2011年3月

東北関東大地震(6)   

更に、コマツみどり会の都筑製作所が長野県から、山岸さんを中心に亀岩さん、壁谷さん、指田さん、戸田さん、松林さんの6名が到着し、長津工業から寺田さん、中村さんの2名が石川県から10時間以上かけて駆けつけてくれた。

 

日立建機とは地震発生の時から固定電話や携帯電話に何度も連絡を試みたが、だめだった。土浦方面も大きな被害だとの情報が入っていたので、心配だった。朝早く携帯電話で連絡が取れた。電気・ガス・水道が復旧せず、我々の会社より被害が大きい様子だった。継続して連絡を取ることを確認した。

 

川崎重工とは地震発生の時から、私の携帯に電話がかかってきたが、着信だけで連絡が取れない。連絡が取れても、雑音が多く聞き取りにくい。すぐ切れてしまう。私は携帯のメールのほうが確実につながると思い、携帯のメールで現在の情報を知らせた。この日午後、応援チームを送ると連絡があった。ありがたい。

 

ハイエストコーポレーションと電話がつながり、状況報告を行った。機械の横ズレの被害が大きく、自分たちの復旧の見通しが立ち次第応援に行くと言われた。水準器が足りないことを話すと宅急便で送ると約束してくれた。ありがたい。

 

日刊工業新聞社の豊田支局長からお見舞いと取材の電話が入った。簡単にまとめて被害状況を報告した。茨城県の中小企業の助け合いと応援部隊の状況を取材したいと申し入れがあった。道路が寸断されているので、訪問することが出来ない。復旧作業をしている写真を数枚送ってほしいと依頼があったので、写真を撮りメールで送った。茨城産業人倶楽部や茨城県経営者協会からも連絡があり被害状況の情報交換を行った。

 

この日は午後9時ごろ会社を引き上げた。家に帰ってからも余震は続いていた。 10時ごろ震度4位の地震があった。夜中も何度か地震があり眼が覚めた。阪神淡路大震災のときも1ヶ月位余震が続いたことを思い出した。

 

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                  『機械の水平出し クールテックチーム』

東北関東大地震(5)   

14日月曜日4時半起床。テレビ、新聞で地震と津波の被害状況を確認。福島の原子力発電所が大きな被害を受けている。計画停電のこともあり電気の回復が一番心配だ。と思うと同時に自分が今出来ることを確実に早く行おうと思った。今日は全体朝礼を行い復旧対策について、全員の意思統一を行う。

 

時半に出社、8時から全員社員の朝礼を行った。最初に東北関東大地震で亡くなられた人に対して、1分間の黙祷を行った。そして今回の大地震災害からの迅速な復旧と生産再開を図るため、災害復旧対策本部を設置し、その場所を現場事務所にすると説明し、全員の協力を要請した。総括と渉外を担当する本部長は私、副本部長の専務はチーム編成及び作業進捗管理、隊長の総務部長は応援チーム生活環境手配フォロー、副隊長は総務部主任、作業進捗フォローの隊長は製造部長、副隊長は生産技術部長を配置した。その他に応援チームを案内する玄関受付、伝令を行う係りをそれぞれに配置した。

 

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                       『災害復旧対策本部』

 

復旧を迅速に行う為の基本方針は製造課・保全課・生産技術課チーム、応援チーム、機械メーカーチームで機械の水平出しを行い、試削り後の品質確認、連続運転が出来て完全復旧とした。現場事務所に設置した災害復旧対策本部の壁に工場全体のレイアウト図、K1~K10工場の詳細レイアウト図に機械の型式をつけて、外部の応援チームの人達が一目で分かるようにした。詳細レイアウト図に水平出しを着手した機械は水色の○印を、水平出しOKは水色の○印の周りに紺色を塗り、試削り・品質確認終了し立ち上げ完了は機械全体に緑色を塗ることにした。異常が発生した機械には黄色の○印をつけて区別し作業の進捗を見えるようにした。報告の都度、作業進捗表に記入し漏れのないようにした。一般作業者は後片付けと清掃を行い、水平出しを完了した機械の試削りを行うこととした。

