東海道五十三次旅日記(25)

東海道五十三次旅日記
東海道25-①.JPG

正確には兄の信雄に切腹を命ぜられた悲運の武将とも云われている。戦国時代の小説を数多く読んでいた私にとって感慨深いものがあった。この時の時刻は630分。朝はやいので、町の人はあまり見かけなかった。ここから坂下宿を通って、最後の難所の鈴鹿峠越えだ。国道1号線に並行して旧街道を行くと鈴鹿馬子唄会館に着いた。50歳の時、先輩方の誘いで小唄の「松風」の門人になり、53歳で名取になった。名取名は師匠の松風若裕の一字を頂き、松風裕日出と称した。名取式を四ッ谷の神社で神主にお祓いを受けたことが、記憶に新しい。
江戸小唄を中心に芝居小唄・歌舞伎小唄・新内・端唄等を稽古した。10年程前に小唄の会は退会したが、時々口ずさむ。友人からぜひとも鈴鹿馬子唄会館に立ち寄って鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」を聞くように勧められた。昔から最後の難所である鈴鹿峠は手前の坂下宿では晴れているが、鈴鹿峠に来ると曇って、土山宿に入ると雨が降っているという、当時の天候が鈴鹿峠を境に大きく変わることを、馬子が馬の手綱を引きながら唄っていたと云う。
東海道25-2.JPGのサムネール画像のサムネール画像

馬子唄会館に到着した時間が早かったため、まだ開いていなかった。残念。関宿を過ぎてから、ダラダラとした上り坂、坂下宿を過ぎたころから急勾配になったが、旧街道は舗装されていたので、歩く易かった。しかしなかなか 鈴鹿峠の道標が見つけられないうちに、下り坂になってきた。私の鈴鹿峠のイメージは峠の一番高い所に行くと、360度周りが見渡せると思い込んでいたため、少し拍子抜けした。下り坂なので、足が進んでいく。10時頃「道の駅土山」があったので、少し早い昼食を取った。店員さんのお勧めの十割蕎麦を食べた。歩く旅でしか味わえない美味しさだった。40分ほど休息を取り、出発した。水口宿に入るころには道は平たんで、歩道は広いので、歩き易かった。水口宿は古くからの宿場町であると同時に城下町でもあったが、関ケ原合戦後に落城し、幕府の直轄地になったと云う。水口宿から石部宿まで平坦な国道をひたすら歩き、ホテルに到着した。石部宿は三条大橋から36km、京から江戸へ向かう旅人が最初に泊まる宿場だ。国道1号線を歩いたため、宿場時代の遺構はほとんど見なかった。到着はほぼ予定通りの15時半だった。部屋に入ってバスタブに水を張り、疲れた足を冷やす。コールドスプレーよりはるかに効き目があるので、中途からこの方法に切り替えた。翌日の京都の天気予報は午後から雨、朝早く出発して昼前には三条大橋に着くようにしよう。9時就寝。

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