2024年3月

山陽道・西国街道旅日記 十五日目(P82~83/P89)

十五日目 4月29日 土曜日

 

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5時起床。天気予報は薄曇り。足の調子は良い。それぞれ朝食を取り、7時出発だ。今日の予定は一乗寺、離宮八幡、正覚寺、寺田屋跡、ゴールの三条大橋だ。ホテルを出て、右に行くと、すぐに171号線にでる、左折し歩道を行く。二人で話しながら、進んで行き、井尻新幹線下の信号を新幹線沿いに進み、高槻上牧駅前郵便局のある交差点を左折し、東海道新幹線高架下を通り、進んで行くと67号線に合流する。

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この67号線が西国街道・丹波街道だ。しかし新西国街道の記述もあり、よく分からない。途中「梶原一里塚跡」の標識があった。この地は旧梶原村の東端に位置し、かつて、榎を植えた一里塚があった。旧芥川宿の芥川一里塚は今も現存しているとのこと。島村駅前の桜井一丁目に着いたのは810分頃だ。駅に隣接する楠の木公園があり、多くの史跡がある。史蹟桜井驛城址、水無瀬駒発祥のまち、楠公父子子別れの石像、楠公父子決別之所、楠公父子訣子之虜碑、桜井駅跡、明治天皇製碑、 楠公六百年祭記念碑等多くの楠公の史跡がある。

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計画段階ではこの楠の木公園の史跡は知らなかった。「楠公父子決児之處碑」は正成を顕彰した明治9(1876)11月に建立された。

296-3.jpgのサムネール画像

題字は大阪府知事渡辺昇の書。裏面には英国公ハリー・S・パークスの英文が刻まれている。楠正成・正行父子桜井の別れは、西国街道の桜井駅で、 楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。楠木正成は湊川の戦い 桜井に赴いて戦死し、今生の別れとなった。

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桜井駅の別れ、「太平記」の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であったとのこと。「駅」とは宿駅のこと。太平記によると、「桜井の別れ」のあらましは、建武35月(13366月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は大騒ぎとなった。

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新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ」という。

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楠公六百年祭記念石碑は昭和10516日に多数の参列者と盛大な式典がもたれたという。「明治天皇御製 碑」は昭和6(1931)に建てられた。明治天皇が明治31(1898) 行幸したときに詠んだ歌が刻まれている。石碑の表面が汚れていて読みにくいが、次のように刻まれていた。「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて 昔をしのふ さくらゐのさと」。和歌の素養がない自分でも十分に意味が伝わる歌だ。公園の史跡を見ていた私たちに声をかけてきた人がいた。史蹟の保護を担っているボランティアの人で、清掃をしていた60代後半の人だ。私が下関から旧

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P81~81/P89)

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いるが、みすぼらしい感じがした。調べてみると、目的地の場所を間違えた。東太田4丁目の交差点を左に曲がれば、太田茶臼山古墳(継体天皇陵)があったのだ。全体の地図を見ないで、継体天皇のキーワードだけで選択したので、間違えてしまった。

継体天皇はなぞに満ちた天皇と言われている。『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君と伝えられる25代・武烈天皇が崩御したが、子がなかった。仁徳天皇から続いてきた直系の皇子が不在になったという。そこで越前(福井県)の傍系から婿を迎え入れるかたちで、新たな王が生まれた。これが継体天皇である。彼は武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。

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継体天皇は応神天皇の5世の孫とされる。また稚野毛二派皇子(応神天皇の第5皇子)を高祖父に持つ家柄であったとされる。もともとは父の居住地である近江 (滋賀県)で生まれ、父の死後は母の実家とされる越前で育った。子孫とはいえ応神天皇から100年は超える疎遠な傍系王族だったとのこと。太田茶臼山古墳(継体天皇陵)の見学は、ホテル到着が予定より遅れているので、そのまま高槻に向うことにした。171号線にでて、左折し、高槻駅に向かい、高槻サンホテルに着いたのは、予定よりも大分遅れて午後5時半だった。

