迎え松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を家来や村人がこの松の辺りまで出迎えたという。瀬野川と平行に走る山陽本線沿いに進んで、安芸中野駅前に着いた。

270-7.jpg
そのまま行くと山陽道だが、斜め右に山陽本線の下を通り抜け、左の曲がると瀬野川沿いの道に出た。川沿いを歩くと気分が変わる。20分程歩いて踏切を渡って、山陽道に合流し、中野東駅を通り過ぎた。                   

270-9.jpg
安芸山陽道を順調に進んで行くと、左手に広島国際学院大学の校舎が見え、1040分に瀬野駅に着いた。
270-8.jpg
この辺りは国道2号安芸中野~中野東の道線、山陽本線と旧道が絡みつく   
芸中いに


山陽道・西国街道旅日記 五日目(P29~31/P89)


269-1.jpgわたり、長州藩を攻めた戦い。長州戦争、などとも呼ばれ、幕府は蛤御門の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので、戦わずに撤兵した。後に、長州藩首脳はこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派一掃し、幕府に対抗する姿勢を示した。幕府は第二次長州征伐で出兵したが、敗退し撤退した。長州の役戦跡碑は小瀬川西岸に佇んであった。苦の坂峠を越え、大竹市に入って進み、山陽本線と国2号線が平行に入っているところに合流した。絵地図ではここから西の山側を通っていくようになっているが、国道2号線の歩道を行くことにした。

269-2.jpg
右側は瀬戸内海が見え、海岸沿いに工業地帯が、左側にはすぐ山が迫っている。大竹市役所を通り、945分に玖波駅に到着した。
工業地帯の大きな工場や国立病院等大きな施設があるが、玖波駅は駅が小さいと感じた。

周りに就労場所が多くあるのに、この駅で通勤時の混が起きないかなどと考えながら玖波駅を後にした。

269-4.jpg



269-3.jpg
                             






次のチェックポイントは山陽本線の大野浦駅だ。ここからは国道2号線を行くことにした。2号線は瀬戸内海海岸沿いで、景観が良いからだ。
瀬戸内海には牡蠣の養殖場がたくさん見られ、右斜め前方には大きな島が見える。厳島(いつくしま)だ。大野浦駅に着いたのは11時だった。ここで休憩を取り広島市役所に電話した。というのも出発前に統一地方選挙の期日前投票を広島市で行う予定を立てていた。期日前投票は20時頃まで出来ると思っていたが、念のため市役所に電話をかけて確認した。広島市役所到着時間は午後450分なので、大丈夫ですかと尋ねたところ、不在者投票は午後5時までしかできないと言われた。なんでと質問したが、髙橋さんは期日前投票ではなく、不在者投票ですと云われ、なすすべがなかった。そこで急遽予定を変え、山陽本線で広島駅に行くことにした。  残念。

269-5.jpg

大野浦駅からの時刻表をスマホで調べると、1114分発の電車があった。広島駅到着は1148分だ。歩いて行くと5時間強かかるが、電車だとわずか34分だ。計画の廿日市と古江はパスしたが、止むを得ない。広島駅に着くと、駅内は活気にあふれていた。ここに来るまで旧街道を歩いていたから、過去から現代にタイムスリップした感じだ。

269-6.jpg

時間は十分にあるので、駅から広島城に歩いて行くことにした。およそ1.5km20分の距離だ。京橋川の栄橋を渡り、広島城の正面に行くと池田勇人銅像が立っていた。

269-7.jpg

      


   お堀を通って裏御門跡、南小天守跡、東小天守跡、天守閣、広島大本営跡、本丸御殿広間跡、広島護国神社、中国軍管区司令部防空作戦室原爆被災説明板とほぼ一周して広島城の見学を終わらせた。

269-8.jpg

途中、町並みを見学しながら、広島市役所に向った。広島サミットを1ヶ月後に控えて、町並みが綺麗に整えられている。追い込みの工事が何ヵ所か見られた。右足小指が痛くなってきたので、タクシーで市役所に行った。案内の人に聞くと不在者投票は市役所ではなく、北区役所で投票できると云われ、道路の真向いにある区役所に行った。

269-9.jpg

訪問の目的を告げると職員3人が対応してくれ、別室に通され投票した。投票用紙を筑西市返信用封筒に入れるのを確認して、初めての不在者投票が終わった。私は物好きだから普段やらないことを体験したが、スマホで投票できる人は、いつでもどこでも投票に行けるようにしてほしいものだ。


269-10.jpg今夜宿泊は4星ホテルのリーガロイヤルホテル広島だ。この旅を通じて一番良いホテルだ。チェックイン後、コインランドリーに行き洗濯をした。シャワーを浴びて汗を流し、食事に行く。  