 

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        『応援に来た重機(復旧対策本部前の駐車場)』

 

KYBチームは相模工場から2名、相模の重量運搬の中村運送6名、同じく岐阜の 興亜組7名が加わり総勢15名、クールテックチームが4名、それぞれ本部で登録していただいた後、レイアウト図を渡して作業を開始した。チーム数は当社の3チームと合わせて7チーム、28名であった。まもなくしてコマツチームが大阪工場の人を中心に小山工場から到着した。前日下見に来た福本さんを中心に星野さん、真田さん、山田さん、中村さん、森島さん、佐藤さん、皆川さん、重量据付の三徳さん、 電気の大晃さん総勢18名の応援チームだった。

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                  『応援に来た重機(正面の駐車場)』

 

 

東北関東大地震(4) 

13日日曜日6時起床。地震と津波による被害の大きさに自分は何が出来るのか自問自答した。結論は協立を早く復旧させることが自分に出来ることだと改めて思い復旧の先頭に立つことを心に決めた。いつもより多くの朝食を取った。もしかしたらしばらく食べることが出来ないかもしれないと思ったからだ。

 

いつもと同じ7時半に出社した。幹部や従業員の人達が出社、メチャクチャになった2階事務所は5~6人で後片付けを行い、パソコンのネットワークのチェックを行い皆が出社する月曜に連絡が遅滞なく出来るようにするためだ。機械の水平出しは保全課の1チームがK1のスプール工場から作業を始めた。製造設備にとって機械の精密水平は命である。

 

前日、結城市で泊まるところを見つけ、朝一番でKYBの長谷川さんと池田さんが応援に駆けつけてくれた。私の旧知の人達なので心強く思った。まもなくクールテックから広瀬さん、宮原さん、上田さんが応援に来てくれた。皆さん60歳以上の超ベテランで、全体を統括する田所さんもお見えになり、状況把握に努めていた。その後クールテックは山下さんが加わり4名で水平出しをおこなった。感謝の気持ちでいっぱいだった。午前、コマツの小山工場と電話がつながり応援に行く用意をしているとの言葉をもらった。午後になるとコマツの西川さん、福本さん、鈴木さんが来社し、被害状況を把握し、必要な人数を決めるために打合せを行った。

 

17時頃、応援部隊の人達と共に早く終わることにした。出社出来た人が少ないので、ムリをすることはないと思った。本格的な復旧作業は月曜日からだ。長丁場になると決意を新たにした。出社出来た人達の家の状況を聞くと電気・水道が回復していないとのことだった。

 

機械商社の共和工機の社長・会長から全面的に支援するとの申し出を受けた。機械メーカーへの連絡・調整をお願いした。この日は携帯がつながらなく、何度も何度も電話をした。私はいつも予備の電池1個と補充充電アダプター1個を持ち歩いているが、今日は電池2個を使い切り補充充電アダプターを携帯に差し込んだまま使用した。こんなに電池を使ったのは初めてだ。このような大災害の時に携帯電話の重要さを再確認した1日だった。

 

家に帰ってからも余震が続いていたが、早く寝ることにした。明日も頑張ろう。

皆さんありがとう。

東北関東大地震(3) 

12日土曜日朝6時に起床。テレビで地震と津波の被害状況を見た。阪神大震災を思い出したが、それ以上の大惨事だ。軽い食事を済ませ、早めに会社にいった。自宅の復旧を最優先に行い、その上で出社できる人は出てきてほしいと前日に皆にアナウンスしてあった。20人位の人が出てくることが出来たので、それぞれの持ち場を中心に後片付けをすることにした。

 

私は普段座っている机とその周りの後片付けを行った。私と専務の机の後ろは保管書類のエリアと事務所を仕切っているガラス入りのパーテーションがある。後ろのガラスが横揺れの歪で割れてしまった。割れたガラスを一箇所に集め、周囲を掃除し自分の仕事場を確保した。更に役員室に入ると二段重ねの書類棚の上段部が全面のガラス方向に倒れてしまいガラスの破片と書類が散乱していた。この部屋は最後に片付ければよいと思い、現場の状況を把握するため工場に向かった。

