3月11日金曜日14時46分、私は栃木県小山市にあるお客様の二階大会議にいた。15時からの会議に向けて知り合いの人達と情報交換をしていたその時、地震が起きた。私が住んでいる茨城県は地震が多く揺れには慣れていたので、1分位で収まるだろうと思った。しかしこの時は揺れがなかなか収まらず、時間を追う毎に横揺れが激しくなってきた。2分位経ったころ更に激しくなり立っていられなくなった。いつもと違う揺れ時間の長さだった。とっさに太い柱の元にしゃがみ込み揺れが収まるのを待った。初めて恐怖感を覚えた。
5分位経って、少し揺れが収まってきたので、階段を駆け下りて表に出た。大勢の人達が同じように表に出て建物に近づかないように通路の真ん中に集まった。友人の伊藤さんの車に乗り込んでテレビを見て、初めて巨大地震であることが分かり、大津波の警報が出ているのが分かった。この間会社に電話を入れたがつながらない。家族や東京に住んでいる両親・娘に電話してもつながらない。1時間位してから退避命令が解除になったので会議室に戻り、カバンを取ってから車に乗り込み会社に向かった。この間も電話がつながらない。
国道50号線は停電のため信号機がつかないこともあり大渋滞。農道や裏道を走った。会社に着く少し前に総務部長と携帯電話がつながり会社の状況を把握した。17時頃、会社に着いたときには、既に全社員を帰宅させた後だった。自分がいない時にどのような判断をしたか心配だったが、的確な判断をした。現場に行ってみると機械のズレがはっきり分かり、周囲の棚が倒れていた。2階の事務所に上がってみると机や椅子、パソコンが床に倒され、天井のボードが剥れ落ちていた。まさに足の踏み場もない状況だった。余震が続いているので会社を後にして自宅に帰った。
自宅周辺を見るとブロック塀が崩れ、屋根瓦が破損している家が数軒眼に入った。自宅の中はガラス類のほとんどが破損し台所は足を踏み入れるところがないくらいだと家内が当時の状況を語った。私が家に帰ったのは18時位だったので、先に帰っていた子供達が部屋の片付けと掃除を済ませていた。幸い屋根と外部の壁に損傷は見られなかった。
「2階事務所の天板落下」
多くの方々からご心配とご支援を頂き、予想より早く復旧が進んでいますので、当社の現況をご報告いたします。
幸い人的被害はありませんでした。建物の損傷も軽微で2階事務所の天井のボードが落下、一ヶ所天井からエアコン落下、机の書類はメチャメチャでパソコンはほとんど落下、ロッカー類は一部横倒しになり、足の踏み場もないような状態位でしたが、300台超の機械が横ズレしてしまいました。
工場の電気・水道は11日(金)夜11時に復帰しました。社員の住居が多くある地域の電気は14日(月)~15日(火)に復帰しましたが、霞ヶ浦水系の水道は未だ復旧していないとのことです。機械工場にとって機械を精密に水平に保つことは会社の命です。出社できる社員で12日・13日から機械の水平だし作業や事務所・工場現場の後片付けを行いました。14日から災害対策本部を設置し、社員一丸となっての復旧作業が本格化しました。
お客様やお取引先様そして機械メーカー等から応援が得られました。皆様に改めて感謝申し上げます。13日(日)に5名、14日(月)に50名、15日(火)に60名、16日(水)に50名、17日(木)に20名、18日(金)に20名、19日(土)に10名、20日(日)に8名、21日(月)に4名が応援に駆けつけてくれました。応援に来た方の総数は222名にもなりました。17日には90%の機械の水平出しが終了し、18日はおよそ50%の設備が稼働しました。19日中に全ての機械の水平だしを終わらせる予定でしたが、21日までかかりました。22日から本格的な稼働を目指します。
熱処理工場は15日午前で炉の点検が終わり、1号炉・3号炉の2基が稼働しました。17日に4号炉の修理が終わり3基稼働することが出来ましたが、2号炉は冷却ポンプの修理が出来次第稼働の予定です。地震で洩れてしまった窒素ガスが20日に入荷するとの連絡を受けましたので、21日から5号炉(ガス軟チッカ)も稼働させる予定です。
