東京工場閉鎖(2)

 東京工場は昭和39年(1964年)に品川区東中延の現在の地に移ってきました。それまでは、  1キロ位離れた所にある荏原4丁目の平塚小学校のすぐそばにありました。1階が工場、2階が住居という当時としては典型的な零細企業の体をなし、総勢で7~8名の人が働いていました。協立製作所は昭和29年(1954年)に創業しました。創業は私の父(現会長)と叔父(父の弟)の二人で、切削工具の研削加工を主体に営業を始めました。創業して10年後、業績も順調に推移し工場が手狭になったため、近くにある工場を購入し、移転しました。このことをきっかけに二人は独立し、叔父は創業の場所を引継ぎ「高橋研磨(現ミクロテック)」を設立し、工具・部品の研削加工から金型の研削加工へと新たな方向性を見出していきました。

 会長は移転先(現本社)の場所で、(有)協立製作所を引き継ぎました。ここでも1階が工場で2階が住居で、家族4人と住み込みの従業員1人の5人の構成で、従業員7~8人を引き連れ、新生(有)協立製作所として第一歩を踏み出しました。移転後まもなく油圧機器メーカーである萱場工業㈱東京工場殿と取引をすることが出来、工具と油圧機器の研削加工を行う会社として、新たな方向へと舵を切りました。数年後、工具関係の仕事から油圧機器部品の研削加工に絞って業務を拡大していきました。今で言う「集中と選択」です。ここを原点として油圧機器専門の研削加工メーカーとして新たな旅立ちが始まりました。私が高校生のときでした。

 20年後の昭和59年4月(1984年)現本社の新社屋を完成させました。この頃、茨城工場は第三期工事が終わり、順調に業績を拡大していき、茨城工場で機械加工を行い、次工程の熱処理は外注で、最終工程の研削加工は本社工場で加工し、精密油圧部品の一貫加工のモデルを完成させていました。1、2階が工場、3階が事務所、そして最盛期には本社の斜め向かいに工場を賃借して25人の従業員が働いていました。本社は会長と次男の茂が研削加工専門の工場として、高い研削技術を武器に順調に業績を伸ばしていきました。しかし、弟(当時専務)は病に倒れ、11年前の平成 10年(1998年)5月に亡くなりました。当時、日本は金融危機の最中で、賃貸工場は閉鎖して、 本社工場の事業を縮小し1、2階だけで営業するようにしました。弟が亡くなってから統率者がいなくなり、徐々に従業員が少なくなっていきました。閉鎖前には5人しか従業員がいないこともあり、大勢に影響はありませんが、一つの時代が終わったとの思いはぬぐいきれません。

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