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到着と同時に友人の松本さんにメールを送った。昨年の中山道の旅で十三日目に彦根から守山宿の約40kmを一緒に歩いた友人だ。ホテルで待ち合わせし、翌日の京都までを一緒に行く予定だ。松本さんから到着のメールが入り、早速ホテル近くの焼き肉屋に入り、ビールと焼肉を堪能した。飲みながら話が弾んだ。朋あり遠方より来たるまた楽しからずや。京都までの予定を確認して、820分に店を後にし、ホテルに帰った。10時就寝。

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P79~80/P89)

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に入って、菅野三平のプロフィールをみて驚いた、忠臣蔵の一人だった。かすかな記憶で吉良邸の討ち入りに来られなかった義士がいることは知っていたが、菅野三平の事だった。大阪府指定史跡の説明によると「菅野三平重實は、江戸時代の延宝三年(1675)父重利、母小満の三男として当地に生まれた。三平重實は十三才の時に、父の主君である美濃の旗本大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂五万石 藩主 浅野内匠頭長矩の中小姓として疲れるようになった。


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元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城松の廊下で幕府勅使供応役の浅野内匠頭長矩が高家肝煎りの吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ赤穂事件の後、三平重實は大石内蔵助良雄を中心とするかたき討ちの同志に加わっていたが、三平重實を推挙した大嶋氏に迷惑がかかることを心配した父の反対と主君への恩義との板挟みに苦しみ悩み、ついに主君の月命日を自分の最後の日と決め、元禄十五年(1702)一月十四日、当地に於いて自刃し二十八才の生涯を閉じた。『涓泉(けんせん)』の名は三平重實の俳号で、多くの優れた句を残した文化人でもあった。」と記されてあった。討ち入り後、赤穂義士を預かっていた細川家の世話役が、大石内蔵助が生前「三平が生きていたら一列に加わるべき者であった。」と云う話を聞き、泉岳寺に明和四年(1767)に墓標を建てているとのこと。旧邸内を見学し、三平重實の人となり、俳人として、文化人としてこのような人物がいたことに感動を覚えた。 

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171号線に戻り、郡山本陣跡を目指した。清水交差点を右折し、府道1号線にでて、モノレールの豊川駅を左折すると、西国街道に入る。道なりに進んで行くと、勝尾寺川の橋を渡り、再度、勝尾寺川の鍛冶屋橋を渡って、まもなく郡山宿に入った。郡山宿は京都と西宮を結ぶ西国街道沿いに、かつて山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の五つの宿駅があり、郡山本陣はその中央にあって重要な役割を果たしていた。


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この本陣は、享保三年(1718)に類焼にあって、建物と共にほとんどの古記録が焼けてしまい、現在の建物は享保六年(1721)に、西国大名の寄付によって再建され、現存するのはここだけという。残された宿帳から、摂津・備前・備中・美作・四国の讃岐などの大名や、忠臣蔵で有名な赤穂城主・浅野内匠長矩が宿泊し、また慶応元年(1865)七月十五日に、明治天皇が立ち寄っているとのこと。この本陣の正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、いつしか「椿の本陣」と呼ばれるように立ったとのこと。

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更に西国街道を進む。勝尾寺川沿いに、新豊川橋の交差点を真直ぐ行き、しばらく進むと「中川清秀由緒地」が目に入った。中川清秀は本能寺の変で信長が亡くなったことを、備中に出陣中の豊臣秀吉のもとに知らせ、その後の山崎の合戦では清秀は、秀吉軍の先鋒として活躍した。秀吉が柴田勝家と対立した「賤ケ岳の戦い」では秀吉軍として出陣したが、戦死した。清秀42歳だという。後に秀吉から賤ケ岳七本槍の一人として、勇猛さを伝えられた。