本場の広島焼が食べたかったので、普段、産業界で世話になっている日刊工業の茨城支局長が広島出身だと聞いていたので、メールでお薦めの店を教えてもらった。

269-11.jpg

それによると「みっちゃん総本店八丁堀店」が良いとのこと。午後545分店に入ると仕事帰りの人たちが男女を問わず、満席だった。運よくカウンター席が一つ空いていたので、そこに座り、生ビールと八丁堀セット3,000円を注文した。スペシャルお好み焼き(焼きそば入り)、牡蠣焼きがついている。

269-12.jpg

生ビールを一気に三分の一程度飲み、牡蠣焼き7個を食べた。次にお好み焼きだ。関東よりキャベツの量が圧倒的に多く入っている。写真は上から取ったので、ボリュウーム感に乏しいが、実際は厚みも十分で、美味しかった。ホテルには途中でコンビニにより、明日の朝食と靴下を買った。右足小指が痛いので、少し厚みのある靴下を探した。今日は電車に乗ったが、総距離30km43,861歩だった。明日の天気は12℃から最高で21℃、丁度良い天気だ。9時に就寝。 

山陽道・西国街道旅日記 五日目(P27~28/P89)

五日目 4/19水曜日
268-1.jpg

5時起床。前日、コンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませ、窓の外から夜明けの錦川、錦帯橋の写真を撮った。昨夜治療した右足小指のマメが痛いので、再度消毒液を使い、大きいバンドエイドで小指を巻くように貼り付け、痛みを和らげた。治療に時間がかかったが、予定通り6時に出発した。 


268-2.jpg朝の澄んだ空気を吸い、錦川沿いに進み、錦城橋を通り過ぎたところで、山の頂にある岩国城を仰ぎ見た。岩国城は岩国藩主吉川広家によって、慶長13(1608)に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200mの城山に位置しているという。この道は藤生停車場錦帯橋線(岩国道)と長い名前がついていた。約30分で関戸宿にある目的地吉田松陰東遊記念碑に着いた。

268-3.jpg

関戸宿は山陽道の本陣が置かれた宿場町、本陣跡近くには松陰が当地で詠んだ詩を刻んだ碑がある。松陰は安政の大獄によって江戸に護送される際、防長惜別の地である小瀬の渡し場で、歌を詠んだと云われている。

268-4.jpg


650分にこの地を立って、古い家並みを通り過ぎると旧山陽道の道標が建ててあった。このような道標は道を間違えないで済むので、大変ありがたい。小瀬峠の標高は低いのだが、竹林が多くカーブが少なく一直線に上るような道なので結構きつい。朝早いこともあり行きかう人はいなかった。静かな山の中をゆっくり歩いた。

268-5.jpg
右足小指は痛いというより、ジンジンとしびれる感じだが、問題なさそうだ。一本道だが、途中「旧山陽道」の道標があり、道を間違えないことから、この地域を管轄する人たち(岩国市教育委員会)に感謝の気持ちが生まれる。小瀬峠を越えたころ「旧山陽道跡」の案内板があった。
山陽道は大化の改新(645)により都(奈良)から九州大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。古代には「かげとも(南斜面)のみち」とも呼ばれていた。この道は廿日市市大野大竹市小方を過ぎ、小瀬川を渡って岩国市小瀬に入り、山道を越え岩国市関戸に至る道であった。中世に入り、やや荒廃したが、近世の山陽道は、大阪から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により国内陸路の主要道として利用された。小瀬川の渡し場はここより南東50m付近にあった。」と記してある。
268-6.jpg


少し先に吉田松陰歌碑があった。長州藩の東端にある岩国・小瀬川は、陸路で旅をする長州藩士にとって、故郷との別れの地であり、帰藩に安堵する地でもあったという。松陰は生涯4度、岩国を通っている。最初22の時、江戸遊学に胸躍る旅路だったが、江戸から東北へ行った折に、藩の許可証を持たずに出かけたため、脱藩の罪で帰国命令を受けた。

268-7.jpg

2度目は再び江戸遊学の許しを受け、舟で江戸を目指す途中、岩国に立ち寄った。3度目の岩国通過は物々しい護送となった。ペリーの黒船による密航を企てたが、失敗し、罪人となって帰藩した。

4度目は日米修好通商条約の調印を批判し、江戸への護送を命じられ、岩国を通過した。小瀬川で、松陰は長州への決別の思いを歌に託した。「夢路にもかへらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」と読まれ、夢の中でも戻れないという歌の如く、この年10月に松陰は29歳の若さで処刑された。小瀬川にはこの歌の碑がひっそりと佇み、松陰の想いを現在へ伝えている。

松陰歌碑から小瀬川沿いに進み、和木町立和木小学校を過ぎ、大和橋を渡り、長州の役戦跡碑に着いた。到着は8時半だった。跡碑は幕末、江戸幕府は二度に

山陽道・西国街道旅日記 四日目(P24~26/P89)

