山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P79~80/P89)

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に入って、菅野三平のプロフィールをみて驚いた、忠臣蔵の一人だった。かすかな記憶で吉良邸の討ち入りに来られなかった義士がいることは知っていたが、菅野三平の事だった。大阪府指定史跡の説明によると「菅野三平重實は、江戸時代の延宝三年(1675)父重利、母小満の三男として当地に生まれた。三平重實は十三才の時に、父の主君である美濃の旗本大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂五万石 藩主 浅野内匠頭長矩の中小姓として疲れるようになった。


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元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城松の廊下で幕府勅使供応役の浅野内匠頭長矩が高家肝煎りの吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ赤穂事件の後、三平重實は大石内蔵助良雄を中心とするかたき討ちの同志に加わっていたが、三平重實を推挙した大嶋氏に迷惑がかかることを心配した父の反対と主君への恩義との板挟みに苦しみ悩み、ついに主君の月命日を自分の最後の日と決め、元禄十五年(1702)一月十四日、当地に於いて自刃し二十八才の生涯を閉じた。『涓泉(けんせん)』の名は三平重實の俳号で、多くの優れた句を残した文化人でもあった。」と記されてあった。討ち入り後、赤穂義士を預かっていた細川家の世話役が、大石内蔵助が生前「三平が生きていたら一列に加わるべき者であった。」と云う話を聞き、泉岳寺に明和四年(1767)に墓標を建てているとのこと。旧邸内を見学し、三平重實の人となり、俳人として、文化人としてこのような人物がいたことに感動を覚えた。 

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171号線に戻り、郡山本陣跡を目指した。清水交差点を右折し、府道1号線にでて、モノレールの豊川駅を左折すると、西国街道に入る。道なりに進んで行くと、勝尾寺川の橋を渡り、再度、勝尾寺川の鍛冶屋橋を渡って、まもなく郡山宿に入った。郡山宿は京都と西宮を結ぶ西国街道沿いに、かつて山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の五つの宿駅があり、郡山本陣はその中央にあって重要な役割を果たしていた。


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この本陣は、享保三年(1718)に類焼にあって、建物と共にほとんどの古記録が焼けてしまい、現在の建物は享保六年(1721)に、西国大名の寄付によって再建され、現存するのはここだけという。残された宿帳から、摂津・備前・備中・美作・四国の讃岐などの大名や、忠臣蔵で有名な赤穂城主・浅野内匠長矩が宿泊し、また慶応元年(1865)七月十五日に、明治天皇が立ち寄っているとのこと。この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、いつしか「椿の本陣」と呼ばれるように立ったとのこと。

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更に西国街道を進む。勝尾寺川沿いに、新豊川橋の交差点を真直ぐ行き、しばらく進むと「中川清秀由緒地」が目に入った。中川清秀は本能寺の変で信長が亡くなったことを、備中に出陣中の豊臣秀吉のもとに知らせ、その後の山崎の合戦では清秀は、秀吉軍の先鋒として活躍した。秀吉が柴田勝家と対立した「賤ケ岳の戦い」では秀吉軍として出陣したが、戦死した。清秀42歳だという。後に秀吉から賤ケ岳七本槍の一人として、勇猛さを伝えられた。

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更に西国街道を行く。程なく、勝尾寺川の橋を渡り、46号線の耳原交番北の交差点を直進し、名神高速道路の三島高架橋を右折して、道なりに行くと、安威川にでて、橋を渡り、東太田4丁目の交差点を右に曲がり、ナビに導かれるままに進むと「継体天皇陵陪塚ろ号」の石碑があった。団地の中に囲まれて、厳重に丈夫な網の格子で囲まれて     

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