山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P75~76/P89)

292-1.jpg戎開門神事福男選び」が正月に行われ、毎年テレビで報道されている。西宮神社の境内に入った時、この福男選びがここで行われていることに、初めて気が付いた。西宮神社を後にして、絵地図に載っている西国街道の甲武橋に向った。193号線を行き、西宮駅を右手に見て、通り過ぎ、産所町の信号を右折し2号線にでて、程なく札場筋の信号を左折し、171号線に出る。阪急神戸線を突っ切り、道なりに進むと、左側に西宮市立中央体育館・陸上競技場が見える。御手洗川橋手前を左折すると西国街道だ。


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川沿いをしばらく進むと小さな広田橋を渡り、左に曲がりすぐ右に曲がる。この辺りの西国街道は分り難い。津門川の橋を渡り、川沿いに進んで行くと、阪急今津線の門戸厄神駅(もんどやくじん) を右手に見て、踏切を横断する。ほぼ道なりに進み171号線に合流し、武庫川の甲武橋に到着したのは850分だった。橋を渡り終え、川沿いに旧道を左に曲がり、狭い歩道を進んで行くと「西国街道・髭の渡し」があった。説明板によると「江戸時代に武庫川を越える西国街道のし場があった。


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街道沿いの西昆陽(にしごや)村に髭を生やした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と名付けられた。参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国街道の新道(現国道171号線)が出来るまで続いた」とのこと。更に1キロ進むと左側に「師直塚」の石碑が目に入った。高師直は南北朝時代の武将で,このあたりで戦死したと云われている。南北朝時代の観応2年(1351年)2,幕府の将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と執事の高師直(こうのもろなお)は,尊氏の弟直義(ただよし)と打出浜(芦屋市)の戦いで敗れた。


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師直・師泰父子は京都へ帰る途中、武庫川を過ぎたあたりで敵方に襲われ討たれたと云われている。場所はよくわからないが、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、文化3年(1806)年完成の「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれている。大正4年(1915)になって村の人々が石碑を建てたが,その後場所が転々とかわって現在地に移ったとのこと。師直塚から10分位で昆陽寺(こやてら)に着いた。


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昆陽寺は天正5年(733)僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7(1579)織田信長の兵火にかかって、一山の堂塔を消失したという。山門は、旧西国街道に面して立っている。層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のもので、豪壮な山門は県かでも類例がなく貴重な構造であると云われている。次に向うのは「伝和泉式部の墓」まで、約3㎞の道のりだ。歩き始めて程なく、「西国街道の碑西天社前」」の信号を斜め右に曲がり、旧西国街道に入る。少し進むと「西国街道昆陽宿跡碑」の説明板が設置されてあった。

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更に進んで行くと、稲野小学校前の道標が立っていた。道標の詳しい事は分からなかった。伊丹警察署前の信号を通り過ぎると、「西国街道の碑」があった。碑には江戸時代には大名行列をはじめ商人や巡礼などが行き交い、俳人の松尾芭蕉や地理学者の伊能忠敬らもこの道を通ったと記されてあった。

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また碑には宿場町が西宮、昆陽、瀬川、郡山、芥川、山崎、京都までの道中筋宿場一覧表が記されてあった。少し先に伊丹坂の地蔵尊が在る所を斜め右方向に行くと、伝泉式部の墓に到着した。墓の周囲は一般の民家の駐車場らしきところであるが、ホームページでは「和泉式部の墓は、旧西国街道の伊丹坂に臨む崖上の小堂内にある、高さが152センチ程の花崗岩製の美しい五輪塔


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