 

私は専務と明日以降の復旧手順の打合せを行い現場事務所に常駐することにした。翌日は日曜日であるが、出勤できる人の人数を製造部長が連絡を取り確認し、それぞれの部署に就いた。

 

私はお客様と連絡を取り復旧の支援を仰ぐことにした。電話がつながらない中で最初に連絡が取れたのはKYBで、当社の被害状況の報告とKYBの被害状況の情報交換を行った。そしてすぐに今から必要な道具を持たせて2名行かせると連絡があった。結局、渋滞で12日中に到着できない旨の連絡があり、翌日朝一番で来社されることになった。

 

クールテックの越藤さんから携帯に電話がかかってきた。何か困っていることがあれば遠慮なく行ってほしいと、大変ありがたい言葉を頂いた。私は機械の水平出しを行う水準器が当社には2台しかないので、調達できないかとお願いした。越藤さんは快諾し、更に人手も出すと申し出てくれた。私は恥も外聞もなく、更に応援をお願いするため、その他のお客様、取引先、機械メーカー、機械商社に連絡を取り続けた。

 

従業員の人達には長丁場になる。早めに帰り、明日は日曜日であるが、出られる人は出てほしいとお願いし、復旧1日目は19時に終了した。自分たちの家も被害を受け、まだ電気も水道も回復していない中での復旧1日目だった。

ありがとう。

 

東北関東大地震(2)

私は片づけが終わっていない二階の寝室に行った。本棚が倒れて、ガラスと本がベッドの上に散乱していたので、寝る場所を確保するために後片付けをした。掃除を手伝っていた娘が、夫は海外出張で小山市の自宅が留守になっている。心配だと言うので、家族全員で車に乗り小山市に向かった。停電の中、暗く寒い家にいるより、車の中の暖房が良いと思った。又、食事の用意が出来ないので、小山市まで行けば何か食べることが出来るだろうと思った。小山市に向かうときには国道50号線は渋滞が予想されたので、裏道を通っていった。

 

この頃既に各々のガソリンスタンド前に20~30台の車の行列が出来ていた。私の車には3/4位のガソリンが入っていたので給油しなかった。40分ほどで娘の家に着いた。家の中の被害はほとんどなかったので、火気のチェック済ませ一緒に自宅に帰ることになった。途中、食事が出来る可能性の高い国道50号線を下っていったが、何もなかった。結城市に入った時に吉野家の牛丼店が開いていた。数人の人が並んでいたが、車を止めて店に行った。私達の前で「売り切れました」と店の人が大きな声で話しているのを、耳にしたとき急にお腹が空いてきた。それまでは空腹は感じていなかったが、食べられると期待が大きかったので、ガッカリした。

 

気を取り直して車を走らせていくと普段見慣れたファーストフード店やレストラン、コンビには皆閉まっていた。鬼怒川の橋を渡り終わり川島に入ると、すきやの牛丼店の看板の明かりが見えた。やはり数人の人達が店に入っていた。息子がお土産用の牛丼を買いに行ったが、ご飯がなくなってしまったので牛皿しか買えなかった。車の中で食べた温かい牛皿は美味しかった。

 

筑西市に入るころ大渋滞。1時間経ってもぜんぜん動かない。水戸線をまたいでいる陸橋が地震の被害で通行止めになった。通行止めのたて看板が眼に入った。迂回路に誘導されたが、狭い道では大型車がすれ違うことが出来ずますます渋滞した。ようやく車が順調に流れた頃、開いているコンビニを発見した。食料の類はほとんど売り切れだが、わずかに残ったパンを買うことが出来た。

 

家に帰る前、念のため工場に立ち寄って状況を確認しに行った。大分手前から会社の周辺で電気の明かりが見えた。既に当社の電気関係を管理している為貝電気が変電設備の点検をしていた。急いで家に帰り、電気が復帰したことを確認し暖房を入れた。23時を回っていた。余震が続いていたが、明日からの復旧作業のために休もうと思い、午前0時眠りについた。長い1日だった。

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