267-1.jpg昼食は高森駅近くのステーキ専門店「高森亭」に入り、冷たい水を何杯もお代わりしてから200gのランプステーキ定食を注文し、英気を養った。昼食後、12時半に出発し、新岩国駅を通って、今夜の宿泊地岩国宿に向けて歩き出した。周りの景色を見ると、小高い山々が見え、道路沿いには様々な店があり、私の地元と変わらない風情だ。東川の橋を渡り、進んで行くと、左側に岩徳線と国道2号線が平行しているのが267-2.jpg見える。

玖珂本郷宿を通り、絵地図に記してある欽明寺に行こうとした。絵地図で見ると欽明寺は道路沿いにあるものと思い、疑いもなく欽明路道路の標識がある道を進んで行った。順調に歩いて行くと、トンネルが見える。絵地図では右に迂回して行くようになっているが、道が見当たらない。トンネルの抜け出たばかりとみられる人が、出口の空地に座り込んでいる30歳代の人がいた。私よりも重装備して、歩いて旅をしているようだ。挨拶を交わすと、このトンネルの歩
267-3.jpg
道は大変狭く、歩くのに危険だから気を付けてとアドバイスがあった。お礼を言って、別れを告げ、トンネルの中を進んで行った。

トンネルの中は歩道と呼べるようなものではなかった。歩道は車の路面より15cm高くなっていて、歩道というより側溝で、幅は肩幅と同じくらいの約60cm、側溝には蓋が置かれているが、蓋と蓋の間には大きな隙間がある。躓いて車道側に転ぶと車に接触してしまう恐れがある。このトンネルは交通量が多い。立ち止まったままでも10t車が来ると、風圧で体が引き込まれそうになる。慎重に蓋の隙間に躓かないように、足元をしっかり見定めて歩いて行くが、意外と真直ぐに歩くのは難しい。
267-4.jpg

車道側に体が行かないように、気を付けていると左側に体が傾き、その都度左側の壁に腕をこすりつけ、態勢を真直ぐに立て直す。何度も同じことが起こった。大げさに言うと、人生でこれほどの緊張感を持ったことはなかった。右に体が傾くとトラックと接触事故、ドライバーもまさかこのトンネルに歩行者が入るとは思ってもいないと思う。ようやく出口の明かりが見えてきた。通過するのに約20分かかったが、通過した時の安堵感は近年経験したこと がない。後に調べてみると欽明路トンネルというのだそうだ。最初、絵地図を見た時、トンネルの手前に旧山陽道があるように見えるので、疑わずに来てしまった。もと来た道を戻って旧山陽道に行くには、予定の到着時間を大幅に超えて、暗くなってから旅館に着く恐れがあったので、このままトンネルの中を行くことにした。計画は慎重に作らないといい結果が出ない。このような事故に遭う可能性のある計画はしてはならない。

次にトンネルがあったが、300mくらいか、出口の明かりが見える。側溝の幅は1m程度、それほど神経を使わずに済むので、歩きやすい。次のトンネルは同じく300mくらいで側溝の幅は60cm、出口の明かりが見えるので、しっかり足元を見て歩いた。トンネルを出て御庄川を渡るとコンビニがあったので、中に入り、水を買ってから、トイレを借りた。左腕とシャツが埃だらけ、左の壁に擦って着いた汚れを落とすため、腕を洗い、シャツを着替えて、岩国に向った。道なりに進んで行くと、ここは御庄宿だ。岩徳線川西駅を右手に見て川西交差点を左に曲がり、右に小野畳店の十字路を右に曲がり、錦川の臥龍橋を渡って、最初の信号を左に曲がり、錦川沿いを進んで、錦帯橋の入り口に着いた。見事な5連のアーチからなる木造橋だ。橋の入り口には案内板があり、「錦帯橋は延宝元年(1673)第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建された。
それまでの橋は、錦川の洪水の度に流されたが、 広嘉の斬新な発想と藩の技術者のたゆまぬ努力によって現在の橋が出来た。
267-5.jpg

その後台風により橋は流失し、昭和281月に再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて橋を架け替えられた。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mとなっている。錦帯橋といえば、周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術である」と記されあった。

267-6.jpg

宿泊の末岡旅館は5分程で着いた。昭和の初めに建てられ、ろくに修理もしていないと、フロントのご主人が自嘲的に話した。部屋に案内されると8畳二間で広いが、トイレ・風呂は共同である。コロナの非常事態で観光客の姿も少なく、宿泊客は私一人だった。お好み焼きが食べたくなり、10分程で店に到着したが、閉店だった。他にも当たったが同じだった。仕方なくコンビニで食事とおつまみ・ビールを買い、部屋に戻って食事をとった窓から見る錦川と河原、錦帯橋と奥の山の頂上には岩国城が見える。