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更に西国街道を行く。程なく、勝尾寺川の橋を渡り、46号線の耳原交番北の交差点を直進し、名神高速道路の三島高架橋を右折して、道なりに行くと、安威川にでて、橋を渡り、東太田4丁目の交差点を右に曲がり、ナビに導かれるままに進むと「継体天皇陵陪塚ろ号」の石碑があった。団地の中に囲まれて、厳重に丈夫な網の格子で囲まれて     

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P77~78/P89)

293-1.jpgのサムネール画像です。今現在残っているには、塔身と一石彫成の請花・宝珠だけで、火輪と地輪を欠かしているのが惜しまれます。塔身は、高さ58.5センチ、請花は高さ21センチ、宝珠の高さは39.4センチありますが、本来の完全な形であれば、総高230センチもある、大形塔です。」とある。石碑には平安時代の有名な歌人で和泉守橘道貞に嫁いだことから、この名前がつけられた。道貞と離別後、藤原保昌と再婚し、保昌が摂津国河辺郡平井(現宝塚市)の人であったことから、この地に供養塔が立てられたとのこと。293-2.jpg和泉式部の墓や供養塔を伝える石塔は各地にあるが、これは女性の遊行聖(ゆうぎょうひじり)が和泉式部の名で各地を回り、信仰を広めたことに由来するものと考えられるとのこと。式部の歌の中で、伊丹に関係のある和歌は「津の国 こや(昆陽)とも人を いふへきに ひまこそなけれ 芦の八重葺」と歌われたただ一首とのこと。泉式部の墓を後にして、西国街道に戻った。
10分程でJR宝塚線を渡って、T字路にぶつかる。左に曲がると北伊丹東有岡線にでて、川沿いを行くと171号線にでて、右に曲がり猪名川の軍行橋を渡った。293-3.jpg京都・茨木の標識が目に入り、ゴールの京都に近づいている実感がわいてきた。そのまま進んで行くと突き当りになり、左に曲がって、2号線を渡り、新開橋の信号を右に曲がり、箕面川の橋を渡った。道なりに行くと西国街道に出た。そのまま進み中国縦貫自動車道の高架下を通ってすぐに左に曲がると、西国街道に出た。この辺りの西国街道は分り難い。池田市住吉2丁目の交差点を真直ぐ進み、阪急宝塚本戦の踏切を渡ると、すぐ左側に旧石橋村の高札場跡と道標があった。道なりに進むと石橋阪大下の五差路を斜め右に進んだ。

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この右手の方に大阪大学がある。そのまま進み、171号線を横断して箕面川手前の十字路を右に曲がり、5分程で阪急箕野線桜井駅に着いた。桜井駅を右手に見て進み、171号線に合  流したころ、お昼を過ぎていたので、街道沿いのそば屋に入り、ざるそばを食べ、30分程休憩した。

蕎麦屋を出て171号線を進んだが、途中で西国街道に出るのを間違えてしまった。戻るのも面倒なのでそのまま171号線を進んだ。歩道を歩く人はあまりいないが、前方から自転車を引いて歩いて来る男の人がいた。すれ違いざまに「えろー、焼けてまんな」と声をかけてきた。一瞬、意味が分からなかったが、私の顔が異常に日焼けして真っ黒なことを言っていると分かったので、「下関から旧道を歩いて14日目です」と答えると、「げぇ」と声を上げた。

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簡単に下関から京都まで歩いていることを説明した。「いくつになりまんね」と言われたので、73歳だと答えた。「げぇ」と、また驚いた顔をした。私と同じ位の年齢だと思ったので、「お宅さんはおいくつですか」と聞いたら、「とてもとても」と言って別れた。どうやら私よりもだいぶ下で60代半ばのようだ。程なく、菅野三平旧邸の案内板が見えた。途中、「芝村の高札場跡」の案内板があった。それによると「江戸時代、幕府や領主からだされたお触れを掲示する場所で、旧西国街道が通っており、人通りが多いところで、また一里塚あったことが古地図記されている」と記されていた。すぐ近くに菅野三平旧邸がある。今回の旅で菅野三平ことは全く知識がなかった。
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大橋さんが作ってくれた絵地図に西国街道のチェックポイントとして、行程表に入れたに過ぎなかった。記念館

