リーマンショックから3年過ぎて(2)

ヵ月後、雇用調整助成金の申請を行い09年1月から3勤4休の勤務体制を敷き、9月まで継続した。月曜日は幹部のみ出勤し会議を行い、金曜日は完全に休んだ。我社の弱みである生産管理システムを強化するため、08年11月から09年2月の4ヶ月間工場長をチームリーダーに各部署から人員を引き抜き5名のプロジェクトチームを作って改善を進めた。

 

私の事業再構築の骨子は、受注は80%減、売上高は20%しかないが、世界の需要は50%減である。お客様の在庫調整が終われば、最低でも売上高は50%まで回復する。我社の経営を50%でも継続できる体質にすれば生き残ることが出来ると思った。

 

この間、取引先の金融機関に融資のお願いをするため、出来るだけの資料を用意してコミュニケーションを欠かさなかった。私は社長になった18年前から月に1回、各金融機関の支店に出向いてコミュニケーションを図ってきたが、リーマンショック後は金融機関に今回の米国発の不況は従来と異なると説明し、従来通りの融資を統制するため、3カ年計画を作成し背景を説明した。結果として4行が計画通り融資が実行され、1行が6ヶ月遅れて実行された。

 

金融庁のガイドラインで中小企業の格付け審査をするときに、劣後債は資本勘定で良いとの通達が出たので、2009年9月に日本政策金融公庫より劣後債を入れ、資本の増強に努めた。茨城県では協立製作所が第一号だった。劣後債を入れるときの審査は大変厳しかった。最初に事務方同士で徹底的に帳簿のチェックを行い、最後は私と後継者へのインタビューであった。約3時間、我社が何度か事業の業態を変えて行った時の考え方を多く聞かれた。大変熱心で創業のときから私が社長になってどのように事業に取り組んでいったか質問に対して丁寧に答えた。私の後に息子である後継者へのインタビューが始まった。事前のアドバイスは一切していなかった。

 

2009年9月頃予想通りお客様の在庫調整が終了し、受注が戻ってきた。2010年は急速に受注が回復したので、4月から約半年で130人増員し生産に対応していった。2011年 1月決算時の売上高は2007年度過去最高に迫る回復をした。まさにジェットコースターに乗っているような経営である。2011年2月新しい期を迎えてリーマンショックで痛んだ財務を回復させようとした時に、3月11日14時46分あの大震災が起こった。

 

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