油圧との出会い(1)

新工場に移転した昭和39年、高速度鋼の刃物が好調だったこともあり、順調に業績を伸ばし、従業員も10人を超えるようになった。しかし業容拡大と共に常に伴う問題は従業員の不足である。当時、中学卒業者は金の卵ともてはやされ、東京に集団就職する人達が大勢上京する上野駅の光景が数多くニュースで流れていた。小企業は常に従業員不足を補うため、経営者自らが深夜残業・徹夜・休日出勤を行い、文字通り身を粉にして働いていた。工具の研削作業は最終工程のため、支給品(前工程)の納期遅れを取り戻すには焼入れ後すぐに研削加工をしなければならなかった。納期は常に特急で自社の都合など関係なく、納期を間に合わせるため必死に働いた。なぜならこの時代は今日一生懸命働けば、明日の生活はもっと良くなる、1年後はさらに良くなる、と貧しくても希望に満ちた高度成長時代であった。

 

しかしある時、従業員が団結して残業を拒否するという事件が起きた。最終工程の二次下請け業を行う協立製作所が、お客様に残業が出来ないから納期に間に合わない等と言うことは、仕事を他の業者に回されてしまい結果として倒産してしまう。だからこそ従業員にはどんなに遅くても21時までの残業で終わらせ、残りの仕事は社長が自らで遅くまで、時には夫婦で作業していた。このような事情を話しても理解されてもらえず話は物別れに終わった。そこで庫吉は仕事の大半を知り合いの零細企業の人達に仕事を回して危機を乗り越えた。しばらくして従業員の代表から残業に協力するから元に戻してほしいと要請があり、この事件は短期間で解決した。

 

昭和42年頃、庫吉は親会社T社の懇親旅行会に参加した。懇親会は和気あいあいと進み酒宴の終わった後、二次会の席で同業者が親会社の社長と酒の勢いもあり口論(いじめられていた?)になった。親会社の社長ということもあり、誰も止めに入らなかったので、庫吉は義侠心を発揮し止めに入ったところ、止め方が生意気だと自分の方に矛先が向いたが、ようやく収まったかと思ったとき「協立の仕事は切ってやる」と捨て台詞を残して部屋を出たという。私は中学生の頃から夏休みや春休みに現場の仕事を手伝っていたので、この頃のことは事情を良く承知していた。

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