267-7.jpgその景観を眺め、ビールを飲んだ。本日は43.5km62,182歩の旅のだった。両足の小指が痛い。明日は歩き出すまでが大変だ。明日の天気は晴れの予報だ。9時に就寝した。

山陽道・西国街道旅日記 四日目(P21~23/P89)

四日目 418日 火曜日
266-1.jpg
5時起床。前日に買ったおにぎりで朝食を済ませた。出発予定6時だが、右足小指のマメが痛いので、治療に時間がかかり、6時半に出発した。今日のチェックポイントは久保市公園、勝間駅、高水駅、米川駅、周防高森駅、欽明寺、新岩国駅、そして宿泊地岩国の末岡旅館までの約39kmだ。


266-2.jpg

薄曇り少し寒い、風は微風。国道2線を久保市に向けて歩き始めた。しばらくすると左手に山陽新幹線と岩徳線の二線が平行して、こちらに向ってくる。しばらく並行していくと、旧道に出た。汐入峠を越えて、7時40分頃久保市に着いた。ここから山陽本線の勝間駅まで、約5kmの距離で、国道2号線とほぼ同じ道のりを行く。

266-3.jpg

標高の低い峠を越えて、山陽本線の踏切を渡り、少し歩くとまた山陽本線の踏切を渡り、勝間駅に8時40分に着いた。ここも無人駅だった。国道2号線を進み、ガソリンスタンド手前の信号を右折し、旧道に入っていく。岩徳線の踏切を渡ると、左に西善寺というお寺が見える。

266-44.jpg

この辺りが呼坂(よびさか)宿だ。少し先に「吉田松陰 寺島忠三郎決別の地」の顕彰碑と辞世の碑があった。安政六年五月吉田松陰は江戸に送られることになり、25日檻輿(囚人用の籠)は萩を発し、小郡を経て山陽道を東進し、高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂に於いて師と無言の別れを告げた。 

266-6.jpg

島忠三郎は天保14(1843)近習寺島大治郎の二男として生まれ、16才で松下村塾に入り、吉田松陰の弟子となり、尊王攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞と共に自刃した。寺島忠三郎生誕の地はこの少し      先にある。

266-7.jpg

中村川の呼坂橋を渡ると呼坂本陣跡があった。呼坂本陣跡は防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また、南北朝時代の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂(えびさか)」と記されているという。                                   


266-8.jpg

江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を    勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしたと云う。左手に高水駅をみて、先に進み、岩徳線の踏切を渡り、今市宿に入った。



266-9.jpg

高水村塾之址の石碑と浄土宗正覚寺を、右に曲がり道なりに進むと、芭蕉塚があり石碑俳句が彫られているが、文字が薄れ判読が出来なかった。更に道なりに進み踏切を渡り、進むと「郡境の碑(山陽道中山峠)」と石碑に彫られた道標があった。「従是東玖珂郡 従是西熊毛郡」と記してあり、東玖珂方面に足を進めた。中山峠の山中を歩く。行きかう人はいない、静かな山の中を歩くと水の流れる音が絶え間なく、聞こえてくる。山の斜面から、小さな水の流れ、少し大きな水の流れを、あちこちから見ることが出来る。このような空間で水の流れる音だけが聞こえる体験は初めてだ。 

266-10.jpg

少し行くと石仏4体ありと絵地図に記されてある。調べたが、由来が分からない。ここはもう岩国市だ。島田川支流の橋を渡り、島田川沿いに進むと左手に、米川駅が見える。のどかな日和の中、島田川沿いをのんびりと歩いた。島田川支流を渡って、真直ぐに行くと旧山陽道だが、少し寄り道をして高森天満宮に着いたのは1140分だった。

266-11.jpg高森天満宮由緒には、菅原道真公を主神に奉ってあり、延喜元年菅原公57歳の時、左大臣藤原時平が右大臣である道真公を政敵として排除し、九州に左遷された道真公は太宰府の途中、当地梅林またの名を緑江の里で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉を潤し、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。この由緒ある地に総持寺の勝宗和尚により祠が建立されたと云われている。 
 
266-13.jpg266-12.jpg

 見学後、旧道に戻り、高森宿の中心部周防高森駅に到着した。結構大きな街だ。途中、吉田松陰宿泊の地の石碑が、また「作家 宇野千代先生文学の碑 入口」の碑が建てられてあるのを見つけた。

266-14.jpg

宇野千代は、大正・昭和・平成にかけて活躍した小説家で、 出生地は岩国市(川西駅)とある。高森本陣跡には「旧山陽道 高森本陣跡」と記された白木が建立されてあった。    

      


最近のエントリー

カテゴリ

月別に見る

検索


ページ先頭へ