茨城におけるものづくり企業経営史(8)

.茨城(現筑西市)への進出の経緯

 

質問者:どうもありがとうございました。それでは,以上のご説明を踏まえて,さらにいくつかの質問をさせていただきたいと思います。はじめに、大学を卒業した後に,生まれ育った東京ではなく,わざわざ茨城に来て新たな展開をはかろうとした理由は何でしょうか。

 

高橋:子供の時から東京にあった工場は2階建てで,1階が工場,2階が住まいと事務所でした。そしてその2階部分には中卒で入社した住み込みの従業員もいて,その人達と一緒に生活していました。子供の時からずっと父の工場を見ていたわけですが,当時の零細企業は何が一番大変かといえば,なかなか人が集まらないことでした。私がちょうど大学を卒業した頃は,東北とか北海道から中卒の人が集団就職でやってくる時代でしたが,中小企業には人が集まらない。我社でも新潟などあちこちに行き,1617歳の子に来てもらい,私の母親にその子たちの面倒をみてもらいながら働いてもらいました。しかしちゃんと手に職をつけてずっと働き続ける人は少なかった。それでこのまま東京でやっていても思うように人が集まらないと考えました。

 

それならば東京ではもういいかな,地方に行けば人が集まるかなと思い,茨城に来ました。しかし,こちらに来てもなかなか人が集まらず,それが勘違いだったとわかりました。しかしその頃はそのように考え,私が会社を継ぐために父に出した唯一の条件が,「地方に工場を作ってくれれば自分がそこに行き跡を継ぐ」というものでした。一応,土台はありますから,ここ(茨城)に人を集めさえすれば大丈夫だと考えました。ものを作る技術は今から学ばなくてはいけないけれど,できないことはないとう気持ちでやって来たのです。

 

質問者:今のお話ですと,茨城にやって来て自分が思っていたのとは違ったそうですが,そのことに気づいた時は,どのように考え直して経営を続けられたのでしょうか。

 

高橋:最初の予想と違っていましたが,そんなものかなという感じでした。最初私がここに来た当時の敷地は20坪ほどで,門も何もありませんでした。雑木林の中に工場だけがぽつんとありました。ですから,今で言うハローワークから人が来る際には,我社の場所がわからなくて帰ってしまうようなこともありました。

 

質問者:現在でも工場の周辺に雑木林が残っていますが,当時は周囲全体に広がっていたわけですか。

 

高橋:そうです。この周辺はまだ家がほとんどありませんでした。当時は,夜の9 11時頃まで一人で残業していました。機械が動いている時は音があるから気にしませんが,機械を止めた瞬間あたりがシーンと静寂というか東京にいた時には味わったことのないような感じがありました。

 

質問者:高橋社長は「茨城生まれの東京育ち」なわけですから,「自分がなんで田舎に行かなければいけないのか」と思うことはありませんでしたか。

 

高橋:友人達には「なんで都落ちするのか」とずいぶん言われました。しかし私にはそんな感覚は全くありませんでした。だから別に茨城県じゃなくてもよくて,鹿児島なら鹿児島,北海道なら北海道でもいい。そこで自分の生活基盤をしっかり作りたいというのがありました。なぜそのような考え方になったのかといえば,大学1年の時に学園紛争があって,私も色々な集会に参加しました。そのなかで一番疑問に思ったのは,集会の主催者、この人たちはいったい何を生活の基盤として活動しているのかという点でした。私自身,働いているわけではなく,親のスネをかじりながら集会に参加していることに疑問を持ちました。それで私は学生の時から,いち早く経済的に自立したいという考えが強くなりました。ですから社会に出る際にも,別に都落ちしようが,何しようが自分の生活基盤をちゃんと作りたいと考えていました。そんなわけで結婚も早く,23歳の時でした。

 

質問者:茨城に工場を構える場合,日立地域への立地を考えましたか。

 

高橋:考えませんでした。私が「地方に出たい」と言った時に,父親は「全然知らない土地には行きたくない」ということでした。父の実家がここ(筑西市)から30分くらいのところにある農家でした。その近くで,また知り合いも何人かいたので,ここの土地を求めました。そういうわけで日立地区に行こうという考えはありませんでした。また仮にあの頃日立地区に行ったからといって,ただちに日立製作所と取引ができたとは思いません。地元がしっかり固まっていて,よそ者が入っていってもすぐにビジネスにつながるものではなかったと思います。

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