22日から当社の社員でだけで本格稼働を目指します。機械の点検が終わった後でも試削りや品質確認等、問題が多々発生すると予想されますが、社員一同この困難を乗り越える所存です。本格稼働が始まりましたら、応援していただいた方々へのお礼の意味を込めまして、このブログに詳しく掲載したいと思います。
25㎞付近の給水所は水を取りに行く人達で混んでいたので、走るのを止めて水を取り飲んだ。再び走り始めたとき体の異変を感じた。両太ももの内側の筋肉に鈍い痛みを感じた。今まで体験したことのない痛みである。なぜか思いいたったのが、ダイヤモンドヘッドを登りきった後の長い下り坂で、いつもより歩幅が大きくなって走ったため、いつも使っていない筋肉を伸ばしたためだと思った。痛みがだんだん強くなり途中で歩いてしまった。その後歩いたり走ったりの繰り返しの連続で、30㎞地点まで到達した。4時間46分12秒を表示している電光掲示板の前で記念写真を撮った。結構気持ちの余裕はあった。
「30km地点にて」
その後は内股の筋肉の痛みで走ることが出来なくなったが、早歩きで歩くことにした。30㎞地点からゴールまで約2時間と目標を定め、ゴール到着時間は午前11時30分頃で6時間30分と考えながらゴールに向かった。最後は走ってゴールしたいと思い、400m位手前から走り始めた。ゴールした時の気持ちはなんとも言えない達成感があった。
ゴールした後、完走した人にだけ与えられる前面にフィニッシャーと書かれた青のTシャツを受け取りに行った。ホテルに帰って、シャワーを浴び、青のTシャツに着替えて昼食に行くと、行く先々の人から笑顔で「おめでとう」と言葉をかけられ、誇らしい気持ちと共に改めて完走した実感を味わった。
還暦の記念にフルマラソンに挑戦したいと思いたってから、練習を積んできたが、途中右膝の故障もあり不安だった。スタートラインに立ったときから完走することだけを考えて、ゴールに向かって行った。終わってみると足が痛いだけで体はなんでもなく、体力に自信が持てた。年が明けると61歳になるが、週1~2回のペースでジョギングを行い、再度挑戦したい。
「完走証明書」
2010年12月12日初めてのフルマラソン42.195㎞のスタートの花火が 午前5時に打ち上げられ、3万人のランナーが一斉にスタートした。スタートラインにはゴンドラに乗った金メダリストの高橋尚子さんが手を振りながらランナー達に 声援を送っていた。私はスタートライン近くで合図を待っていたが、ものすごい混雑でスタート地点まで行くのに10分位掛かってしまった。
前日早めの夕食を取り、午後8時にベットに入ったがなかなか眠ることが出来なかったが、午前2時起床した。7月に右膝を痛めたため、ヒアルロン酸の注射を週1回10月まで続け、11月にはステロイドの注射を右膝に打って治療していた。同時に足の筋肉を強化するリハビリを取り入れて治療に務めていた。念のため左膝も保護するため、左右両膝を入念にテーピングし、サポーターをつけて準備した。おにぎりとバナナを1個ずつとスポーツ飲料の食事を取った。午前4時にホテルのロビーに集合し、やや肌寒い中をスタート地点まで歩いていった。4時半頃スタート地点に到着した時には大勢のランナーでごった返していた。午前5時花火の合図でスタートした。最初ははやる気持ちを抑え3㎞位のところまで歩いて行き、体も温まってきたのでゆっくりと走り始めた。
まだ薄暗い道ではあるが、大勢の人達の波の中にいると否が応でもアドレナリンが増えてくるのを感じる。ワイキキビーチにあるホテル街を通り抜け、ゴールがある公園と海岸の間を走っていった。膝の調子は良好と確認しながら、ダイヤモンドヘッド沿いの坂道を快調に駆け上がった。坂の上に到達した後は緩やかな長い下り坂だった。予想より調子が良かったのと緩やかな下りを利用して少しスピードを上げって行った。15km位だと思うが、高速道路に入っていった。この高速道路は前日車を走らせて下見をしたが、予想通り単調なコースで気持ち的にきつかった。高速道路を降りると住宅街の角々にランナーを応援する地元の人が大勢出ていた。ボランティアのバンドが歩道で演奏していた。音楽のリズムに合わせながら走ると、不思議と疲れを感じない。今日は調子が良い。