山陽道・西国街道旅日記 十四日目(P75~76/P89)

292-1.jpg戎開門神事福男選び」が正月に行われ、毎年テレビで報道されている。西宮神社の境内に入った時、この福男選びがここで行われていることに、初めて気が付いた。西宮神社を後にして、絵地図に載っている西国街道の甲武橋に向った。193号線を行き、西宮駅を右手に見て、通り過ぎ、産所町の信号を右折し2号線にでて、程なく札場筋の信号を左折し、171号線に出る。阪急神戸線を突っ切り、道なりに進むと、左側に西宮市立中央体育館・陸上競技場が見える。御手洗川橋手前を左折すると西国街道だ。


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川沿いをしばらく進むと小さな広田橋を渡り、左に曲がりすぐ右に曲がる。この辺りの西国街道は分り難い。津門川の橋を渡り、川沿いに進んで行くと、阪急今津線の門戸厄神駅(もんどやくじん) を右手に見て、踏切を横断する。ほぼ道なりに進み171号線に合流し、武庫川の甲武橋に到着したのは850分だった。橋を渡り終え、川沿いに旧道を左に曲がり、狭い歩道を進んで行くと「西国街道・髭の渡し」があった。説明板によると「江戸時代に武庫川を越える西国街道のし場があった。


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街道沿いの西昆陽(にしごや)村に髭を生やした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と名付けられた。参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国街道の新道(現国道171号線)が出来るまで続いた」とのこと。更に1キロ進むと左側に「師直塚」の石碑が目に入った。高師直は南北朝時代の武将で,このあたりで戦死したと云われている。南北朝時代の観応2年(1351年)2,幕府の将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と執事の高師直(こうのもろなお)は,尊氏の弟直義(ただよし)と打出浜(芦屋市)の戦いで敗れた。


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師直・師泰父子は京都へ帰る途中、武庫川を過ぎたあたりで敵方に襲われ討たれたと云われている。場所はよくわからないが、江戸時代の山田村にはすでに高師直塚があり、文化3年(1806)年完成の「山崎通分間延絵図」にも塚地が西国街道北側に描かれている。大正4年(1915)になって村の人々が石碑を建てたが,その後場所が転々とかわって現在地に移ったとのこと。師直塚から10分位で昆陽寺(こやてら)に着いた。


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昆陽寺は天正5年(733)僧行基の開創と伝えられている。その後、天正7(1579)織田信長の兵火にかかって、一山の堂塔を消失したという。山門は、旧西国街道に面して立っている。層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のもので、豪壮な山門は県かでも類例がなく貴重な構造であると云われている。次に向うのは「伝和泉式部の墓」まで、約3㎞の道のりだ。歩き始めて程なく、「西国街道の碑西天社前」」の信号を斜め右に曲がり、旧西国街道に入る。少し進むと「西国街道昆陽宿跡碑」の説明板が設置されてあった。

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更に進んで行くと、稲野小学校前の道標が立っていた。道標の詳しい事は分からなかった。伊丹警察署前の信号を通り過ぎると、「西国街道の碑」があった。碑には江戸時代には大名行列をはじめ商人や巡礼などが行き交い、俳人の松尾芭蕉や地理学者の伊能忠敬らもこの道を通ったと記されてあった。

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また碑には宿場町が西宮、昆陽、瀬川、郡山、芥川、山崎、京都までの道中筋宿場一覧表が記されてあった。少し先に伊丹坂の地蔵尊が在る所を斜め右方向に行くと、伝泉式部の墓に到着した。墓の周囲は一般の民家の駐車場らしきところであるが、ホームページでは「和泉式部の墓は、旧西国街道の伊丹坂に臨む崖上の小堂内にある、高さが152センチ程の花崗岩製の美しい五輪塔


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